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29 足音

 どうしたものか、奈智は頭を悩ませていた。  己の眼前には、茹で上げて後は食べるだけの素麺(そうめん)。  摂取しなければならないのは、理解している。  だが、しかし。どうしても食思(しょくし)が働かない。  堀ちゃん先輩の知り合いの医師からは、何でもいいから食べろ。栄養をつけろと口酸っぱく言われた。  ──……ムリ。  奈智はため息をついて、持っていた箸を使用しないままテーブルに置いた。  そういえば、もうすぐ薬が切れるころだ。  気分転換も含めて診察してもらってこよう。 「多聴兄、沙和。この素麺食べてくれていいから。出掛けてくるね」  そう言って、奈智はテーブル挟んだ向かいでこれ見よがしに周りの暑さも跳ね除ける程の熱愛ぶりを披露する長兄と双子弟を一瞥し、存在を主張する胃を押さえつつふらつく足取りで自宅を後にした。 「……やっぱり、怒られた」  奈智を確認した瞬間、凶悪な笑顔を貼りつけた医師に腕を引き摺られ、ベッドに寝かされて点滴を打たれた。  こっ酷く叱られ、たっぷりと薬を処方され、何故か彼女と一緒に食事を摂った。  まぁ、おもしろい人だったから良かったけど。  食事も美味しかったが、やはり量は食べられなかった。だが、点滴で水分と糖分が入った所為か、身体の調子は幾分かいい。万全ではないが。  自宅を出たときにはギラギラと眩しかった太陽が何だかんだで時間を喰ってしまい、その存在がとっぷりと隠されてしまった。日中は汗が滴るほどだったのに、現在は涼しい風が吹いてそれを忘れさせてくれるほどに。  さすがに、兄弟達の情事ももう終わっているはずだ。  新たに何回戦も行っていないことを祈るのみ。  やっぱり避難場所を確保しておかなければ、ならないのか。  だが、しかし、なぜ自分が。  納得いかない部分が多々あるが、己が移動しない限り彼らはその場で絡まり続けるであろう。  ──なんか、考えるだけ、悲しくなってきた……。  傍にある電柱に不審者よろしく泣き付いていれば、響く着信音。  堀ちゃん先輩、だ。  彼とはこの前一緒に川に涼みに行ったところである。  なんだろう? 「は」 『奈智! 変なことされなかったかっ!?』  い?  ──え?  めずらしく早口で捲くし立てられ、奈智は眼を剥いた。 「……え、えっと?」  内容が、理解できないのですが?  困惑した奈智に気付いたのか、一つ咳払いをして、それでもいつもよりは焦ったように彼は言葉を紡ぐ。 『松本に変なことされなかったか?』 「松本さんって、先生(医師)の事ですか? いえ、全く。美味しいお食事を頂いて」  むしろこっちが迷惑を掛けた方だ。 『奈智、あれにはもう近づくな』  や、医師と患者ですが? たぶん、現在の主治医です。  何を心配しているのか不思議に思いつつ、滑るように静かに近づいた車を確認して奈智は声もなく瞠目した。  一瞬のはずが、やけにスローモーションに捉える。  微笑を湛えながら差し出された手と、鼻をくすぐる甘い匂い。  開かれた扉からいつぞや聞いたことのある、やさしい声音が掛けられる。 「迎えに来たよ。僕の奈智」 それから、奈智はこつ然と姿を消した。堀ちゃん先輩のみならず兄弟からも。

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