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4章 2-2

 俯いて握りしめた手を振るわせているアンネッテに、正哉。  『まあ、私が白城さんの家に行っていなかったらあの人は殺されなかったのかもしれないね。“痴情の絡れ”ってやつで殺されたみたいだから』  『結局あなたのせいなの?』  『さあね。今更そんなのわからないよ。……でも、1つ言えることがある』  『何よ』  『あなたがもう少し、ほんの少しでいいから私や絵里奈……祥哉さんや彰さんっていう私の父親と向き合えていたら、こうはならなかったかも知れない。私は白城さんと関わったりしなかったし、絵里奈が祥哉さんに怪我させることもなかったかも知れない』  もし彰とアンネッテが完全な絶縁状態でなかったら、彼女が正哉を普通に育てられていれば、彼女が絵里奈とちゃんと接していれば──ここまで人が傷つくことはなかっただろう。きっとこれは彼女が自分の心が傷つかないように逃げてきた結果なのだ。  『今更そんなこと言ったって遅いわ』  彼女は静かにそう言った。相変わらず何て無責任なんだろう、と正哉は思った。  『でもこれからは変えられるでしょ? 私は祥哉さんとちゃんと兄弟でありたいと思う。絵里奈も祥哉さんを受け入れられるように努力してくれるはずだ。母さんもこれからは絵里奈や祥哉とちゃんと向き合ってほしい』  『……無理よ、今更。私はそういうことできる人じゃないわ』  アンネッテはもう、57歳だ。その年になって生き方を変えるのは確かに難しい。  37歳の正哉ですら、今から本当に変われるのか自信がないのだ。リョウがいるから、祥哉が本気でぶつかってきたから決意できたに過ぎない。  『でも、意識するだけできっと何か変わるものだと思うよ』  正哉はそう言って自分のスマートフォンを出し、祥哉のSNSの連絡先をアンネッテに送った。  『祥哉さんとこれから家族になることもきっとできるはずだよ』  『……受け入れてもらえるのかしら』  『彼が何の為に東京まで来て私達を探したと思ってるの。大丈夫だよ』  正哉にそう言われ、アンネッテは暫くスマートフォンの画面を眺めていた。深いため息を吐き、彼女は言う。  『私に“家族”はわからないわ。ずっとそれを夢見てきたけれど、わからないものを作ることはできなかった』  『そうだね、私もわからない』  『私は間違っていたのよね』  『少なくともいい母親とは言えなかったね』  何の躊躇いも無く、淡々と返す正哉。迷い無い琥珀色の瞳が真っ直ぐ見つめて来るのを、アンネッテは見ることができなかった。  『苦しませてごめんなさい、正哉』  彼女の声は震えていた。一筋、涙を見せた彼女に正哉は言う。  『苦しんでたのは私だけじゃない。母さんも、絵里奈もだ。辛い者同士、ちゃんと助け合っていけたらと思うんだ』  『……ありがとう』  彼女はやっと正哉の目を見て言う。  『あなたはいつも何を考えているか分からなかった。ちゃんと自分の気持ちを話してくれたの、これが初めてね』  『ずっと怖かったから……』  『そうね、私も自分で自分が怖かった。直紀さんと出会う前の私はもう限界で、苦しいと感情を抑えられなくて、駄目だとわかっていてもあなたに八つ当たりしてしまってた。……いえ、ごめんなさい。こんなの言い訳ね』  アンネッテなりに正哉に辛く当たったことに関しては反省していたようだ。そんな昔のことは彼女のことだから忘れていると思っていた正哉は内心で驚愕していた。  『うん……、今は母さんが苦しかったんだってわかる。でも子供にはわからない。その時感じた恐怖も絶望感もずっと消えない』  『そうよね。正哉が中学生になった頃からかしら。あなたがどんどん私から遠ざかっていくように感じてた。直紀さんが亡くなった時のあなたはまるで何も感じていないみたいで怖かった。私はあなたと向き合うことを諦めて、逃げてた』  『私も母さんと話すことから逃げてた。これからはちゃんと話すように努力するよ』  『ええ。できるかわからないけど、私もちょっと頑張ってみる』  そう言ってアンネッテは涙を拭いながら微笑んだ。  その笑顔に少し驚いた正哉。彼女がこんな風に自分に微笑んだことなど今までの記憶にはなかった。  『そう言ってくれて嬉しいよ。ここに来た甲斐があった』  そう言いながら椅子から立ち上がった正哉に、アンネッテ。  『もう行くの?』  『うん。家で人を待たせてるんだ』  『あの、1つだけ教えて正哉』  玄関の方に向かおうとしていた正哉は、椅子から立ち上がった彼女を見下ろした。  『何?』  『あなたが結婚しないのも私のせい?』  『……それはどうだろう。ずっと前から1人が好きだし、家庭を持ちたいと思ったことも無いからよくわからない』  『そう』  少しほっとしたような、しかし悲しげにも見える表情をした彼女に、正哉はまた口を開く。  『それに、まだ同性とは法的に結婚できないからね』  彼がそう言うと、彼女は目を丸くした。しかし直ぐに驚愕の表情は微笑に変わった。  『パートナーシップ制度ならあるわよ』  予想外の彼女の言葉に、今度は正哉が目を丸くする。そして目の前の笑顔の彼女に吊られるように笑った。  『そうだね、それも考えてみるよ。それじゃあ』  『ええ』  アンネッテは正哉を玄関まで見送った。  お互いがお互いに背を向け逃げ続けてきた37年間は長かった。この日は漸く2人が親子として向かい合うことができた日だったのだ。

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