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31 枷

 ぼんやりとした重い頭を引き摺りつつ、起こした身体に奈智は嘆息した。  状況は全く改善していない。  手首は拘束されたままだし、己の痴態を楽しんでいたであろう男の笑顔は目の前にそのままだ。ひとつ違うのは、右の掌に巻かれた包帯。  意識の途切れる間際に、握った何か。遠くで痛みを感じつつ、結局ブラックアウト。  あれから、どのくらい時間が経ったのだろう。  車に乗せられた時点で既にこの日中の長い時期でも暗くなってきた頃だったのだ。しばらく不本意なドライブに同行させられ、話をして強制的に眠らされた。  急に通話が切れた事に対し、堀ちゃん先輩は怒っていないだろうか? 要らぬ心配をかけてはいないだろうか?  絡み付くような視線を無視し、奈智は窓際に寄ろうとした。鎖が耳障りな音を立てる。 「窓開かないよ。ここ最上階だから、奈智くんでも飛べないよ」 「……ご忠告、ありがとうございます」  うれしくて、泣けてくる。  耳元で低く囁かれた声に眉を顰める。 「……放してください」  ふらつく足取りを支えてくれたことには感謝だが、元を正せばすべての原因はこの男である。 「転んじゃうよ?」  ため息を吐いて、奈智は男を仰いだ。 「二ノ宮先生は、どうしたいんですか?」 「奈智くんと一緒に居たいだけだよ」  これではまったくの平行線なままだ。 「でも、俺も家に帰らなきゃいけないし、先生もここにずっと居ることは出来ないでしょ?」  合わせた視線に彼はキョトンとした。 「なんで? ココに居れば、足りないものはすぐ手に入るし、いつまでも居れるよ? 誰にも僕と奈智くんの邪魔はできないよ」  ──これでは、ダメだ。  再び起こした眩暈に顔を覆えば、その手を引かれる。 「そんなに、うれしいんだね。奈智。僕もだよ」 「二ノ宮せん──っい!」  巻かれた包帯に爪を立てられ、じんわりと滲む赤。  焼けるような痛みに、奈智は顔を歪ませて悲鳴を上げた。 「あぁ……そんな表情もいいよ、奈智」 「ぃ、ったいッ──っやぁ!」 「奈智のココ、僕のを入れたら裂けちゃうかな?」  楽しそうに耳元でひそめ、耳介を甘噛みされる。同時に嫌らしく触られる臀部に奈智は体を震わせて距離を取ろうとするも、叶わず。 「僕の、奈智」  一言ずつ噛みしめられるようなそれに、湧き上がるは悪寒。 「──……っはな、して……」 「泣くほど嬉しいんだね。かわいいよ」  リップ音を響かせ己の目尻に這わされる舌。  グチャグチャの思考回路では何も解決策を見出(みいだ)せず、壊れたように首を振り拒絶を繰り返すのみ。  俺、普通の日常を送っていたハズなのに……。  仕舞いには現実逃避を始める頭に、いっその事流されてしまおうかと誘惑が囁く。  ──疲れた。  拘束された腕はすぐに抵抗を封じられるし、足の間には男の身体が入り込んでいるし。顔を背ければ、強い力で固定されるし。首筋から徐々に下降するネットリとした舌使いに肌を震わせ、甘噛みされる胸元にか細い悲鳴が勝手に上がる。 「僕の、奈智」  ──……もう、ヤダ。 「まったく、いたいけな青少年を襲うんじゃないよ。他所(よそ)を当たんなさい」  ため息混じりの、だがしかしからかい混じりの台詞が放り投げられる。記憶の片隅に引っかかり、奈智はパチクリと眼を見開いた。 「人が嫌がることはしちゃあいけませんって、パパに教わらなかった?」  人を食ったような声音と共に、細められる瞳。  ビシリと着込んだスーツ姿に見覚えがあった。  ──あ、店長さん。  ……なんで?  いつぞや別件で助けてくれた事のある、オムライス専門店『雨宿り』の店長、彼だった。 「あ、あんた、誰っ?! 不法侵入だっ!!」 「まぁ、不法侵入は否定できないけどね。強姦よりはいぃんじゃないの? そこんとこも含めて、僕ちゃんのパパにでも聞いてみましょうか? 専門でしょ」  ケロリと言い放つ『雨宿り』店長に男は見る間もなく顔を青くした。 