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3章 6-2

 ある時、絵里奈が事前連絡無しに正哉の家に行こうとしたらちょうど正哉が自分の家に帰ってくるところだった。絵里奈が知らない男性を連れて。  絵里奈はつい隠れて後ろからその様子を見ていた。正哉が連れていた男性は恋人のように彼の腰回りをベタベタと触っていたが、彼がそれを嫌がる様子はなく、2人で家の中に入って行った。  そんなことが数回あり、絵里奈は正哉がゲイなのだと気づいた。彼は自分が兄妹であるという以前に女である時点で自分には絶対振り向いてくれないのだ。  悲しかったが、何も知らないふりをして正哉と仲のいい兄妹でい続けた。その関係性が心地良かったから。  自分が色々な男と恋愛し、正哉がその度に心配してくれるのが嬉しかった。彼を振り回していると分かっていてもやめられなかった。それで寂しさが埋まる気がした。  絵里奈の境遇や障がいを憐れむ人達はいる。そこに付け込んで近づいてくる男も何人もいた。  それでも絵里奈は自分を可哀想とは思わなかった。優しい父親が過去にはいて、今は誰よりも自分を守ろうとしてくれる兄がいる。母親には恵まれなかったかも知れないが、本当にお金に困ったことはなかったしちゃんと短大まで卒業させてもらえた。  祥哉に会った時、絵里奈はすぐに恋に落ちた。正哉と同じ姿をして、直紀と同じで映画が好きで、何を考えているかよくわからない人。正哉とは顔以外似ていないと最初は思ったが、話しているうちに似ていると思うようになった。  誰も信用していない目、自己肯定感の低さ、物腰の柔らかさ、他者への無関心。正哉と祥哉の類似点は絵里奈にとって喜びでもあり不安でもあった。似ているのなら祥哉も自分を恋愛対象としては見ることがないのではないかと思った。  しかし祥哉は絵里奈と積極的に連絡を取ろうとしてくれたし、デートにも誘ってくれた。通話もたくさんした。きっと自分に興味があるのだと感じた。  映画の話しが合うと嬉しかった。自分が大好きなフランス映画の話をして、その映画を知っている人と出会ったのは初めてだった。  どうしてそんなに映画に詳しいのか祥哉に聞くと、父親の唯一の趣味だったと言っていた。それも自分と同じだった。共通点を見つける度に心が躍った。  だから正哉の言うことは信じたくなかった。祥哉の自分への言動は全て正哉の気を引くためだなんて、彼がそんな人間だと思いたくなかった。  そして絵里奈は正哉に言われた通り、土曜日に正哉の家に来た。「来てくれてありがとう」と正哉は言い、優しく抱きしめてくれた。その優しさが今は辛かった。  祥哉が来るからクローゼットの中に隠れていてと言われた。絵里奈がいたら祥哉は本当のことを言わないからと。  盗み聞きをするなんて祥哉には少し悪い気がしたが、本当のことを知るためだ。そう言い聞かせて正哉の言う通りにできるくらいには、絵里奈は既に祥哉を信用できていなかった。  整理されていて物は少ないが、狭いクローゼットの中。その扉に耳を当て、絵里奈は正哉と祥哉の話を聞いていた。正哉の話は全て本当だったとついに理解させられてしまった。  自分は祥哉に勝手に憐れまれ、利用されていた。正哉は彼に付き纏われていた。彼は自分と自分の大切なものを貶(おとし)めた。  絵里奈の脳内は怒りと悔しさでいっぱいになった。頭に血が昇り、自分でもわけがわからないくらい感情がぐちゃぐちゃになった。  先週正哉に馬乗りになって殴った時と同じ、否、それ以上の激情。パニックに近い状態だ。  クローゼットの隅にコードレスのアイロンがあった。正哉が一人暮らしを始めた時に買い、ずっと使っているものだ。半分無意識でそれを手に取り、絵里奈はクローゼットから出た。  驚愕の表情でこちらを見た正哉は無視し、クローゼットに背を向けて座っていた祥哉の後頭部にアイロンの角を振り下ろした。  怖くなって、頭に当たる直前に少し失速した。しかし確かに尖った部分が勢い良くそこに衝突したという手応えがあった。  正哉が何故自分に止めろというのか理解できなかったし、祥哉に憐れまれるのが悔しくてたまらなかった。様々な激情が涙となって溢れ出た。  「……やめてよ。私、可哀想なんかじゃない……」  そう言った時、絵里奈が見たのは正哉の手に付着した真っ赤な血。青白くなった祥哉の顔。  絵里奈はそれに気づいた途端、一気に思考が落ち着くのを感じた。大変なことをしてしまったんだと思った。膝から力が抜けてその場に崩れ落ちた。  「絵里奈……!」  正哉は心配そうに絵里奈を見た。しかし頭部を負傷した祥哉を放って置くわけにはいかない。彼女には近寄らず祥哉を抱えたままスマートフォンを出した。  その時祥哉が力無く彼のシャツを掴んだ。  「……警察は、呼ばないで」  祥哉は小さくそう言った。彼にも罪の意識があるのだろう。自分のせいで絵里奈を罪人にはしまいとそう言っているようだ。先程絵里奈に微笑んだのは、彼女のためだったのだろうか。  震える手でスマートフォンの画面ロックを解除する正哉。  「ありがとう、呼ぶのはタクシーだけだよ。早く病院行かなきゃ」  正哉はそう言ってタクシー会社に電話をした。祥哉は意識があるしまだ動くこともできる。出血も命に危険がある量には見えない。救急車を呼ぶほどではないだろう。  それから正哉がガーゼとタオルで祥哉の傷口を押さえた。タクシーが家の前に到着すると、彼は祥哉を立たせ、支えながら玄関に向かった。彼等の代わりにドアを開けた絵里奈は、タクシーに2人で乗り込むのを呆然と見ていた。何故か涙は止まらなかった。  家を出る間際、祥哉は絵里奈に「ごめんね」と言った。絵里奈は何も返すことができなかった。  祥哉と出会ってからの数週間、短い間だったが楽しかった。ほんの僅かな夢を見せられた。裏切られて本当に悔しい。しかし彼を好きだという気持ちも消えず、彼を憎むことも許すこともできない。  彼をアイロンで殴っても正哉は勿論喜ばなかったし、自分の気持ちも晴れない。激情に任せて無意味なことをしてしまった。  「祥哉さんを病院に送ったら戻ってくるからここで待っていて」と正哉に言われた絵里奈は、黙ってそれに従った。  誰もいなくなった部屋の隅で蹲った絵里奈は、ただひたすら泣きながら正哉の帰りを待った。

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