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8 おつかい

 奈智(なち)は自宅の固定電話を取って後悔した。 「はい、足立で」 『チッ』  いきなり電話先で舌打ちをされる。足立家長男・多聴(たき)である。 「どうも、沙和(さわ)じゃなくてすみません」 『沙和は?』 「出かけたよ。行き先は知らない」  幼い子どもではないのだ。毎回行き先を知るわけがない。たとえ、双子だとしても。そんな態度をするくらいなら、沙和の携帯電話に連絡すればいいのに。やれやれと奈智は脱力した。 「じゃあ、切るね」 『待て。ソファに封筒あるか?』  見ると、茶色の封筒が横たわっている。 「あるよ」  彼にしては珍しく忘れ物か。 『持って来い。会社だ』 「えぇっ?! ちょっ……待ってよ」  無常にも奈智の手には虚しく響く電子音が残っただけだった。  見上げて、地面からビルのてっぺんが確認できず、奈智は見上げるのを諦めた。多聴の勤務する会社はこの高層ビルの最上階である。何の仕事かはいまいちよく解らない。ただ、兄は二十五という若さでその会社の重要な役のようである、というだけ。  性格はあまりよろしくないのに。いや、外面は大変よい。仕事に支障なければ、性格は関係ないのであろうか。  さて、最上階にまで来たのはいい。問題は、どこに兄がいるのかということ。  うろ覚えの社名を頼りにエレベーターの柱に書かれている案内を確認する。  ──よく、解らない。 「奈智くん?」  頭を捻っていると、どこかで聞いた声がした。 「……木戸(きど)、さん」  振り返れば、いつしか公園で日向ぼっこしているときにうっかり寝入ってしまい、どうも寝ぼけている間にアドレス交換をしたらしい青年だった。 「あ、覚えててくれたんだ。こんな所でどうしたの?」 「あ、おつかいを」 「可愛いね。どこに?」 「はぁ……それが、兄の使いなのですけれど」  奈智が抱えている大きな茶封筒を確認して、彼は少し考える素振りを見せた。 「お兄さんって?」 「足立た──」 「奈智」  名前を呼ばれ、声のほうを向くと捜し求めていた兄が不機嫌そうに煙草をふかしていた。副流煙と禁煙が叫ばれる昨今、このドデカイビルでそんな事をしていていいのですか? 兄よ。  そして、何故そんなに不機嫌なのですか。せっかく忘れ物、持ってきたのに。 「足立と弟さん、あんまり似てないね。よかったよかった」 「うるせぇよ、とっとと消えろデカブツ」  えぇぇっ! 社会人として、どうですか?お兄様。  どうも、険悪のムードらしいこの場所から奈智は脱出を試みる。 「あ、あの……俺、兄にこれ渡すだけなので、これで失礼しますっ! ありがとうございましたっ」 「おや、残念。──またね、奈智くん」 「──え?」  何かが触れて離れていく感触の残る、頬。  あまりに一瞬の事で、奈智は反応できなかった。  遠くで、舌打ちが聞こえる。  悠然と自分から離れていく彼の背を見送る。  兄とすれ違う時、思い出したように嫌々ながら多聴が木戸に声を掛けた。 「今から、高熱で溜まった休暇を消化する。残りの仕事はてめぇで片付けろ」 「やれやれ。困った事だね」 「拒否するなら、会社辞めてやる」  この就職難のご時勢に、何たる発言。 「性格はともかく、君の能力は大変惜しいからね。仕方がないから許可するよ」 「どーも。こいつはくれてやるよ、しゃちょー」  茶封筒を抜き取り、上司に向かって投げる。  呆然とする奈智は肩に腕を回され、多聴によってエレベーターへ乗せられてしまった。  浮遊感を感じつつ、頭の中もどこか他人事のようである。  知った事実に軽く頭が真っ白。 「……社長さん、なの? 木戸さん」 「あいつと知り合いか?」 「会うの、二回目だよ」  公園でうたた寝した上に寝ぼけていて記憶がないとは、とても言えない。  ……しかし、元々の原因はこの兄と双子の弟だ。   兄がお世話になっていますとご挨拶をしなければいけなかった。本当に迷惑を掛けているようだし。 「よかったの? 仕事。それに休み取っても今、沙和居ないよ?」 「俺の不在で機能できんなら要らん。沙和が居なくても、お前が居るだろうが」 「……沙和の代わりは出来ないからね」 「当たり前だ。出来たとしても、こっちから願い下げだ、バカ。お前は奈智であって沙和じゃない。似たような顔しててもな」  ビルを出るとき、他の社員が兄に会釈をするように見えるのは幻覚であろう。 「どこ行くの? 家とは逆方向だよ?」 「飯。どうせ、喰ってないだろ」    なぜ、誰も彼も人の食生活の心配をするのであろうか。  連れて行かれた先は、オムライス屋さんだった。  あまり兄に似合わないような気もするが、落ち着いた雰囲気のよい隠れ家の様なところだ。高校生の自分でも入れるような、暖かな木の空間。遅い時間帯であったため、客はまばら。自分達以外にもう一組の男女が居ただけだった。 「お前ら、男受けいいな」 「……沙和はともかく、俺は違うと思うよ」  オムライスを口に運びながら返すと、とても奇妙な顔をされた。 「あいつは、なんだ」 「あいつって?」 「会社であっただろうが。ひょろながのデカブツ。あと沙和の先輩ってやつ」  木戸さんと堀ちゃん先輩。  木戸さんは二回しか会ったことなくて不明。堀ちゃん先輩はお世話好き。 「さぁ? 多聴兄は沙和の心配だけ、してればいいんじゃない?」  あの子は甘え上手で引く手数多。奈智には到底真似できない。 「一応、お前も俺の弟だろうが」  溜め息を吐かれつつの言葉に奈智は眼を丸くした。  天上天下唯我独尊的な兄からそんな言葉が出るとは。雨ではなく槍でも降るかと、窓の外を眺めてしまう。晴天である。 「多聴兄、何かあったの?」  ここまで彼が奈智を気にかけるのは、もしかしたら初めてかもしれない。 「お前、自分で気付いてるか? 押しに弱いぞ。貞操観念が」  べしっ!  眉を寄せて、煙草をふかす兄の頭にお盆が当たって音を立てる。 「ちょっと、人の店で昼間っから何てこと言ってんの」 「……るせえよ、香坂(こうさか)。客に暴力振るうんじゃねぇ」  先程料理を運んできてくれた店のスタッフだった。藍色の三角巾で長い髪を垂らさないようにしているため、その美貌が惜しげもなく曝されている。男ではあるが。  見れば、他の客はいない。貸切状態である。 「改めましてようこそ、オムライス専門店『雨宿り』へ。ここのマネージャーの香坂怜(りょう)です。ごゆっくりしていってください」  にっこりと極上の笑みを浮かべられ、意味もなく顔が赤くなる。  美人だ。 「あ、足立奈智です。オムライスとっても、おいしいです」 「ありがとう。……大変だね、多聴と兄弟だと」 「……っ!」 「てめぇ、どういう意味だ」 「そのまんまの……あーあ、弟さん泣いちゃったじゃない」 「っ香坂さん! ま、また、お店にオムライス食べてお話に来てもいいですか!?」 「どうぞ。サービスするよ」  こんなところに思わぬ同志がいるとは、感激でうれし涙である。  癒しの場を一つ見つけた。一つではあるが、大変大きな灯である。  そんな奈智を横目に多聴は溜め息を一つ吐いた。 感動に浸った奈智はこの夜、木戸から着信に頭を抱える事となる。

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