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39 兆し

「……あ、昼だ」  瞼を擦りつつ確認した時計は正午近くを示しており、奈智は欠伸を溢した。  とても気持ちよく、グッスリと眠っていた。  他人の家なのに。  ボタンが外れて胸元まで肌蹴てしまっている上の服を確認して、一体どんな寝相だったのかと青くなる。  眠っていた時、堀ちゃん先輩を蹴飛ばしてなければいいが。 「ぁ、先輩……?」  辺りに部屋の主は見えず、ベッドの上を移動する。  あったかい。  自分以外のぬくもりを確認したと同時、勢いよく開かれる扉に仰天した。 「っなっちー! おめでとー!!」 「さ、沙和?」  近所迷惑を顧みない音量で現れたのは己の双子の弟。  飛びつかれて、再び沈むのは堀ちゃん先輩のベッド。  何がおめでとうなのか、全く見当つかない。  誕生日は過ぎたし、イベント事などは無いはずである。  あ、そういえば、今日は堀ちゃん先輩の誕生日のハズ。言う相手が違うよ、沙和。 「やっとだねーっ!! もぉオレ、もどかしかったー!! うれしかったから、お赤飯買ってきたー」  差し出されるは、なるほど小豆が顔を覗かせる薄っすらと赤い飯。  ──ナゼ? 「堀ちゃん先輩、やさしかったー?」  いつもながらのハイテンションに奈智は後ずさろうとするも、逃げを許されず肩を押さえ込まれたまま。 「ぇ、あ、ぅ、うん。いつもやさしいよ?」  いつも迷惑を掛けて。今回も終電のなくなった自分を泊まらせてくれた。  彼から見れば、後輩の双子の兄なだけなのに。  乗り上げている沙和を見上げつつ戸惑いを隠せない。 「はじめはちょっと痛いけどー、すぐキモチヨクなるよー」 「……うん?」  弟の言っている事がいまいち理解できず、奈智は首を傾げる。 「何回、シたのー?」 「──……は? 何を?」 「──え?」  沙和は笑顔を、奈智は困惑を顔に貼り付けたまま、双子の間にしばらく無言の時が流れた。 「っぇえええぇぇっっ?! も、もしかして、ヤってないのー!?」  それを打破したのは、驚愕を隠せない弟の大音量。 「……昼間っからとんでもない事言うな、馬鹿」  コツンと沙和の頭に拳骨が落ち、奈智の上から重りが退かされる。 「っウッソー……堀ちゃん先輩って、ふのー?」  疑わし気に長身を見上げる双子の弟に彼は渋面で返す。 「いい加減にしろ。叩き出すぞ」  沙和の首根っこを引っ掴んで宙吊りにしたまま視線を合わせる彼はコメカミに青筋を立てている。  何て侮辱(ぶじょく)。  まぁ、怒るのも解らないでもない。  しかも過去奈智に、彼は女が切れたことがないと忠告したのは他でもない沙和である。一体どんな矛盾であろうか。 「だぁってー、二人とも両想いのクセになかなか進まないしー。多聴兄ぃが推薦した人たちぜぇーんぶ跳ね除けて、奈智、堀ちゃん先輩のトコに行ったんだもん。ゼッタイ、ヤったって思うじゃんー? 多聴兄ぃ、思惑外れてくやしそーだったケドー。オレは二人をおーえんしてるー!」 「……そう思うなら、まず口を閉じろ」 「でも、奈智お嫁行っちゃうの、ヤダー!!」  喚(わめ)き立てた沙和を堀ちゃん先輩が嗜(たしな)める。  ──……ん? 「えー、だってぇー! 不健全じゃん?」 「お前の方が断然不健全だ」 「────っぇ、りょ、想いって……」  そんな二人を眺めつつ弟の口から零れた言葉を反復して、奈智は瞠目した。  両想いって、何だ?  互いに、想いあって。  誰と誰が?  沙和と、堀ちゃん先輩?  でも、沙和には兄が、多聴が居る。  では、誰? 「っぁ……、」  思い付いた仮説に、奈智は声を漏らした。  すぅっと血の気が引く。直後みるみる広がる止められない全身の火照りに、顔を上げる事ができない。  ジクジクと痺れる手足に、握りこむ掌。  傷が痛むがそれどころではない。  そんな双子の兄を見つめて、沙和は眼を丸くした。 「ウッソー……まぁさかぁー、ソコからぁー?」 「その『まさか』だ」  溜め息を吐いたらしい、その姿を確認する事ができない。  怖くて。  ──どう、しよう?  混乱した奈智の頭にあるのは、それだけ。 「えー、じゃあ、もしかしてオレ大変なことしちゃったってことー?」 「ああ、とてつもなく、な」 「ふーん……えーっとぉー、うぅーん、じゃあ……、帰ろっと。じゃあねぇー!」 「っぁ、待って、俺もっ……」  そそくさと帰ろうとする弟の後を追ってベッドから降り、短い距離をやや縺(もつ)れながらも急ぎ足で進む。  しかし無常にも目の前で閉められ、扉に手を伸ばしたまま奈智は固まった。  先に進むのを阻むのは、後ろから己を閉じ込める彼の腕。  それほど強い力では無かったが、何故か抜け出せない。 「奈智」  静かに名前を呼ぶ声に痛いほどの緊張が生まれる。 「………………っハ、ィ……」  歪む視界に映るのは、自分の足元。  蚊の鳴くような声で囁いた言葉を彼は確かに拾ってくれたようで、耳元でクスリと笑われる。 「落ち着けって言っても、無理か。話は聞けるか?」  うな垂れたままちいさく頷く奈智に、彼はそうかと漏らした。 「まさか、沙和に先越されるとはな」  やや苦笑交じりのその声音に、双子の弟の発言が冗談ではなかった事を知らされる。 「付き纏っていた奴が居て、連れ去られて。こんな、傷まで作らされて」  そう言って這わされる掌と手首。徐々に青痣は消えてきているものの、未だ所々にかさぶたが残っている。 「落ち着いたら話すつもりだった」  そこから気付かされる、彼の己への気遣い。 「……ぁ、あの……」 「ん?」  耳朶をくすぐる低い声。  口を開いたくせに、紡ぐ言葉を捜しあぐねて奈智は無意識に拳を握る。しかしそれも相手の指先に触れ、更に思考は霧散する。 「ぁ、えっと……俺……」 「困らせたいわけじゃない」  再びくすりと溢して奈智のちいさな頭を撫でる掌。 「ただ、奈智と居ると落ち着く」  ──うん、俺も。  たぶん、沙和が言う多聴の『推薦した人』は後ろ盾も権力も実力もある人間の事であろう。性格は不明だが。  興味無さ気に自分を扱っている兄だが、全くではないことを奈智も知っている。その為、当の本人を置き去りに流された募集と増加した求婚。  ──でも……。  孤独に彷徨っていたのを見つけてくれた、彼。  食事を体調を気遣ってくれたのは、彼。  調子が悪くなった時、休む場を与えてくれたのも、彼。  二ノ宮との事から知らずに張り詰めていたモノを緩めてくれたのも、彼。  コクリ。  ひとつ緊張を飲み込んで、奈智はゆっくりと背後を振り返った。  自分を映してやさしさを灯した深い瞳の色に出会う。 「あの、俺──」 「ねぇー、おわったー!?」  渇いた唇から紡ごうとした言葉は、遠慮なく扉を開ける音と共に響く大声に無常にも掻き消された。 「…………沙和。取りあえず、しばらくどっか行ってろ」 逃れられなくなった奈智は男の広い腕の中で苦々しく呟いた声を聞いた。

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