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3章 6-1

6  絵里奈が最初に見た正哉は、痩せた見窄らしい少年だった。父親の直紀にいつもべったりだった絵里奈は、彼の母親であるアンネッテにも自分達にも必要以上に近寄ったり目を合わせようとしない正哉が不思議だった。  絵里奈に実母の記憶はない。実母は絵里奈を妊娠中に交通事故に遭い、自身の生存より絵里奈の生存を優先させて亡くなった。  直紀は両親の協力を得ながら絵里奈を育てた。いつも優しく、甘えさせてくれる直紀が絵里奈は大好きだった。  絵里奈が3歳の時、直紀はアンネッテと再婚した。直紀は出版社で編集の仕事をし、アンネッテは当時ドイツ語の翻訳の仕事を細々と始めていた。2人が出会ったのはその出版社だった。  直紀の両親は派手な見た目で精神的に不安定なアンネッテにあまり良い印象を抱かなかったらしく、2人が再婚してから直紀と両親の関係は薄くなった。  授業中など大人しくしていなくてはならない場面でじっとしていられなかったり、他人に合わせた言動をすることができない絵里奈は、学校ではいつも浮いていた。いじめられていたこともあったが、両親に心配させまいと学校には通い続けた。  アンネッテとは1対1だと上手く話せなかったが、直紀にはちゃんと甘えられた。いつも直紀は心の支えだった。  直紀は絵里奈とアンネッテが打ち解けることを望んでいたので、彼の前でだけは絵里奈はアンネッテと会話をするよう努めた。アンネッテもそれはわかっていたようで、2人は直紀の前では仲の良い母と娘を演じた。  しかしアンネッテと絵里奈は普段はほとんど会話しなかった。2人と正哉、3人で家にいる時はアンネッテはほとんど母国語であるドイツ語で正哉に話しかけ、正哉もそれにドイツ語で対応していたので2人が何を言っているのかわからなかった。  正哉は中学校に上がった頃から家にいる時間が減った。絵里奈にとってはよくわからない兄だったが、ある時から彼がずっと死にたがっていると理解し始めた。  それは自分が小学校でいじめられて誰にも話せず苦しんでいる時だった。正哉がずっと暗い顔で台所の包丁を凝視していることに気づいたのだ。彼はきっと、自分よりもっと辛いんだと思った。  その頃から正哉とも打ち解けることができるようになった。しかし彼はいつも何か吐き出せない心の内があるようだった。  正哉の本心への興味が、やがて恋心に変わった。彼は学校で周りにいる男の子達に比べて当たり前に大人で、絵里奈の目にはとても格好良く写った。最も、誰が見ても彼は知的で美形な少年だった。  結局正哉がひた隠しにしていた“何か”が何なのかわからないまま絵里奈が11歳の頃に彼は家を出て行ってしまった。  正哉が家からいなくなり、絵里奈はアンネッテと話す機会が更に減った。12歳で初潮を迎えたことを彼女に話した時の面倒くさいと言いたげな顔はずっと忘れられない。  父親の直紀が胃癌で亡くなったのは15歳の時だった。直紀が入院中、見舞いに行く度に窶れていった彼の姿が絵里奈は忘れられない。彼の癌が発見されてから絵里奈は毎晩のように泣いていた。  癌が発見された時には既に末期で、入院して1年も経たないうちに44歳という若さで他界した。  正哉は就職してからも一人暮らしを続け、直紀も他界し、家には絵里奈とアンネッテしかいなくなった。  高校に入ってから、中学生までのような虐めはなくなったものの、絵里奈はどこにいても居心地の悪さを感じた。安心して話ができる人間が身近にいなくなったのだ。  直紀は映画が好きで、家にはたくさんのDVDがあった。絵里奈は彼が亡くなってからそれを毎日のように観た。そして直紀のものだったパソコンを使い、オンラインゲームをするようになった。  映画は色々の世界に連れて行ってくれる。そこに没頭していると心が安らぐ気がした。  マルチプレイができるオンラインゲームでは色々な人達と知り合えて楽しい。相手が人間なので関われば嫌な思いもたくさんしたが、それ以上に孤独を紛らわしてくれた。  映画とゲームばかりにのめり込む絵里奈にアンネッテは呆れていたし、時々顔を出しに来る正哉にも注意された。高校の成績は常に赤点をギリギリで回避している状態だった。  それでも実父が他界して落ち込んでるのだと正哉も分かっていたのか、強く叱るようなことはなかった。アンネッテに関してはそもそも絵里奈に興味が無いようだった。  高校生になった絵里奈は人並みに恋愛にも興味を持つようになった。初恋である正哉のことはずっと好きだったが、彼が自分を恋愛対象として見ていないことはよくわかっていた。  絵里奈はオンラインゲームで仲良くなった男達と所謂“ネット恋愛”をするようになり、オフ会にもしばしば参加した。ゲーム内で仲良くなった男のうちの1人と絵里奈は交際し、処女を失った。彼は1つ上の高校生だった。  そんな中、かなりモテるはずの正哉が恋人の1人も作ったと言わないのは不思議だと絵里奈は思っていた。彼のことだから言わないだけかも知れないが、その方がありがたかった。彼の恋人など見たくもなかった。  アンネッテはドイツ語翻訳の仕事が増えてそれなりの収入を得ており、直紀の保険金も下りていたので絵里奈を4年制の大学に行かせる金あった。しかしやりたいことも勉強する気もなかった絵里奈は短大に進むことを選んだ。  絵里奈が大学に入学した頃から、アンネッテは家に男を連れ込むようになっていた。彼女はいつまでも“女”だった。  アンネッテは直紀の葬式の時ずっと泣いていたし、その後も暫く落ち込んでいたので、絵里奈は少し彼女を信頼し始めていた。それだけに恋人を作る彼女には裏切られたような気持ちになった。  直紀がどれほどアンネッテを愛していたか知っている絵里奈は、彼女が恋人を作るのを見るのが嫌だった。直紀ならばきっと彼女を許すだろうとわかっていても、絵里奈には許すことができなかった。  その頃から絵里奈は実家を出たいと考えていたが、金銭的な問題や自分の生活力の無さが分かっていたためになかなか踏み切れずにいた。  短大を卒業後、障がい者雇用で働き口を探し、少しずつお金を貯めた。正哉にも「絵里奈が一人暮らしするなら近くに引っ越すよ」と言われ、22歳で一人暮らしを始めた。  その頃には正哉は29歳になっていたが、相変わらず結婚はおろか恋人ができたという話すらしてこなかった。絵里奈自身はまだ父親を失った寂しさを引きずっており、男と依存的な恋愛をしては別れを繰り返していた。

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