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2 夕陽と語弊と流し目の行方

「ただい……」  ま。と言おうとして、奈智(なち)は開けたばかりの自宅の玄関の扉を急いで閉めた。  見なかった。自分は何も見なかった。あれは幻覚。  自分に言い聞かせて、奈智は周りを眺めた。紅く、オレンジ、素敵な夕日だ。とてもこれから公園で日向ぼっこできる時間帯ではない。なんてったって、学校で授業を受けて帰ってきたのだから。そして、あの場面。自分が一体何をしたというのだ。  これでは、しばらく家には入れまい。  お願いだから、どちらかの部屋にしてっていつも言っているのに。しかも玄関。自分以外の誰かだったらどうするつもりだったんだ、あの二人。 「もう、泣けてきた……」  自分はなんにも悪くないはずだ。悪かったのは、運だけ。しかし決定的だ。  奈智は呆然と自宅玄関の扉の前に立ち尽くした。 「どうしよ」 「入らないのか? 奈智」 「あ、時緒(ときお)さん、どうしたの?」  時緒は奈智達の父親の弟、叔父さんにあたる。 「奈智のお父さんに用事。いくら暖かくなってきたからって、夜は冷えるよ?」 「……ふえ、入れない、の」  年甲斐も無く泣きべそをかき始めた奈智に、時緒は事態を飲み込んだようだった。 「──ああ、なるほどね。まったく、しょうがないね。あの二人は」  奈智以外に彼ら二人の関係を知っているのはこの時緒だけである。  彼の発言によって、少し心が軽くなる。  そして、叔父の彼自身も同性愛者だったりする。時々、奈智は思う。足立家には滅びの呪文でも掛かっているのではないかと。母方の親戚は知らないが、父を除いた叔父、兄、双子の弟の身近な男性の親族が同性愛者。自分の行く末が恐ろしい。いや、考える頭が拒否する。偏見は無いつもりである。ただ、その恥ずかしい場面に出会いたくないだけ。 「兄さんはまだ帰ってきてないってことだね。奈智、一緒にディナーでもどう?」  うんと頷きそうになって、ハタと気付く。手にしているエコバックを覗く。 「今日、夕飯の食材買ってきたんだった……」  この時期、急に悪くなるものは無いが、それでも気分的に冷蔵庫へ入れたい。 「家に来るかい?」  その心遣いがいつも、とても好きだ。  優しく微笑んだ叔父に、奈智は今度こそ深く頷いた。  時緒との久しぶりの食事は楽しかった。学校のことや友達のこと、そして他の誰にも言えない、兄弟二人のことも。  食後のコーヒーを飲んでいる最中、時緒は思い出したように奈智に質問した。 「奈智はできた? 特定の相手」  ──むせた。盛大に。  息が、できない。水分が入った肺が痛い。 「あーあ、大丈夫? かわいいね」  背中を摩ってもらうが、それでもしばらくは治まらない。  それを狙ったかのような、携帯電話のある特定の人物専用の着信音。  ……沙和(さわ)だ。 「沙和、お久しぶり。今、奈智電話に出られないから、代わり」 『なんで、奈智、とっきーと居るの?』 「君たちが盛り上がってたから、奈智かわいそうに外でずっと凍えてたんだよ」 『言ってくれれば良かったのにー!』  言えるか、バカ。 『もーっ! なんで奈智って、堀ちゃん先輩といい、とっきーといい、危ない人たちに簡単に付いてっちゃうのっ?』  申し訳ないが、どこでもかしこでも盛ってる沙和には言われたくない。  俺はまったくもって悪くない。  全ての原因は……結局お前ら、二人か。考えるだけ、悲しくなってきた。  ねぇ、俺の居場所は、どこ? 「ねえ沙和。堀ちゃん先輩って、ダレ?」 『奈智を垂らしこんだ、色男ー』  おい! 発言全てが語弊だ。いい加減にして! 「ふーん」  おじさまが流し目で俺を見るよ。とても色っぽいけど、とても怖いよ? 口角が楽しそうに上がってるよ。何、企んでんの?  ……誰か、助けて。 「──まあ、いいや。これから奈智そっち送ってくよ」 『りょうかーい』  助かった。  そして、電話は切れた。  ここのところ、通話の頻度はあるものの、持ち主の自分が使った記憶があまりないのは、何故だろう?  奈智は首を傾げた。 それから、学生カバンの中に入れた覚えの無い怪しげなローションのボトルを発見したのは、奈智が自宅に戻ってから。

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