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5 風が吹けば桶屋が儲かる
授業を終え帰宅して、自宅玄関を開けて奈智(なち)は眼を丸くした。
「な、なちぃ……」
「っど、どうしたの? 沙和(さわ)っうわぁっ!」
急に飛びつかれ、奈智は受け止めきれずに双子の弟とともに無様にひっくり返った。本日は荷物が多く、両手は塞がっているし予想外の出来事であったため、受け身も取れず、後頭部を扉の角にぶつけた。
……いたい。
文句を言ってやろうと自分とほとんど変わらない顔を覗き込む。普段はコロコロと楽しげに切り替わる表情は今やぼろぼろと涙を流している。泣き出してしまった双子の弟に、奈智は困惑を隠せない。
まず、理由が解らない。
「……沙和? 取り合えず、落ち着こう?」
開け放した玄関先で自分を押し倒している双子の弟に、身動きの取れない奈智は提案した。
「もーっ! なちぃ聞いてる!?」
「はいはい、聞いてるよ」
何に対して泣いているのかと思えば、我が足立家長兄の多聴(たき)が女性と共に歩いているところを発見してしまった沙和の、いわゆる嫉妬だ。彼らは同性であり近親者であるも肉体関係も精神的な繋がりもある、要は恋人関係。
それを愚痴られる、自分は一体なんだろう。いや、他に言える相手が居ないのだ。
奈智は遠くを見つめる。
普段から、彼らに当てられているのに。甚だ迷惑。
彼らが仲良くすることには別段、全く奈智には関係が無い。しかし、甘い雰囲気になると、自宅に自分の居る場所がない。その為、天気のいい日は公園・日向ぼっこコースになるのだ。
普段から被害を被っているのに、この仕打ち。
「多聴兄ぃ、カッコイイから、あの女の人、もぉー超笑顔でさっ!」
ムカツク! と、憤ってテーブルを力任せに叩く双子の弟に、奈智は目を細める。
左様でございますか。……壊すなよ。
夕飯はどうしよう?
横で喚いている沙和をそのままに、奈智は考えを巡らす。今日は両親共々遅い日で、兄はそろそろ帰ってくるはずである。冷めても食べれる、もしくは簡単に温められるもの。
「ちょっとー! なち聞いてる?」
「はいはい」
そう言い置いて、奈智は今まで自身が発掘するまで埃を被って存在を忘れられていた圧力鍋を取り出した。母親も知らなかったとの事。
カレーでいいだろう。
「沙和、ニンジンとジャガイモとタマネギ出して」
「……なちのばかぁ、いいじゃん、減るもんじゃないしさぁー」
減るよ。俺の精神力。増えるのは頭痛と胃痛。ここのところ、薬が手放せないの知らないだろ。
「仕度しながら、聞くから。沙和もお腹減ってるんじゃない? ほら、ジャガイモの皮剥いて」
普段から、奈智の倍は食べる彼である。同じような背格好のクセに、どこに入るのだろう。不思議でならない。
「もぉー、仕方ないなー」
「はいはい、手を動かす」
「俺、心配だもん。八歳も違うし、社会人と高校生だし、多聴兄ぃカッコイイし」
ぐずぐずとナーバスになる沙和は珍しいと思う。普段は呆れるほど自信過剰である。それだけ、彼にとってショックを受けたということか。
「沙和は可愛いから、俺も心配だ」
ただいまも言わずにひょっこり現れたスーツ姿の長兄に、奈智はどんな反応をしたら良いか迷う。
「多聴兄ぃ! あの女の人、ダレ!?」
「……お帰りなさい」
無難に選んだ言葉も、大音量の沙和の声によってかき消されてしまう。
目の前で抱擁のシーンを見せ付けられ、奈智は回れ右をして具材が軟らかくなった鍋の中を覗く。本日の夕飯はほとんど仕上がった。後は味を整えるだけだ。
お玉で茶色のとろみが付いた液体をかき混ぜつつ、今夜の脱出場所の辺りをつける。馬に蹴られる趣味は毛頭無い。
──ない。
奈智は泣きたくなった。
現在時計の針は九時を示している。
