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3章 5

5  土曜日、13時。  ローテーブルの前に座った正哉の目の前には祥哉が座っている。祥哉はつい先程、正哉が指定した通りの時間にこの正哉の部屋に来た。  祥哉は例によってティーシャツとカーゴパンツを着用し、口の周りには無精髭が生えている。一方正哉は半袖の薄青色のシャツとダークグレーのスラックスを着ていて、髪は休日だというのに珍しくオールバックに整えている。  同じ顔をした、しかし身なりも姿勢も全く違う2人の男。側から見れば少々異様な光景かも知れない。  部屋のカーテンは閉めているが、外は雨が降っている。僅かに聞こえる雨音。エアコンを除湿で稼働させているが、それでも湿度の高さは感じる。  祥哉はいつも通り形の良い唇の端を上げ、正哉をじっと琥珀色の両目で見ている。暫しの沈黙を破ったのは彼だった。  「──それで、答えは出たのかな? 僕と絵里奈さんのこと」  そう尋ねた祥哉に、正哉も唇を開く。  「ああ……。でもまず、君に謝りたい」  「ん?」  首を傾げる彼に、正哉は頭を下げて言う。  「君に酷いことをした。ちゃんと君と向き合う気もないのに私は君とセックスしてしまった。すまなかった」  これまでとは打って変わった正哉の態度。深く頭を下げ謝罪の言葉を口にされ、祥哉は戸惑いの表情を見せた。  「正哉さん……?」  先週祥哉が家に来てから、正哉はずっと考えていた。祥哉と向き合うとはどういうことで、絵里奈も祥哉も納得させるにはどうすればいいのか。自分と祥哉はどうあるべきなのか。  「改めて言わせてほしい。私は君を愛せない。だから君とはもうセックスできない。でも君とちゃんと兄弟で、家族であれるように努力しようと思う」  最初にセックスをしてから今までの正哉の拒絶とは明らかに意味が違う、祥哉のことを考え、彼なりに向き合った結果出てきた言葉。それだけに祥哉にとっては絶望的だろう。  そう、と小さく言う祥哉。目を伏せて逡巡してから口を開く。  「……絵里奈さんのことは?」  そう問われ、下げていた頭を俄かに上げた正哉。  「絵里奈は君のことが好きだ。それは私には変えようがない……付き合うことに反対はできない。でも1つ、もう1度聞かせて欲しいことがある」  「何だい?」  「祥哉さん、君は絵里奈のことをどう思ってる?」  以前祥哉は絵里奈に興味が無いとはっきり言った。改めて聞かれ、祥哉は悄然とした顔で俯いたまま答える。  「…………可哀想な人だと思う」  「可哀想?」  「うん。最愛のあなたに愛されなくて、代わりになる人を探すけど代わりはいなくて、でも誰かに愛されたくて、優しくしてくれる人達に縋ってる。可哀想な人」  祥哉のその言葉に正哉は、彼は案外ちゃんと絵里奈のことを見ているんだなと思った。絵里奈が正哉に恋していることをわかっているような口ぶりだ。  そして彼は続ける。  「よく意識が色んなところに飛ぶみたいで、僕といる時も全然別のこと考えてるみたいな時も多かったし、色んなものよく落としたり無くしたりしてた。あれが生まれつきなら……それでもちゃんと仕事して生きてくの、多分凄く大変で、凄く頑張ってるんだと思う。君が絵里奈さんを気にかけるのもわかる」  絵里奈はなかなか1つの仕事が続かず、今は派遣社員として働いているものの遅刻や欠勤は多い。それでも彼女なりに精一杯頑張っている。  それがわかっているのが自分だけだと思っていた正哉。しかしほんの数週間の付き合いで祥哉もわかったらしいことに驚いた。  「……君は絵里奈を愛せるの?」  「絵里奈さんはただ可哀想って思うだけだよ。僕は誰も愛せない。いや……あなただけだった。