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4章 2-1
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『あら、そうなの』
栗色をした巻毛を長く伸ばした中年の白人女性は、正哉の話を聞いて、ドイツ語でただ1言そう言った。
正哉は彼女、アンネッテに昨日自分の家であったことを話した。絵里奈が祥哉のことを好いていたが祥哉は自分の気を引くためだけに絵里奈を利用しており、絵里奈が祥哉の頭を殴って自分が祥哉を病院に連れて行ったと。
リビングの椅子に座った彼女は話に驚きこそしたものの、テーブルを挟んで正面に座った正哉には目も向けずスマートフォンの画面を見ている。正哉が家に来た時もスマートフォンで電話をしていた。恐らく恋人とのチャットをしているのだろう。
正哉は膝の上に置いた両手を握りしめていた。
『母さん、それだけなの?』
沸々と湧き上がる怒りをなんとか抑え、正哉はアンネッテにドイツ語でそう尋ねた。2人だけで話す時はいつもドイツ語だ。10歳まで家族がアンネッテしかいなかった正哉はドイツ語も日本語と変わらないくらい自然に話すことができる。
眉を眉間に寄せ、正哉をの方に目をやるアンネッテ。
『それだけって?』
『自分の娘が息子を殴って病院送りにしたんだよ? 何とも思わないの? 絵里奈のことも祥哉さんのことも心配じゃないの?』
正哉の言葉に、鼻で笑ったアンネッテ。彼女は彼と2人きりの時とそうでない時で少し雰囲気が変わる。彼以外の者がいる時は明るく陽気な女性を演じているようなのだ。
『別に命に関わるようなことじゃないんでしょ? 30過ぎた子供をそんなことでいちいち心配してたら過保護よ』
『でも祥哉さんの容体とか、絵里奈は今どうしてるのかとか、気にならないの?』
『だって2人とも大丈夫なんでしょ? 大体祥哉さんは別に私の息子じゃないし、えりちゃんだって……』
『2人とも母さんの子供でしょ?!』
思わず強い口調でそう言った正哉。琥珀色の双眸が母親を睨みつける。
『祥哉さんも私も、あなたが自分で決めて産んだ。それに父さんと再婚するって決めた時に絵里奈を子供するって決めたはずだ。あなたが、自分でそうすることを決めた』
『……何なの? 正哉。私にどうして欲しいの?』
怪訝そうな顔で問うアンネッテに、正哉は目を見開いた。
────「私にどうしろっていうんだ……」それは正哉が祥哉に向けた言葉だった。どこまでも自分は母親と同じなのだな、と俯いた正哉は自嘲の笑みを浮かべた。
『どうして母さんは子供に対してまでもそんなに他人事なの?』
『ちゃんと育てたわ。あなたも絵里奈も』
『でも私達、全然家族じゃない』
『意味がわからないわ』
『……そうだよね』
直紀がいた時は、まだ“家族”だったのかも知れない。否、それもそれぞれがそれぞれの役割を演じていただけの中身の無いものだったか。
幼い頃に正哉は1度だけアンネッテに連れられてドイツに行ったことがあった。幼い正哉には彼女とその家族が何を話していたのか難しくてよく分からなかったが、どうやら金の話のようだった。ただ、彼女とその家族の仲の険悪さだけはよく伝わってきた。
あれからアンネッテの実家には1度も行っていない。彼女もあの家について何も口にしない。彼女が知っている“家族”もきっと、そういうものなのだ。
祥哉には父がいて、母代わりの祖母がいた。きっとそれはこの家よりはまだちゃんと“家族”だったのだろうと正哉は思う。
『絵里奈は私を恋愛対象として好きだったって知ってた?』
そう尋ねられ、アンネッテはスマートフォンの画面に戻した目線を変えずに口を開く。
『そう、知らなかったわ』
それも彼女にとっては大した問題じゃないのか、と正哉は思った。
『じゃあ私が中学生の時、白城拓真に会ってたことは?』
正哉が再び質問すると、彼女のスマートフォンをタップする手が止まった。睨むように彼を見る。
『……拓真君?』
『覚えてるんだ。まあ、彼は21年前に殺されたんだけどさ』
『殺された? どういうことなの正哉』
漸くスマートフォンをテーブルに置いたアンネッテに、正哉は呆れを含んだ笑みを浮かべた。
『絵里奈と祥哉さんのこともそれくらい気にしてあげなよ。あの人と付き合ってたの、たった2年でしょ』
『あなたがあんなことしてなきゃ拓真君と結婚してたわよ!』
彼女はそう怒鳴ってテーブルを叩いた。
久々にこの怒声を聞いた正哉だが、不思議と何も思わなかった。何故幼い時、これにあんなにも怯えていたのだろうか。
そして何故自分が彼女にこんな言われ方をされなければならないのだろう。どう考えても自分は被害者なのに。
『白城さんね、この近くに住んでたんだ。中学生時から高1の夏くらいまでだったかな。ほとんど毎週あの人の家に行ってた』
『…………何で……』
『何でって、わかるでしょそんなの』
笑い混じりにそう言った正哉。アンネッテは確かに9歳の自分が白城の陰茎を咥えているところを見た。白城の家に自分が何をしに行っていたかわからないはずがない。
テーブルを叩いた手を握りしめるアンネッテ。
『……あなたが拓真君を殺したの?』
『まさか。殺したのは白城さんの彼女で、何でかは私も知らない。ある日突然殺されてた。一応ニュースにもなってたらしいよ』
アンネッテは昔からニュースをあまり観ないし、正哉はテレビ自体を昔からあまり観なかったのでそのニュースを観なかった。正哉は後から携帯電話で調べてそのニュースを知ったのだ。
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