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36 駆け抜けた夜道の先

「……あ、夜になってたんだ」  熱帯夜の街灯に群がる虫達を眺めつつ、奈智は現在の時間の遅さにやっと気付いた。  一人ベンチに腰掛け、ぼうっとしていた。  いい加減に自宅に戻らなければいけない。  昼過ぎに香坂に会い、話をして飲みかけのコップも片づけずに『雨宿り』を飛び出したのが夕方だった。辺りも暗くなるはずである。  行儀悪くベンチの上で膝を抱えた。  一度は目的地に赴いたが遠目に彼の顔を確認した直後、予定を変更してすぐにその場から立ち去った。  兄が変なこと言ってすみません。とか、心配かけたみたいでごめんなさい。とかも、まだ言えていない。  ──今は、言いに行けない。  引き寄せた身体に顔を伏せ、更にちいさく縮こまる。  あの二ノ宮の時は本当に彼に迷惑を掛けた。  やさしい彼が自分を気にしてくれたばっかりに、本当ならばしなくても良い侮辱を兄から受け、要らぬ心配をさせた。  彼に会った春の頃、落ち着いたのだ。変わらず写真や手紙は送られてきていたが、写真の枚数も減り近くからの盗撮はほとんど無かった。もしかしたら、沙和からストーキングのことを聞いて気を配ってくれていたのかもしれない。  握り締めた己の掌に爪が食い込む。  ふと、疑問になる。  エスカレートする一方だった行為に彼が現れた時期。  ……偶然?  それにしても出来すぎている気がするのは気のせいだろうか。  奈智が知っている限り、彼がストーカーの存在を知ったのは兄にピアッシングを施されたその日のはず。  どこかが、食い違っている。  ──実は堀ちゃん先輩、沙和に頼まれた?  そういえば。  顔を上げて鬱蒼(うっそう)と茂る木々の中、奈智は辺りを見回した。  目的地を方向転換して手近な公園に入ったけれど、ココははじめて堀ちゃん先輩と会った場所だった。  ──もしかして、沙和が会わせた……?  いやしかし、沙和と自分を間違えたのだ。  いずれにしても、彼は『奈智』という自分の存在は知らず沙和として声を掛けた。初めて声を掛けられたのも、沙和としてだった。  彼のやさしさに甘えて。  自分の的外れな勘違いに虫唾(むしず)が走る。  同時にチラつく、先ほどの光景。  ──綺麗な、女の人だった……。  親しげに堀ちゃん先輩に腕を絡ませていたあの人。ロングストレートの彼女に奈智は見覚えがあった。  『シズカ』と、先輩の口がその名を紡いでいた。  自分も確か二度ほど真夜中に出会ったことがある。  ──そう、か。  あれは、もう彼とは会うなという牽制(けんせい)だったのだろう。しかも、二回も。  それに気付かない己に更に嫌悪する。  美男美女でとても絵になる。  過去近寄ると子ができるという噂があると、真面目な顔をした双子の弟に諭されたくらいである。それだけモテるのだ。  幼馴染に気付かされた己の気持ちも、元から伝える気もなかったもの。今更何をするでもない。自分には関係ない。  だから、あの女の人ときっと今は。  そう、こんな整った顔の──。 「──……ぇ、」  眼前の光景に、奈智はこれ以上ないくらい瞠目(どうもく)して固まった。  パッチリとした瞳に、高い鼻。黒く艶やかな、流れるような髪。微笑んでいる美女。 「奈智くん」  弧を描く口角に、身を竦める。  両頬を固定され、動けない。  ナゼ自分の名前を知っているのかとか、何でここに居るのかとか、そんな疑問は全て吹き飛び、奈智は反射的にギュッと眼を瞑った。 「怯えちゃって、かわいいわねぇ」  耳元で囁く、ややのんびりとしたその魅惑的な声音に身体をさらに縮ませる。 「誰がそうさせてんだ。さっさと離れろ」 「あん。いーじゃない。ちょっと味見するくらい。減るもんじゃないし」 「減る」 「ケチな男は嫌われるわよ」  頬を撫でる感触が消えたかと思えば、知った低い声と共に包まれる体温。強い力に引き寄せられて、見上げる先には記憶にあるやさしい顔。  しばらく呆然としたままの奈智の様子を窺っていた彼は眉間に皺を寄せた。 「……奈智、息しろ」 「──……ぁ、」  促されて知る、己の状態。  