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30 トリカゴ
「はい、奈智くん」
「……どうも、アリガトウゴザイマス」
「心配しなくても、なにも入ってないよ」
クスリと魅力的に笑った長身の男からカップを預かり、奈智はその水面を眺めた。
匂いと色からして、たぶんカフェオレ。コーヒーは苦くて飲めない。それすらも、相手は承知であろう。そして、ここの所胃痛持ちである。
しばらく車で走り、現在地も不明。マンションか何かの一室だろう。大声を出して誰かが来てくれる保証はどこにもない。今は彼は落ち着いているように見えるが、その行為によって引き金になって事態が悪化しても楽しくない。
そして、自分の荷物は彼の手の内だ。
──しょうがない。聞きたいこともあるし、いっか。
奈智はカフェオレに口を付けた。
──あまい。
自分好みだ。
「飲む姿も、かわいいね」
うっとりとした声に、視線を上げた。
向かいのソファに座る彼は観賞するつもりか、飲み物をローテーブルの端に置いたまま。
居心地はすこぶる良くない。
「……俺は、男です。なんで、俺なんですか?」
ストーキング対象が。
「関係ないよ。キレイなものが好きなんだ。恋とはそういうものだろう?」
「はぁ……?」
そういうものだろうか?
生憎と、自分にはそういう嗜好はないため、申し訳ないがあまり理解できない。そして自分はそれほど綺麗な代物ではないと思う。
「奈智も僕の愛を受け入れてくれるから、来てくれたんだろ。大好きだよ」
正確には押し込まれたんだけどね。
堀ちゃん先輩と通話中、背後から近づいた車に対処が遅れて引きずり込まれた。焦ってドアを開けようと試みるも、チャイルドロックを掛けられて出ることもままならず、その間に車は走り出してしまった。
自分の迂闊さを今さらながらに悔やんでも始まりはしない。半目になった奈智を無視して、彼はうっとりと語り出す。
「他の誰もいらない、奈智だけ」
「……これも、『愛』なんですか? 二ノ宮(にのみや)先生」
ジャラリと上げて見せたのは、あろうことか両の手に繋がれた手錠。その先には長い鎖がベッドヘッドに繋がっている。
──……こんな愛、いらない。
自分は何にも悪いことしてないのに。しかも逃げる素振りも車に押し込まれて以降、してない。
「あぁ、そうだよ。ゾクゾクくるね。奈智の細い腕によく映えるよ。僕たちの愛の巣には誰にも入れないよ。さあ、奈智。苗字なんて他人行儀は止(よ)して、名前を呼んで」
三年も前の事だ。名前だなんて覚えていない。むしろ苗字を覚えていた自分を褒めてあげたい。
「…………二ノ宮先生、どうしてこんなことしたんですか?」
「恥ずかしがっているんだね。かわいいね」
キャッチボールのできない会話に、奈智は段々と泣きたくなってきた。
「二ノ宮先生は、沙和の家庭教師だったでしょ?」
「馴れ初めを知りたいのかい?」
いろいろと語弊があるのは、気のせいではないはず。痛む頭に顔を顰めつつ、奈智は続きを促した。そう、はじめて彼が訪れたのは、双子の弟の家庭教師としてだ。
もともと奈智は多聴の通っていた高校に進学するつもりは更々なく、別の学校を希望していた。
問題は沙和だった。
自宅から見て西に位置する長兄の通っていた学校はそれなりに偏差値が高い進学校。それに甘ったれな弟が易々と入学できれば、他の生徒が嘆くであろう。そんな成績だった。
そんな中、両親の連れてきたのが二ノ宮という男だった。
彼はとても教え方が上手く、沙和も両親も喜んでいた。無事に双子の弟も高校進学でき、彼らがそれ以降連絡を取っていたのかどうかすらも、奈智は知らない。
彼が足立家に訪れていたときも、奈智はそれこそ会ったときに挨拶をする程度で他には特別関わりはなかったはずである。
──それが、なんで?