「なっ……!」 「確か、僕ちゃんのパパには貸しがいくつか残ってたハズだけど。──ねぇ、いかが?」  声を低くした後半はいつの間にか手にしていた携帯電話へと向けられていた。  おちゃらけた言葉とは一変、流し目に二ノ宮を捉える視線は鋭い。 「……へぇーえ、」  ビクリと肩を震わせた二ノ宮は、さながらヘビに見込まれたカエルのよう。  事態についていけない奈智は呆然とその様子を眺めていた。  一体、何が起こっているのか。 「っそ、それがっ、電話がっパパとは、限らないっ!!」  叫ぶように声を上げた男に哀れむ様子も無く、『雨宿り』店長は淡々としていた。 「一理あるね」 「それなら──」 「取り合えず少年から退きなさいよ。なかなか悩ましい姿で眼の保養になるけどね、足立ンとこの弟君は。──こら、いつまで突っ立ってんの、怜(りょう)」  自分達を通り過ぎ、通話中の男が眼を向けた先には二ノ宮に負けず劣らず顔色を無くしたオムライス専門店『雨宿り』マネージャーの立ち尽くす姿。 「僕ちゃんと『おはなし』してくるから、弟君よろしく。えぇっと……コレか? 多分、お手々のカギ。外してやって」  二ノ宮のポケットを勝手に探り、そういって放り投げられる銀色に驚きを隠せない。  あの人、一体何者?  奈智の心情を悟ったのか、一瞥した『雨宿り』店長は鼻歌でも歌いそうなほど綺麗に口角を上げ、二ノ宮を引き摺っていった。眼には読み取れない感情の色を湛えて。 「……なち、くん」  歪められる美貌に奈智は戸惑った。 「あ、あの、ありがとう、ござい、ます……?」  いまいち状況が掴めないが、どうやら二ノ宮から開放されたのだろうことは解る。  カシャン。  手首の拘束が取れる。  しばらく振りに撫でるそこは、青紫に変色していた。ついでに、出血も少し。  これでは半袖を着ることができない。この真夏に。暑さで死んだら、どうしてくれよう? 「……こんなに、されて」  自分よりも悲痛な表情をする相手に奈智は焦った。 「う、あ、でも……それほど痛くないです、よ?」  以前、兄にお盆を当てた気丈な人とはとても思えず、ちいさな嘘をついた。  彼は困ったように眉を寄せ、一度己の唇を噛んだ。 「──そう。無理は、良くないよ……?」  緩い癖のある長い髪の彼が一瞬消えたと思ったら、大きめなストールのような物を身体に掛けられていた。  ふんわりと香る匂い。甘ったるい、鼻に付く臭いではなく。  少し、安心する。 「お前さん達は先に帰んなさい」  そう言って投げられる物に見覚えがあった。  人質に取られた己のバック。 「あ、ありがとうございます」  ペコリと頭を下げれば、からかいが掛けられる。 「どーいたしまして。寄り道して、オオカミに食べられないように真っ直ぐ帰んなさい。弟君」 「っ壮大(あきひろ)! あんたはそうやって!」  声を上げて食いついた『雨宿り』マネージャーに店長は目を細めた。 「そこは関与するトコじゃないでしょ。いい子にそのまンま、足立家へ届けておいで」 「……」 「──怜」  諭すようなそれに、一度は下唇を噛んだ彼だったが長いため息をついたのち、奈智の被っているストールの裾を引っ張って踵を返した。 「奈智くん、行くよ!」 「っえ、ぇ、あ、はいっ」  置いていかれないように足を速めた奈智だったが、部屋を出た途端に目の前を歩く背は労わるようにして歩調を緩めてくれた。 「……大変だったね」 「あ、まぁ、はい」  なかなか出来ない経験ではあろう。できれば一生したくないが。  今まで放って置いた、自分の責任である。 「これでしばらくは静かになると思うから。ゆっくり休んで」  乗車を促された自動車の助手席に身を預けながら、薄暗くなっていく外を眺めて奈智は眼を閉じた。 「落ち着いたら、『雨宿り』においで。サービスするから」  穏やかな彼の声が車内に響いた。 勢いよく沙和に飛び掛られて奈智が後頭部にコブを作るのは、帰宅直後。

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