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37 ただいま

 己の身近にある実は非凡に今さらながら気付いた奈智は呆然とした。 「どうした? 奈智」  徐々に顔色を無くした奈智をあやす様に、沿わされる大きな掌。 「今日は付けてないのか? ピアス」 「……ぇ、あ、そういえば」  自分でも確認して耳朶に存在が無いことを知る。  『雨宿り』で香坂に外され、箱に収められたままのはずだ。  在ることに慣れてきたため、それほど違和感がなかった。  今度取りに行かなければいけないと算段していれば、右耳を弄(もてあそ)ぶ彼は何かを思い立ったようだった。 「先輩?」 「ちょっと待っていろ」  そういい置いて、離れた手に首を傾げる。  ぼんやりと広い背を見送りながら、徐々に冷静さの戻ってきた頭はこの場に訪れた最初の理由に辿り着く。 「ぁ……」  ──まだ、何も謝れてない。  閃いた事柄に、急いで彼の後を追う。 「っあのっ! 先輩、ごめんなさいっ」 「お、何だ?」  振り返って片眉を上げた堀ちゃん先輩は、勢い込んで扉の桟(さん)に無様にけっ躓(つまづ)いた自分を受け止めてくれる。 「心配掛けちゃって、多聴兄が失礼な事言って……」 「失礼な事?」  自分が不在の間、起こった出来事を掻い摘んで話せば彼の眉間に寄る皺。 「……何で知ってるんだ、そんなこと。沙和にでも聞いたのか?」 「っえ、香坂さんが教えてくれましたけど……」  渋面の彼が額に手を当てて、長い溜め息をつく。 「……取りあえず、クーラーの効いた部屋に行くぞ」 「いいか、奈智。あの時、俺が奈智の家に行ったのは確かだ」  やや脱力しているらしい堀ちゃん先輩は人差し指でコツッと机に音を立てる。その横顔を観察しながら頷く。  先程よりも浸透した涼しさがラグを敷いた上からもジンワリと奈智の体温を冷やす。 「その場に居たのは、奈智の兄貴と弟と俺だけだ」  多聴と沙和と堀ちゃん先輩、だけ。 「──ぇ?」  では、香坂は?  そうだ。彼から聞いた話の内容では、その時には既に奈智の居場所が知れていたということだ。  自分を迎えに来てくれたのは、他でもない彼と『雨宿り』の店長である。 「……あれ?」 「奈智の兄貴があの事を他人に言うとは思えないな」  それは正しい。長兄の性格的に人に話して聞かせるというのは考えにくい。兄が仕出かした事は大概後になって、他を回りに回って巡ってきた結果が奈智の耳に入ることが大半である。時差がある分だけ、とても面倒くさいしタチが悪い。  では、ナゼ『雨宿り』マネージャーはその状況を知っていたのだろうか。 「考えるだけ無駄だろう。──俺は知ろうとは思わないが、多聴さんを含めて三人先輩後輩の仲だぞ。西高の」 「……ウ、ソ」 「俺は一般人だから、関わらない」  考えるだけ無駄。まさにそうだ。  長兄の考えている事はトンと解らず、理解しようとも思わない。  西高って、なんて恐ろしい暗黒地帯だろう。  知らなかったとはいえ、己の正しかった高校選択に今さらながら安堵する。中学時代の自分を褒めてあげたい。 「……何考えてるか解るがな。まぁ、そんなことより」  一旦区切られて、頬に這わされる指先に遠くを彷徨っていた意識を戻される。 「心細かっただろ。知らないところに連れて行かれて」  あの一件のことだ。  やさしく細められる瞳に、次第に揺らぐ視界。 「ぅ、んっ、心配掛けて、ごめんなさい」 「よくがんばったな、奈智」  耳朶を擽(くすぐ)る心地良い低い声に、じんわりと身体に染み渡る安らぎ。 「……った。ホント、は怖かっ、た」  何もない高校生の自分が大人の男に何をされるのか、殺されてしまって居ない者となってしまったら。日常を無遠慮に崩されていく音を聞きながら、何とか耐えながら冷静を努めた。  自分と、どう行動を起すのかの判断できない彼。  強制的に意識を眠らされる時に感じたのは、言いようのない恐怖。  眼が、覚めなかったら?醒ます事が出来なかったら? とっさに思いついたカップの破片に祈りを込めた。  開く掌には未だ完全に癒えず、跡が残っている。 「おかえり」 「っ、ただい、ま……」  ありのままの自分を受け止めてくれる大きな存在に、奈智は久しぶりに身体の力を抜けた気がした。  髪を梳かれながら、宥めるように撫でられる頭に体温を感じて陶然と眼を閉じる。  ──あんしん、する。  深夜の部屋の中、クーラーの音だけが静かに二人を包む。 「少しは落ち着いたか?」 「っはい、すみません……」  目元の雫を拭われ、彼の指先が行き着くのは右の耳朶。 「──先輩?」 「奈智はこの方が似合うな」  しみじみと呟かれるが、奈智は意味をつかみ損ねる。  触れる開いたままのはずのピアスホールには、何かが埋まっている。  ……もしや? 「あの?」 「あぁ、見えないか」  そう言って、差し出された鏡に映された己の耳を凝視して奈智は零した。  ──深い、青。 「似合うぞ」  いや、そうではなくて!! 「っえっと、コレは?」 「ピアスだろ」  急に降って湧いた物体に奈智は戸惑いを隠せない。  ナゼ? どこから?  脈絡が解らない。 「見つけたとき、奈智に合いそうだと思ってな」 「……何か、高そうですが」  多聴が勝手に装着した物よりは若干軽いが、それでも少し重みのある深い色に奈智は再び手を這わせる。  辞退しようと外そうとすれば上から大きな掌に包まれ阻止される。 「まぁ、買ったし付けたし返品できないな」 「……先輩」  ガックリとうな垂れた奈智に彼はしたり顔で鼻歌まで歌いだしそうだった。 「一日早くプレゼント貰ったからな。お礼」 「? 何も渡していないですよ?」 微笑んだ堀ちゃん先輩に翌日が彼の誕生日だと知らされ、奈智は大層慌てた。

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