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4章 1-2

 絵里奈は唖然としていたが、やがてそれは怪訝そうな顔に変わった。  「え、若いね? 学生さん……?」  その質問に、慌ててリョウが答える。  「いや、多分絵里奈さんよりは若いけど2年前に大学卒業したし働いてるよ? 一応」  「一応? お兄ちゃん、大丈夫? リョウさんってヒモとかじゃない?」  明らかにリョウを疑っている絵里奈に、苦笑した正哉。  「ヒモ? まさか、お金なんて渡したことないよ。確かに凄く若いけどリョウ君はいい子だよ」  「ホントに?」  「本当だよ。これからは彼と一緒に生きていきたいと思ってる。絵里奈にもリョウ君とは仲良くしてほしいな」  そう言う正哉に、つい再び彼に後ろから抱きついたリョウ。  「マサさん、俺嬉しい……勃起する……」  「いやだから絵里奈の前では、ね?」  口調は優しい正哉だが、後ろ手でリョウの股間を掴んでいた。  直ぐに彼から離れなくてはそのまま握り潰される危険を感じ、大人しく抱きつくのを止めるリョウ。せっかく正哉が絵里奈を納得させようとしているのにまた脳みそちんこだと思われるようなことを口走ってしまった。  黙って睨むようにリョウを見ていた絵里奈だが、暫くして曖昧な笑顔を浮かべて口を開く。  「よかった、お兄ちゃん恋人できたんだね。ちゃんと好きな人、いたんだね」  そう言った彼女に、正哉も微笑む。  「リョウ君がちゃんと私と向き合ってくれたから」  「そう、本当によかった。……お兄ちゃん、なんか幸せそう。ずっと、あんなに死にたがってたのに」  「絵里奈……」  笑っている絵里奈の両目から、涙が溢れ出た。  リョウは彼女の言葉に若干の驚きを感じた。正哉は死にたがっていたのか。この2年間のほぼ性交だけの付き合いの中ではわからなかった。もしかしたらそれは彼女しか知らなくて、だから正哉は彼女を誰よりも大切にしているのか。  涙を手で拭いながら彼女は言う。  「嬉しいけど、やっぱりずっと好きな人に恋人ができるって、悲しいな……」  「……ごめん、絵里奈」  2人のやりとりに、リョウは漸く正哉の言動を理解した。恥ずかしいからではなく、彼女に申し訳ないと思うから彼女の前でキスしたり抱きついたりして欲しくなかったのだ。  絵里奈と正哉には血の繋がりが無いことは以前聞いた。幼い頃から正哉のような魅力的な異性が近くにいたら好きになってしまっても仕方がないのかも知れない。  正哉は絵里奈の肩に手を置こうとして、それを止めた。今彼女に優しく接しても余計彼女を傷つけるだけだ。  どうすればいいのかわからずにいる正哉に、絵里奈。  「お兄ちゃんが謝ることないんだよ。私はお兄ちゃんに幸せになってほしい」  「私も……君に幸せになってほしい」  「うん、大丈夫だよ」  そう言って彼女はベッドから出て立ち上がった。  「私は自分の幸せを探すよ。お兄ちゃんも自分のために生きていいんだよ」  「うん……」  頷き、立ち上がって絵里奈に向かい合う正哉。ずっと誰かに必要とされたくて、それだけのために生きてきたようなものだった。必要とされたいだけだから、誰とも相互的な心のやり取りをしないか、する前に逃げるしかなかった。  これからは自分のために、リョウと共に生きて行きたい。祥哉とも絵里奈とも家族でありたい。  「絵里奈、これからも時々家に行っていいかな。片付け手伝うよ」  「うん」  「たまにはまた、ご飯食べに行こう」  「うん、リョウさんも連れて来ていいよ」  絵里奈は次から次へと涙を溢れさせている。正哉は彼女にハンカチを差し出した。  「私は祥哉さんとも兄弟になりたい」  「……そうだよね。でもごめん、祥哉さんはまだ許せない」  小さく首を横に振る彼女に、ハンカチを差し出したまま首肯する正哉。  「絵里奈……、いいんだ。ゆっくりで」  「お兄ちゃん、ありがとう」  笑顔でそう言って、差し出された水色のストライプ柄のハンカチを受け取る絵里奈。それで涙を拭って言う。  「私、帰るね。泊めてくれてありがとう」  そして踵を返し、部屋の隅に置いてあった自分のバックを手に取る彼女に正哉は近づく。   「送って行こうか?」  「ううん、1人で帰る」  絵里奈は自分の直ぐ後ろに来た正哉に振り向かなかった。  小さな彼女の背中を見て、1歩後ろに下がる正哉。きっと今はいつも通り一緒にいてはいけない。彼女を守ろうとするのではなく、1人で歩く姿を見守らなければならないのだ。  「そう……、気をつけて」  絵里奈はそのまま前を向いて玄関に歩いて行った。靴を履き、正哉に背を向けたまま閉ざしていた口を開く。  「ハンカチは洗って返すから」  「分かった」  「またね」  「うん、またね」  そして絵里奈はドアを開け、正哉の家から出て行った。閉まったドアを彼は泣き出しそうな表情で見つめていた。  その場に立ち尽くす正哉に、後ろから今1つ状況が分かっていないリョウが近寄る。  「マサさん?」  「……リョウ君」  正哉はリョウの方に振り返り、彼に抱きついた。驚きながらも彼は正哉の背中に手を回す。  「き、急に積極的だな……?」  「ごめん」  直ぐに離れようとした正哉を、リョウは放さなかった。  「いや、いいよ。こうしていよう」  「……ありがとう。でも私、これから行かなきゃならないところがあるんだ」  「行かなきゃならないところ?」  リョウが正哉を放すと、彼の肩に手を置いた正哉は1つ長めに息を吐いた。  「せっかく早く来てくれたのに悪いけど、ちょっと実家に行ってくる」  その言葉にリョウはキョトンとして彼を見下ろした。  「実家? マサさんの?」  「そう、すぐ近くなんだ。そんなに時間はかからないはずだから君はここで寝てていいよ」  「えー、行っちゃうの?」  「すぐ帰って来るって。……母親と、ちゃんと話さなきゃならないと思うんだ」  正哉の母親が彼の幼少期、彼を苦しめる存在だったことを以前聞いたリョウ。母親からはいつまでも目を逸らしていたいはずだ。それでも彼はちゃん話すと言うのだ。自分はまだ両親と向き合えずに逃げているのに。  「……そっか。分かった」  真剣な表情で頷く彼に、正哉は少し辛そうな微笑みを浮かべた。ずっと逃げていたものと向き合うのはかなりの覚悟が必要だろう。  「行ってくるね」  彼はそう言ってリョウの肩から手を離した。  財布とスマートフォンだけを手に家を出る彼をリョウはできる限り明るく笑って見送った。

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