湧きあがるのは疑問ばかりである。
「はじめは沙和くんと一緒の顔で驚いたよ」
それはそうであろう。一卵性双生児だ。性格は全く違うが。
奈智は再びカフェオレを口に含んだ。
勉強の合間の休憩時間。
『ねぇー、ニノちゃん。しあわせって、どうすればなれるー?』
『幸せ?』
『そう!』
元気に頷いた教え子に家庭教師は首を捻った。
『幸せってのは人それぞれじゃないのかな? おいしいもの食べるのだったり、好きな人と一緒に居たり、お金だったり仕事だったり。沙和くんは、どんな時幸せだなって感じるの?』
『うーんとね、おいしーの食べてるときとー、好きな人と一緒に居るときー!』
『それなら、それでいいんじゃないの』
素直な反応に、家庭教師は微笑んだ。
『ちがうのー! オレじゃなくって、奈智のことー!!』
『なち? 奈智くんって、沙和くんの双子の?』
『そう!! あの子、いっつも独りで何とかしようとすんのー! 相談しないしー。誰か付いてないと、しんぱーい!! ニノちゃん、いい人しらなーい?』
『そうだね……』
可愛らしく小首を傾げた教え子に、二ノ宮は考え込んだ。
「知っていくうちに、どんどん奈智くんが好きになってね」
──沙和!!
そんなことで、ストーカーになったんですかっ!!
呆然としつつ、奈智は押さえようのない眩暈を覚えて頭を抱えた。
「僕に想われて、幸せだろう?」
一体、どんな天上天下唯我独尊ですか。
兄とは別のベクトルの人物に出会って、奈智は言いようのない敗北感を噛み締めていた。
もう、床に泣き伏したい。
知らなかった振りをしたい。
勝手にはた迷惑な世話を焼いた沙和も沙和だが、この勘違い男もどうにかしてほしい所である。
──俺そろそろ本気で、色んな所に怒ってもいいかな……?
楽しみ半分、欠片は己の事を心配してくれているのであろう双子の弟は、ひとまず置いておこう。
「……そのとき中学生の沙和が何か言ったとしても、二ノ宮先生はもう成人過ぎているでしょう?」
当時はまだしも、今は分別ある大人であるはずだと言外に伝えれば、彼はうっとりと自分の言葉に酔いしれた。
「奈智くん、きっかけは些細な事だよ。それが愛に発展するのは、どうしようもないことだよ」
そんな大真面目に、ストーカーを正当化しないで下さい。
「……あ、れ?」
「どうしたの?」
「ん……なんでも、ないです」
眩暈が治らない。頭も重いのは度重なるショックなだけではないハズだ。
心配気なその声を耳にしつつ、視線を上げた先には微笑んだ彼の顔と波打った天井。
これは、おかしい。
疑問を感じる奈智を余所に、目の前の美貌は思い当たったことに笑みを深くした。
「あぁ、そろそろ効いてきたんだね」
「な、に……?」
頬を撫でるその広い掌に不快感しか感じない。
──先輩と、違う……?
嫌な予感をヒシヒシと感じつつ、勝手に下がってくる瞼を擦ればそこに落とされる口付け。それを遮る動作さえ、億劫。
己の身体に起こった異変に、徐々に膨れる焦燥感。
「クスリが効いてきたね。おかしなモノじゃないから平気だよ。僕に処方された安定剤だから」
ウソツキ!!
何も入っていないと渡されたカフェオレには、怪しげなモノが混入していたという事だ。今更ながらに素直に口を付けてしまった己に後悔する。
「……ゃ、」
「かわいいよ。僕の奈智」
力の抜け切った身体を受け止められ、むせ返るような甘ったるい匂いに包まれる。唇に触れる物に無意識に背筋を振るわせ、奈智の抵抗空(むな)しく遠くにリップ音を聞いた。
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