こんな時間に友人宅にはお邪魔したくない。間違っても日向ぼっこの時間ではない。ファミレスか漫画喫茶か……できれば、それは避けたい。財布に響く。叔父の家は……翌日は休日であるため恋人とでも会っているだろう。
とことんついていない自分を呪いつつ、奈智は薬を内服して携帯電話と財布を持って自宅を後にした。
もちろん、鍋の火は消した。彼らが気付くとは思えないからだ。あとは盛り付けるだけだから、さすがに彼らでもできる。
さて、何処に行こうか。とりあえず、奈智は近場の公園を目指した。
「……一体」
奈智は五カ所目の公園のベンチに崩れ落ちた。
最初の場所は男女のカップルに譲った。そこまでは、いい。問題はその後だ。
巡る公園ごとになぜか奈智は頭の沸いた男達に言い寄られ、場所を移す羽目に陥った。数にして、六人。
もう、奈智は息も絶え絶えだった。それも、艶かしくうっすらと汗を滲ませた肌も男達を煽っているとは本人全く気付かない。
「……気持ち、わる」
胃の辺りに不快感がある。食事も摂らずに薬を摂取したせいか。しかし不可抗力だ。自分は悪くない。もう少しあの場に留まっていたら、間違いなく頭痛の進行もしくは砂を吐いて再起不能になっていたであろう。
「病院、行った方がいいかな……」
苦手なので、できれば行きたくないのだが。今は夜間なので、夜間診療費がかかる。明日の午前中だな。
眼も開けていられなくて、腕で視界を遮る。丁度ヒンヤリとして気持ちが良い。
改善するどころか、悪化する吐き気と倦怠感。これはちょっと、外で自分ではどうにかできそうもない。
両親に連絡しようか? いや、それで自宅に居ない理由を問い詰められたら、困る。
奈智の前では明け透けな彼らも、両親の前ではそんな雰囲気を醸しださない。それを自分が曝すようなことはできない。
『ウチに来てもいいぞ』
急に閃いた、双子の弟の先輩。社交辞令であろうが、見た目に反してどうも世話好きらしい彼の言葉に少しだけ甘えていいだろうか?
三回、だけ。
『どうした、奈智?』
きっかり三回目のコールに出てくれた彼の声音に安堵する。
「あ……なんでも、ない、で」
『どこにいる?』
──なぜ、わかるのだろう。
迷惑を掛けたくない気持ちと、心細さからくる気持ちとが相反し、どうしてよいか解らないくせに、口は勝手に現在地を彼に告げる。
『十分で行く。いいか、そこを動くな』
「は、ぃ・・・・・・」
有無を言わせない強い口調で言い切られる。
……来てもらって、どうするつもりなのだろう、自分は。
充分に働かない頭で奈智は自分の行動を振り返った。
きっかり十分後、息を切らせて現れた堀ちゃん先輩は、奈智の状態を見て眉間に皺を寄せた。
……ぁ、迷惑かけたなぁ。
「まったく」
深い溜め息を吐かれた。
「こんなになるまで、放っておくな。自分の身体だろう?」
「っごめん、なさぃ……」
「怒ってないから、謝るな」
額に乗せられる大きな手が、気持ちいい。同時に広がっていく安心感。
ベンチでぐったりと横になっている奈智の頭は、堀ちゃん先輩の膝に乗せられる。
「熱あるな」
「たぶん、……はしった、から」
「走った?」
「変わったひとが、いて……」
六人。
それから逃げていたから。
「…………タンコブあるな」
妙な沈黙の後、堀ちゃん先輩は奈智の指通りのいい髪を梳く。
「……さわの、せい」
元を正せば、あれもこれも。しかし、嫌いにはなれない。
奈智はちいさな息を吐いた。
「ちょっと、つかれた……」
「ああ、ゆっくり休め」
影が射すと同時に、さらりと唇を攫う感触。
──あつい。
考えなきゃいけないことが増えたなぁ、と働かない頭で奈智はぼんやりと思った。
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