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14 ベルリンの壁
歴史で習った冷戦とはこのような状態を示すのであろうか?
奈智(なち)は食卓を囲みながら、行儀悪く咥え箸をして思案した。
授業の教科としてはあまり得意ではないが、名前は知っている。
確か、西と東に分かれて武力を用いらず、激しく対立・抗争する緊張状態であったと記憶している。
目の前の纏う空気を読んで、自分はさながらベルリンの壁。
……ケンカ、してる。
珍しい。
あの、いつも甘々で周囲(主に被害を受けるのは自分)を巻き込む彼らが。事情は知らない。話さないし、聞かないから。しかし、この食卓は楽しくない。何もしていない、奈智が。しかも、強制的に彼らの馴れ初めを彷彿され、とても嫌な気分だ。
彼らがくっつくまでの紆余曲折……思い出したくない。
本日も例に漏れず、両親は不在。ここまで万年新婚夫婦も珍しいのではないのかと思う。
まぁ、だから新しい弟か妹ができるんだけどさ。
「……おいしくない」
ぼそりと呟いたその声を耳ざとく聞きつけ、多聴と沙和はこちらを向いた。
「やっぱり、おいしくないよねー、なちぃー。空気、悪いよねー」
誰と誰の所為ですか?
自分の作った夕飯の食卓で被害者は俺。加害者共は険悪な雰囲気を醸しだしながら、人がせっせと作成した飯を食らう。
「ちょっと、聞いてよー、ひどいんだよ。多聴兄ぃったら、リング使うんだよ」
? リング? 輪っか?
「もー、頭ン中ぐるぐるしちゃうし、勝手に泣けてくるし、イきたくてもイけないしー」
「ぁあ? 何だかんだいって、あんあんヨガってたじゃねぇか」
「……っ!?」
思い当たった事に、奈智は飲みかけのご飯を気管に誤嚥し、激しく噎せた後にテーブルに沈んだ。
──……。
彼らは自分に一体、何を求めているのだろう。
犬も喰わないとは正にこのこと。奈智の意識は遠のきかける。
ただ一つ、解る事。
自分はここに居てはいけない。
「…………ごちそうさまでした」
言い合いをはじめた二人にか、それとも食材に対してか、自分でもよく解らないまま奈智は食べかけの食器を片付け、頭痛と胃痛を伴い、喉に不快感を覚える身体で自宅を後にした。
いくら陽が長くなったとはいえ、さすがにこの時間は街灯なしでは顔の判別をするのは難しい。かといって、あまり光の近くに寄り過ぎると虫の大群で大変な事になる。そのため、適度な位置を保って、奈智は公園のベンチに腰を下ろした。
そして、現在は眼を見開いたまま、固まっていた。
「……あ、あの……?」
正確には、両頬を包まれ顔を固定されて動かせない。
自分の眼前数センチ先には、何故かロングストレートの黒髪のかなり顔の整った、二十代であろう年上の若い美女が。
全くもって、面識なし。
理由が解らない。
「っど、どちら様で……」
あまりにも間抜けな質問であるとは思うが、この状態の経緯も判断つかない。
逃げてきた三つ目の公園で休憩していて、強制的に顔を上げさせられたかと思ったら、彼女が居た。
足音も気配にも気付かなかった。その為、彼女がどこから来たのか、はじめから居たのかすら、奈智には判断できない。
「そこに、いい物持っているわね」
奈智の胸元を示される。
「そして、いい相(そう)をしているわ。あの子に勿体ないくらい。じゃあね、変な輩が多いから、帰りは気をつけて帰るのよ、奈智くん」
「……ぇ」
するりと彼女の手が離れて行ったかと思えば、さらりと頬に当たる、何か。
ふふっと意味深な言葉を残し去って行く彼女の背を見送ったまま、奈智ははたと気づく。
何故、彼女は自分の名前を知っているのか。
そして、胸元にあるコレは本当にいい物?
チェーンを通して首に掛けているが、現在は服で隠れて見えない筈である。
「……なんで、解るんだろ。っあ! 解る人なら、あの人に返してもらえば!」
やっと気付いて、その姿を探すも後の祭りである。
「あぁぁ……」
奈智は溜め息を吐いて、肩を落とした。
チェーンを引っ張り出して、長さ五センチ程度の年代ものの鍵を眺める。
これをもらって、かれこれ一ヶ月経つ。
せっかく好意で渡されたものだが、自分が持っていても仕方がないものだろうと思い、彼に返そうとした。
たくさんの花を抱え、祖父と最愛のペットの墓参りをしつつ、鍵を託してくれた彼に会えるかもしれないと寺を訪ねた。
やはり、目当ての人物は数年前に他界しており、それでは自分が話を交わした人間は誰だったのかと頭を捻る。遺影は彼だった。
解らないことばかりである。
そして、先ほどの美女である。
「……なんなんだろ……」
自分には判断がつかないことばかりで、奈智は頭を抱えた。
彼女の正体を知って、奈智が脱力と共に安堵するのは、もうしばらく後のこと。
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