4 / 5
初出勤
──当日。午前8時半。
指示されていた例の店に近づくと、バターや生クリームとか、そういう甘ったるいものが混ざり合ったいい香りが漂っていた。
だけど、残念ながら今の俺にはその香りを楽しむような余裕があまりない。
朝、約束の時間に間に合うように早めに家を出たところまでは良かった。
その先を予想していなかった俺は、思いっきりラッシュの時間帯に地下鉄に……。
人にもみくちゃにされながらなんとか新宿に辿り着いたものの、駅を出てからもひどい混みようだった。
普段の移動には専属の運転手を使っていただけに完全に人酔いしてしまった。
あのラッシュは、地獄……。
最悪なのは、これからも当分は運転手が付かないってこと。
何しろ俺を甘やかすなというお達しがメイド達に出ているらしい……。
さすが父さん、抜かりがない。
仕方がないから今日の為に自分で目覚ましをセットしたし、誰の力も借りずに一人でここまで来たわけだけど。
毎日これを繰り返さなきゃならないのかと思うとそれだけでモチベは下がりまくっていく……。
そして──。
俺から余裕を奪う一番の理由は、いま目の前で甘ったるい香りを漂わせている『パティスリー・ルナ』に初出勤するってこと。
「…ここで合ってる、のか?」
それにしても、新宿なんて縦に密接した場所にあるくせに、ルナはテナントじゃなくてちゃんとした一軒の店だ。
一階建てで横にやたらと長いし、狭めながらも駐車場も併設されている。
敷地面積にすると、かなりの大きさと言っていいかも。
駅から多少離れているとはいえ、新宿の一等地にこの大きさならなかなかだと思う。
さすが父さん、お金をかけている。
道路に面した側は全体がガラス張りになっていて開放的なデザインだけど、まだブラインドが下りていて店内の様子を見ることはできない。
それもそのはず、今は開店2時間前。
俺は店の責任者と会って色々と打ち合わせをしなければならなかったから、この時間に来るよう指定されていた。
たしか、左手にある駐車場から裏口に回ればいいんだっけ?
父さんの秘書からあらかじめ聞いていた指示を思い出しながら歩く。
別に複雑なルートでもないから、すぐにそれらしいドアは見つかった。
壁には暗証番号用のタッチパネルがある。
そのまま入るのは無理そうだ。
このまま裏口に突っ立っていてもしょうがないと思い、側に付いていたインターホンを押してみることにした。
───ビーッ。
ドアの向こう側で、品のないブザー音が鳴っているのが聞こえる。
鳴らしてからしばらく待ってはみたものの、中からは何の応答もない。
聞こえなかったのかなと思い改めてもう一度押してはみたけれど、それでもやっぱり応答はないまま。
こんなに朝早い時間に人を呼びつけておいてお出迎えなしっていうのは一体どういうことだ。
まさか向こうが約束をすっぽかしているなんてことはないよな?
さっきまで朝のラッシュで揉みくちゃにされていたことを思い出したら、なかなかイラついてきた。
店の前で1人、怒りの矛先が見つからずにいた俺は目の前にあるインターホンを連打するほかない。
ビーッ、ビーッ、ビーーーッ……!!
火災警報かってくらいうるさい音が鳴り響いていたから、ドア越しでも中のやかましさがハッキリと聞こえる。
これでも出てこないようならさらに押してやるつもりで人差し指に力を込めた。
「おい! いい加減に出てこ──」
と、言いかけた時。
中からドタドタと大きな足音が近づいてきたと思ったら、目の前のドアが勢いよく奥に向かってバッと開く。
「──うるっせえよっ!」
いきなりの罵声に、一瞬思考が止まった。
「なんのつもりだよ、営業妨害か? こんな朝っぱらから来るなら先に電話よこすのが礼儀だろうが! 知らねぇのか!!」
かなりキレていると感じとれる声が長々と頭の上から浴びせられたもんだから、なんだかよくわからないまま一拍遅れて、ようやく俺の頭も動き出す。
「──んなの知るかっ この時間に来いって言うからこっちから来てやったんだろ! 中にいたならさっさと出てこいよ!」
怒りをぶつけるように顔を上げ、ドアを開けたその罵声の主を睨みつけてやった。
そいつは背が高く、見た感じ180センチくらいはありそうだった。
見上げてはじめて顔が目に入ったが、俺と同じか少し上くらいの歳の男に見える。
ちょっとシャープな輪郭に形のいい眉。
目はハッキリとした綺麗な二重だけど、よく見るとほんのちょっとだけタレ目だ。
だけど気になるほどじゃなくて、逆に整った顔にいい愛嬌を与えている。
髪は暗めの茶色で、くせ毛なのかパーマなのか毛先だけゆるくウェーブがかかっていた。
パッと見、どこかのモデルかと思うくらいの美形だ。
ムカついて睨んでいるはずなのに、男の俺でも見惚れてしまうような容姿に不覚にもドキリとさせられた。
ともだちにシェアしよう!

