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裏 まことの陰
「あんた、やってくれたな」
来客を知らせる軽快なベルと共に不機嫌を隠そうともしない低い声音を拾って、香坂はオムライス専門店『雨宿り』の入り口を仰いだ。
「遅かったね」
渋面の男前に冷たい声で答え、手にしていた奈智が飲み残した麦茶を排水へと流す。
とても似ていない彼のかわいい弟が、今しがた多聴のくぐった扉から勢い良く飛び出したのは数時間前。日の長いこの時期でもとっぷりと暮れている。
「君が俺の性格知らないとは言わせないよ」
「ああ。あんたは情に脆(もろ)い」
「うるさい。──何か飲む?」
「いらん」
珍しくドッカリと椅子に背を預ける後輩の横へ香坂も腰を下ろす。
「ちゃんと『お兄ちゃん』やってたんだね」
静かに紡ぐ言葉に、深く刻まれる眉間の皺。
「皮肉か」
「そうじゃなくて」
見えないところで大切に、大切に守ってきた、弟。
逃亡のために発揮している足の速さも、軽い身の熟(こな)しも、空手も喧嘩も、すべて目の前の彼は嫌がる弟に時間を掛けて伝授し成育してきた。力を持った者はどうしてもそれを誇示(こじ)しようとしてしまうきらいがあるが、それもなく。ただ真っ直ぐに、育ってきた。元来の気質か環境か。どちらにしても今まで手の内で転がして遊べていた幼い子が、いつの間にか多聴の作った囲いに納まりきらなくなっていた。戸惑い、足掻きながらも飛び立とうとしている。
いい例が『募集』。
ストーカー・誘拐を経て堀克己(ほりかつみ)が適材で無いと判断を下した多聴が選別した、財力も権力も後ろ盾も兼ね備えて弟の妨げにならない人物達。だが当の奈智は迷いながらではあるが結果的にそれを却下し、己の判断に従った。
今まで多聴の誘導に、知らずとは言えそれとなく導かれていた弟が。
「寂しいんでしょ」
自分の思い通りにならないことが、眼をかけて見守っていた者が他者を求めるのが。
「……どいつもこいつも」
「もう、誰かに言われたんだ?」
「死ね」
急激に生い立つ若葉に付いて行けず焦る感情を多聴自身、対処しきれないのであろう。
素直でない後輩をしばらく静かに微笑んで、香坂はテーブルの上にちいさな箱を乗せる。
中には奈智の耳朶に埋め込まれていた紅。
「欲しい? これ」
「お前、本当に沈めるぞ」
今にも牙を剥いて飛び掛りそうなほど低く唸った多聴を一瞥して、ゆるい癖のある髪の奥で香坂は瞳を伏せる。
コツコツ。
指先で弄(もてあそ)ぶ箱。
「──そう。『いつの間にか無くなった』んだね」
ならば、不要になった機材を片づけなければならない。
オムライス専門店『雨宿り』店長の調査の後を引き継いだのは、この箱の中身。音声と所在地を知らせるだけの簡単なものであるが、存外役に立った。
「また付けさせるのかと思ったよ」
「莫迦か」
案じた弟の身の現状を知る目的とともに、刻み込まれた多聴のシルシ。
成長過程の奈智を徐々に受け入れてきている彼はピアスホールの存続は本人に任せるらしい。少しずつ、奈智の選択の幅が広がっていく。
「……良かったね。堀克己じゃなくて」
「フン」
多聴の弟の想い人がストーカーでなくて。
不貞腐れたように、隣の男はソッポを向いた。
一連の粘着質な行動が始まったのが寒い季節。
草花が芽吹く頃に出会った奈智と堀。
パッタリと減った手紙と写真。
急に接近してきたあの男を一時は疑った。しかしそれも杞憂(きゆう)であったと判明。諸々の裏づけ準備を進め、最後の詰めになった段階で消息を絶った奈智。いくら居場所と会話が判明していたとしても、生まれる言いようの無い焦燥。
追い詰められたバカは時にとんでもない事を仕出かす可能性もある。
堀にはああ言った多聴だったが、最悪の事が起こる前に手を打って置きたかった。そのため、目星が付いた時点で直ぐに香坂等とは別に二ノ宮をマークさせていた。──最終的には失敗に終わったが。