ゆっくりと深く息をして、流れ込んでくる熱気に現実に連れ戻される。吐くことで全身にじっとりと汗をかいていた事に気付かされる。 「っなん、何で……?」 「息しないと、死ぬぞ」  いや、そうではなくて。  グチャグチャで困惑した頭は正常に働いてくれない。もどかしさに顔を歪めると、堀ちゃん先輩に背中を軽く撫でられる。 「取り合えず、落ち着け」 「っ、ぅん……」  深呼吸を繰り返して徐々に取り戻してくる冷静。それによって、次々に湧き上がる疑問。 「落ち着いたみたいだし、邪魔者は退散するわ。またね、奈智くん」  待ってと言う静止の声も届かず、イタズラな笑みを残して不思議な彼女は身を翻して闇夜に消えていった。 「あ……」  むしろ、俺の方がジャマなのに。 「なんだ、あいつに用事あったのか? 伝えておくか?」  それは、会う機会があるということ。  首を横に振って、拒否する。 「あの、ありがとうございま──」 「何だ、これは」 「──ぇ?」  眉間を寄せた彼が自分の首筋を突く。 「ぁ……」  確かコレは。 「思い当たる事があるんだな」 「……ちょっと変な人、いた、ので」  何故か怖い顔の彼から距離を取ろうと、無意識に顎を引く。  ここまで来る途中。満員の電車でやけに息の荒いサラリーマン風の男。帰宅ラッシュだから仕方なかったかもしれないが、密着して彼の一部が奈智の首筋に当たった。  長い溜め息を吐いて、先輩は提案した。そして、ふっと緩められる表情に戸惑いを隠せない。 「もう終電も無い。泊まってけ」 「──ぇ」  拭われたことで、いつの間にか自分が目元を濡らしていたのをはじめて知らされた。 「……あの、あの人、良かったんですか? 帰っちゃって」 「静香のことか? 問題ない。ほら」 「あ、ありがとうございます」  連れられた堀ちゃん先輩の部屋でカップを渡され口を付ける。  ──あまい。  身体に広がるミルクから少し安らぎをもらう。 「あいつと会ったことあるのか?」  白い水面を眺めながら、ちいさく頷くことで奈智は肯定した。 「キレイな人で」 「あれには近づかない方がいい」  頬を包まれて、難しい顔で己を見下ろす瞳と出会う。  もう、彼女と会うなということだ。それもそうであろう。  他の男と自分の彼女が会っているのはいい気持ちがしないだろう。 「ちいさいモノや可愛かったり、きれいなモノにはとことん目がない。基本的に不思議な人種で社会適応できないヤツだからな。気をつけろよ。息子の俺が言うのもナンだが」  へぇー……──ぇ?  溜め息混じりの、さもどうでも良さそうな言葉に頷きそうになる。  一瞬停止した思考が動き出して。  むせた。  盛大に。  肺に入った水分により呼吸困難に陥る。  咳き込んだ奈智に彼は手を差し伸べてくれた。 「っ……ゲホッ、ぉ、かぁっ、さん……?」  彼女では、なくて? 「間違っても本人の前で『お母さん』とか『おばさん』とか言うなよ。殺される」  だって、二十代に見えた。髪も黒くて、艶々してて。  言動も若かった。とても我が親と同じくらいには見えなかった。堀ちゃん先輩の姉や妹と言われた方がしっくりくる。そんな感じである。 「俺の上にまだ居るからな。全員あれの腹から生まれたはずだ。確実に奈智の母親よりも年上だぞ」 「っぅ、そ……」  ビックリ人間とはよく言ったものである。  確か我が親は現在四番目を宿しているが、四十半ばであったような気がする。その更に上を行くのか。  実は周囲には人間離れした人達が多く居るのかもしれない。  兄といい、兄の友人の宇宙人といい、兄の会社の社長といい……。  すべて多聴の関係だと気付いて、今さらながらに奈智は驚愕した。  あ、でも、『雨宿り』の人たちは、普通そうだったし。  ……でも、なんで、あの二ノ宮先生と一緒に居た自分の居場所と自分の状態を知っていたのだろう。しかも、内一人は己の手を拘束していた物の鍵の在りかさえも把握していたのである。  思い当たった事に背筋が薄ら寒くなった。 主人公が一番平凡。

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