この世界であなた以外の人はみんな同じなんだ」  誰も愛せない──やはり正哉と祥哉は似ているのだ。祥哉は正哉以外、正哉は白城と絵里奈以外の誰にも興味が無い。そして自分への自信のなさ故に愛を信じられない。  「じゃあ君は絵里奈と付き合ってどうする?」  「僕が絵里奈さんの傍にいたら、あなたも僕の傍にいてくれるでしょ?」  「さっき言ったじゃないか。これからは君の家族であれるように努力する。絵里奈と付き合わなくたって、私は祥哉さんを見捨てたりしないよ。君には酷いことをしたけれど、まずは私を信用してくれないかい?」  ローテーブルの上に置いていた祥哉の手に、正哉は自分の手を重ねた。彼の手はピクリと反応したが、顔は相変わらず俯いたままだ。  「…………信用、ね。そう言って僕が絵里奈さんから離れたらあなたも僕のこと何て見てくれなくなるんじゃないの?」  「君は唯一の私と血の繋がりのある兄弟だ。そんなことしないよ」  優しく正哉が言うが、祥哉は僅かに顔を上げて彼を睨みつけ、重ねられた手を振り払った。  「何をもってあなたを信用しろって言うの? 今まで僕が絵里奈さんと連絡取り続けてなきゃ、どうせ僕と会ってくれもしなかったでしょ?! なのに今更、そんな……!」  強い口調でそう言った祥哉に、正哉の表情も険しいものになる。  「君が逃げるなと言ったんじゃないか!」  そして腰を上げ、膝立ちになって祥哉の肩を掴む正哉。  「君が絵里奈に不誠実な態度を取ったことは許せない。でも君のおかげで私は絵里奈とちゃんと向き合えた。もう1人、大切な人もできた。だから私は君からも逃げない!」  「正哉さん……」  祥哉は顔を上げ、琥珀色の双眸を潤ませた。  刹那、2人の上から影が落ち、正哉は目を見開いて叫んだ。  「絵里奈!」  祥哉の真後ろに絵里奈が近づいて来ていた。その後ろにあるクローゼットの扉が開いている。  振り上げられた絵里奈の手にはコードレスのアイロン。それを降り下ろした先には振り向きかけた祥哉の後頭部があった。  アイロンが勢い良く祥哉の頭に当たる。鈍い音がして彼は目の前にいた正哉に倒れかかった。  更にアイロンを振り上げようとする絵里奈に、祥哉を抱き寄せて庇うような姿勢を取る正哉。  「やめて、絵里奈!」  彼女の手はアイロンを振り上げた状態で止まった。  「退いてお兄ちゃん」  「駄目だ絵里奈、そんなことしたら祥哉さんが死ぬ」  首を横に振る正哉を睨みつけた絵里奈。その恐ろしい形相は正気のものとは思えなかった。  「殺すよ。お兄ちゃんの気を引くために私を利用して、お兄ちゃんを困らせて、許せないもん」  「こんなことで人生を潰すな!」  「こんなことじゃないよ! そいつが一生お兄ちゃんの傍にいるつもりだっていうなら殺してやる! その方がお兄ちゃんだって幸せでしょ?!」  「そんなわけあるか! 絵里奈を失うことになるなら絶対に幸せなんかじゃない!!」  「お兄ちゃんも私のこと愛せないじゃん!!」  叫んだ絵里奈に、口を言い返す言葉を失い口を噤んだ正哉。腕の中の祥哉が呻きながら身じろぎし、自分の手に彼の頭から垂れた血が付いていることに気づいた。  「祥哉さん、血が……動いちゃ駄目だ」  「絵里奈さん……」  首を僅かに動かし祥哉は、絵里奈を見上げる。そして彼女に向かって微笑んだ。  「……本当に、可哀想…………」  呟くようにそう言った彼に、絵里奈は目を見開いた。そして振り上げていたアイロンをゆっくりと下ろす。  「……やめてよ。私、可哀想なんかじゃない……」  そう言った彼女の目から一筋の涙が零れた。

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