そして戻った足立家。壮大の指示とはいえ、目の前の彼が発した『なんだ、帰ってきたのか』は、『なんだ、あの男の所ではなく、こっちに帰ってきたのか』という何とも紛らわしいため息だった。
そして言葉には出さないが、しばらくは弟の傷が癒えるのを見守った。目に付く外の傷のみならず内の傷も。ひっそりと。
若干性格が捻じ曲がっている多聴が眠りこけている奈智の部屋に珍しく足を運んだのはその証拠。無意識に弟が求める人物を確認して、渋面でさも仕方無さそうに『募集』を解除した。
自分勝手のようでいてその実(じつ)、弟を認めている長兄。
「よく、やってるよ」
とても。
一筋縄では行かないが何だかんだ言って、多聴は弟達が大切でならないのだ。
だから、助力したくなる。
「……あんた、いつか壊れるぞ」
「──え?」
不意に吐かれた溜め息に香坂は訳が解らず、伏せ気味だった顔を上げる。
いつの間にか組んだ長い足の上に肘をついた多聴は、普段と変わらない鋭い視線で香坂を見据えていた。
困惑する自分に彼は失礼にも指で示す。
「何度も言わせるな。あんたは他人の感情に異様に敏感すぎる」
『情に脆い』。
先ほどの言葉が蘇る。
「……どうせ、ガキだよ」
いつかどこかでもした台詞を舌に乗せ、無意識に皺が寄る眉間。
以前は『感傷』とも揶揄(やゆ)られた。
情に走るのはそれほどいけない事なのか。確かに周りが見えにくくはなる。だが、それだけではない。
「だから壊れないように、俺が居るんでしょうが」
突然響いた新たな声音に香坂は飛び上がった。
「っ、あ、壮大(あきひろ)……?!」
「なんて驚き方してんの。傷つくでしょうが」
──何故?
奈智が店を後にしてしばらく経ってから、野暮用があるとフラリと居なくなったはずの男はゆったりとした足取りで近づく。椅子を引くそのスーツ姿に嫌な汗が背筋を流れる。
そんな香坂を横目に、知らぬ内に紫煙を立ち上らせた多聴。
「足立が他人を気にするのは、大した進歩だね。まぁ元々、怜(りょう)には懐いているからねえ。おにぃーさん、妬けちゃう」
茶目っ気たっぷりに出ていもしない涙を拭(ぬぐ)う姿を半眼で眺めつつ、ちっとも笑っていないその瞳に息を飲む。
「他人のモンに興味ねぇ」
さもどうでも良さそうに供に吐き出す煙に我に帰り振り返る。
「俺はモノじゃない!」
嫌悪も顕(あらわ)に声を荒げつつ、忌々し気に長い髪を掻き揚げる。
ここに居てはいけない。
己の鳴らす警鐘(けいしょう)に従い席を立てば、捕らわれる手首。
「……ナニ」
「俺に愛の囁きはないの?」
「帰る。そっちに貰えば」
「えー……」
冷たい声音で多聴を示し、上がる子供のような不満。
「俺も願い下げだ」
互いに嫌そうな顔を隠しもせず、仲良く二人で紫煙を上げる姿はどこからどう見ても息が合っている。気付けば天井に充満している有害物質を仰いで、香坂は握られた己の手首を若干力任せに救出した。
「痛めるぞー」
「誰の所為だよ」
呆れと共に、思いの外簡単に開放された事を訝(いぶか)しがる。
「どうして、お前さんには俺のやさしさが届かないかねぇ」
「普段の行いだろ」
「日頃からこんなにも心を砕いているじゃないの」
よくも、そんなベラベラと嘘を並べられるものだと感心していると、ヤニを灰皿に押し付けた男は掌を香坂に向けてヒラヒラと振る。
「もう遅い時間だから、お宅は家で子守りでもしてなさい」
お前には用はない。そういうことだ。
「っあっそ! 二人でシッポリしてれば!!」
「暗いから痴漢と引ったくりに気をつけなさい」
怒りに任せて『雨宿り』を後にした香坂は、これから始まる報告会と作戦会を知らない。
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