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3章 1-2

 「そう……あのね絵里奈。祥哉さんは君が思ってるような人じゃないと思う」  「どういうこと?」  「君を傷つけたくなくて今まで言えなかった……けどもう、私は逃げたくないんだ。わかってほしい」  「何?」  絵里奈は既に正哉に恋愛感情を抱いていたことを知られていたと分かり、傷ついているだろう。その上で更に真実を告げるのは酷だが、正哉は伝えねばならない。  「先月、私と祥哉さんと絵里奈で実家に行ったよね?」  「うん」  「その日、私は祥哉さんを私の家に連れて行った」  「そうだったね」  「その時私は彼と寝たんだ」  正哉の言ったことに、怪訝そうな顔をしていた絵里奈の表情が驚愕へと変わる。  「…………寝たって……」  「私の家で彼とセックスした」  「じょ、冗談でしょ? お兄ちゃん……」  「流石に今冗談は言わないよ」  「…………」  絵里奈は何も言わなくなり、再び俯いて膝の上の自分の手を見ている。  スマートフォンを取り出し、SNSの祥哉とのやりとりを開いて彼女の前に置いた正哉。  「私は軽い気持ちでしてしまったけど、それからあの人は私に執着するようになった。君に近づいたのも多分私の気を引きたかったからだよ」  絵里奈はスマートフォンの画面を見て息を飲んだ。そこには正哉と祥哉がセックスした次の日の、絵里奈に関するやり取りが示されている。  正哉から彼女の顔は見えないが、彼女の膝に水滴が落ちるのが見えた。彼は彼女の方に身体を向け、頭を下げた。  「私の軽はずみな行動のせいで絵里奈を傷つけた。ごめん」  「嘘だよ、こんなの」  「絵里奈……」  「だって祥哉さんと、あんなにたくさん話して……本当に、好きで、だから……」  混乱した絵里奈の口から出る言葉はうわ言のようだ。震える手が目の前に置かれた正哉のスマートフォンを掴む。そして泣きながら彼女は正哉を睨みつけ、彼にスマートフォンを投げつけた。  「嘘だよ!!」  「うわっ」  正哉は飛んできたスマートフォンが頭部に当たる手前でキャッチした。  しかし今度は絵里奈が掴みかかってくる。彼女は正哉にのしかかって布団の上に押し倒し、彼の上に馬乗りになった。  「何でこんなの見せるの? お兄ちゃんは私に幸せになって欲しいんじゃないの?! お兄ちゃんはいつもいつも私に恋愛させようとしないよね?! お兄ちゃんは私のこと愛してくれないくせに!!」  彼女は喚きながら拳で何度も正哉を殴った。大して痛くはなかったので、正哉は顔を庇いながら抵抗はせず、ただ彼女に想いを訴える。  「違うよ! 私だってちゃんとした相手だったら何にも言わないさ!」  「私がちゃんとした人だって思えればそれでいいよ! 祥哉さんは優しいし、絶対嫌なことしないもん!!」  「本当に好きならちゃんと向き合えよ!」  「どの口がそんなこと言ってるの?!」  近くにあった枕を掴み、今度はそれで正哉を叩く絵里奈。  「私からもお父さんからもお母さんからも、ずっと逃げてたくせに! お兄ちゃんは誰かと深く関わるのが怖いんだよ!! お母さんと同じ!!」  「……っ、それは……」  「大体、軽い気持ちで祥哉さんと寝たって何?! このビッチ! ヤリチン!」  散々正哉を殴った枕が彼に叩きつけられた。それは彼が顔を庇っていた腕に当たり、弾んで床に転がる。  正哉は絵里奈の言うことを何も否定できない。自分をずっと近くで見てきた彼女が言う言葉はあまりにも刺さる。彼女の言う通り、ずっと他人と深く関わることを恐れて逃げてきた。  「…………だから君からだけは逃げたくないんだ」  漸く正哉がそう言い、彼を殴る絵里奈の手が止まった。彼は続ける。  「どうしても祥哉さんが好きで、あの人を信じたいって言うなら、次の土曜日私の家に来て」  「お兄ちゃんの家?」  「うん。見せたいものがある」  正哉は自分の上に馬乗りになったままの絵里奈の手を取り、両手で包んだ。  「私はもう君からも祥哉さんからも逃げない。だから君もそうして欲しいんだ」  そう言った彼を見下ろす絵里奈の両目からは次々と涙が溢れ、眼鏡のレンズを濡らしている。  「……わかった」  彼女はそう言って自身の身体を倒し、正哉に抱きついた。  「ありがとう、ちゃんと向き合ってくれて」  「それは私が絵里奈に支えられてきたから」  「ううん、私、何にもできてない……でも、もう私も逃げない」  「偉いね、絵里奈」  正哉は腕を絵里奈の背中に回した。彼女を抱きしめたまま上半身を起こす。彼女は幼子のように彼の膝の上で抱えられた。  「私達、もう今まで通りじゃいられないのかな」  そう言った絵里奈の声は小さかった。  正哉のことを愛してしまった絵里奈。その愛情には応えられない正哉。その事実をお互いに認識した今、確かにこれまでと同じ距離感の兄妹ではいられないだろう。  正哉は手を絵里奈の肩に置いて押し、まだ泣いている彼女の顔を見る。  「確かにそうだけど、きっと見つかるよ……本当に私達に合った接し方がさ」  そう言われた絵里奈は静かに頷き、立ち上がった。  「いっぱい酷いこと言って、殴ってごめんね」  「いや、それは……言われたのは本当のことだし、絵里奈は悪くないよ」  「私ね、お兄ちゃんにたくさん感謝もしてるんだよ。いつも面倒見てもらってて」  彼女が笑顔でそう言ったので、正哉も釣られて微笑し、立ち上がった。  「それじゃあ今日も部屋の掃除しようか?」  正哉の言葉に彼女は少し驚き、そしてまた唇の端を上げた。  「ううん、自分で頑張ってみる。いつまでも頼り切りじゃいけないでしょ」  「そっか」  絵里奈が正哉に依存しがちなのは正哉自身がそう仕向けてしまった部分もある。正哉は彼女を離したくなかった。それでも彼女は今、ちゃんと自立しようとしているのだ。  大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた絵里奈。  「……私ね、やっぱり祥哉さんのことは好き。まだお兄ちゃんが言ったこと信じられないの」  「うん……」  1度好きになってしまった人間を簡単に諦められるほど絵里奈の他者に対する執着心は弱くない。思い込みが強い方なのだ。  「来週、お兄ちゃんの家に行ったら何か変わるかな?」  自分がしようとしていることが本当に正しいのか、正哉自身も不安だった。しかし長年見てきたので絵里奈の精神的な強さはわかっている。  「わからないけど、私は絵里奈のこと信じてる。君なら正しい道を見つけられるはずだよ」  「わかった、必ず行くね」  「うん、また連絡するよ」  2人はお互いの目を見て笑った。ここ最近、ずっとすれ違っていた心が漸く交わった気がして正哉は嬉しかった。  この先彼女との関係が変わってしまうとしても、それは恐らく悪いことではないのだ。  そして正哉は彼女の家を出て行った。  次の土曜日に双子の弟と決着を付ける、そう心に決めて。

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