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3章 1-1

3章 1  日曜日、午前11時。  正哉が絵里奈の家のインターホンを鳴らすと、珍しく絵里奈が自らドアを開けた。まだ寝巻き姿で長い髪は乱れ、寝起きのようだが休日のこの時間に起きているのは珍しい。  「おはよう、ちゃんと起きてたんだ」  正哉がそう言うと、絵里奈はにこりと笑った。そして正哉に抱きつく。  「そりゃあね」  そう言うならいつもちゃんと起きていて欲しいものだ、と思いながら正哉は彼女を自分から離れさせ、部屋に上がった。  昨夜、正哉はSNSのメッセージで絵里奈に今日家に行くことを伝えていた。週末に彼女の家に上がるのはいつものことなので特に用件は伝えていない。しかし正哉の心持ちとしてはいつもと全く違う。  絵里奈の家は先々週来た時と同じくらい汚い。あれから酷くなっていないということは彼女なりに頑張ったのかも知れないが、これではまだ祥哉を家に上げることもできないだろう。 逆にもし彼女にちゃんと掃除する能力があったら、と思うと正哉は気分が悪くなった。  部屋に入ったところで立ち止まったままの正哉の顔を絵里奈が覗き込む。  「お兄ちゃんどうかした? 何か元気ない?」  「…………絵里奈」  彼女を見下ろす正哉。結局またあまり眠れていないし、勿論元気はない。今日は彼女の家事の手伝いをしに来たわけではないのだ。これ以上先延ばしにできないことがあるから来たのだ。  首を傾げている彼女に、正哉は重い口を開く。  「祥哉さんに、付き合いたいって言ったの?」  その質問に彼女は目を丸くした。そして少し頬を赤らめて俯く。  「何で知ってるの……?」  「祥哉さんから聞いた」  「え?」  「彼のこと、本気なんだね?」  「も、勿論本気だよ!」  絵里奈に睨むように見上げられる正哉。真っ直ぐな黒い瞳が痛い。彼女はきっといつだって正直に、向き合おうとしてくれている。  「……座って話そうか」  ただならない正哉の様子に絵里奈は戸惑った顔をしている。  キッチンの前を通り過ぎ、2人は居間に入る。床はほとんど物で埋まっていたので、万年床に2人で並んで座った。しかし座ってからもなかなか口を開こうとしない正哉に、絵里奈が先に言う。  「お兄ちゃん、何か今日変だよ?」  「……ごめん。もうずっと考えてたんだ、絵里奈のこと」  「私のこと?」  絵里奈はますます戸惑っているようだ。長年一緒にいて何を今更そんなに悩むことがあるのか、彼女にはわからないだろう。  正哉は一度長く息を吐き、彼女に言う。  「1つ、言っておきたいのはね、私は絵里奈に幸せになってほしいと思ってる。これは私も本気なんだ」  「……でも、お兄ちゃんは私に祥哉さんと付き合ってほしくないと思ってるよね?」  「うん、そうだよ」  「何で? 私は祥哉さんと一緒になれたら幸せだよ? お兄ちゃんは私のことちゃんと見てない」  彼女の言葉に正哉は目を伏せた。長い睫毛が頬に影を落とす。その哀しげな琥珀色の双眸に、絵里奈は更に何か言おうとするのをやめた。  一拍置いて正哉が口を開く。  「そうだね、私は絵里奈とちゃんと向き合ってこなかったかも知れない。だって……怖かったから」  そう言った正哉の声は小さく、震えていた。唯一自分が向き合えていると思っていた妹。しかし昨日祥哉と話し、一晩考えた結果、正哉は彼女から目を背け続けてきたという事実を認めざるを得なくなってきた。  ずっと気づいていて、気づかないふりをしてきた。長く一緒にいれば当然起こること。そしてそれは多くの場合、どこかで破綻する。  正哉は両手の拳を膝の上で握り締め、覚悟を決めたかのようにもう1度口を開く。  「絵里奈は、私のことが好きだよね?」  「え……うん」  何を今更、と言いたそうな彼女を見て、正哉は首を横に振る。  「そうじゃなくて、男として……恋愛対象として、好きだよね?」  正哉の言葉に絵里奈の表情が固まった。  それは長年の間、正哉が怖くて彼女に聞けなかったこと。知ってしまったら関係が変わってしまう、もしかしたら終わってしまうかも知れない。人間として彼女が好きで、大事だからこそ目を逸らし続けてきた。  「な、何言って……」  そう言いかけて、絵里奈は口を噤んだ。泣き出しそうな正哉の顔を見て、辛そうに俯く。  正哉は今まで普通の兄妹より明らかに多いボディータッチを気にしないようにしていた。それに昔彼女が隠れて自分が着ていた衣服の匂いを嗅いでいたのも、自分が寝ている時にキスしてきたのも全て知らないふりをしていた。  下を向いていて表情の見えない彼女の肩が震えている。  「…………わかってたんだ、お兄ちゃん」  「うん……」  「でも、お兄ちゃんは……男の人が好き、なんだよね?」  涙声で彼女にそう言われ、正哉も驚愕した。  「……知ってたの?」  「知ってたよ、だってこんなに長く一緒にいるんだもん……」  お互いに知っていて知らないふりをしていた。それで上手くいっていたのだからいいと思っていた。  もし絵里奈と祥哉が付き合うなら、絵里奈も祥哉も正哉も、今の2人以上に色んなことに目を瞑っていかなくてはならなくなる。やはりそんなことはできないと正哉は思う。  「私とは付き合えないから、祥哉さんと付き合うの?」  正哉がそう言うと、絵里奈は顔を上げた。眼鏡の奥の両目からは涙が溢れている。  「それは違うよ。祥哉さんは祥哉さんだよ」  「本当に?」  「確かにお兄ちゃんのことはずっと好きだから、お兄ちゃんみたいな人と付き合いたいって思う。祥哉さんは本当にお兄ちゃん似てる……けど、代わりにはならないよ」  絵里奈は本当に祥哉を1人の人間として好きになったようだ。無論正哉と似た男だというところは大きいのだろうが、彼女はちゃんと祥哉と向き合おうとしているのだ。  それでも──否、それならば尚更本当の彼を教えなければならないと正哉は意を決する。

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