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42 進行状況
「で、ドコまでいったのー?」
「……は?」
大変申し訳ないが、それはこちらのセリフである。
どこまで勉強は進んでいるのか。
堀ちゃん先輩宅へ押し掛けて、とっぷりと日が暮れた現在。美味い夕食もご馳走になってしまい、再び開始した勉強。
己の宿題は夏休み半ばで疾(と)うに終わっているというのに、今さらになって目前に迫り来る締め切り。しなくてもいい勉学は出来れば避けたいのに。いんぐりっしゅに泣き伏すも、誰も助けなぞ差し出してくれない。
学校の中のピンキリはあるものの、勉強のレベル的には弟の通っている方が難易度が高いのに、だ。
自分が一体、何をした。いや、何もしていないのは沙和だ。
弟は時々出掛けてはいたものの夜遅くまでアルバイトをしていることもない。奈智が知っている限り、基本的に用事は無いはずである。それだけ遊び回っていたということか。
痛みを訴えるこめかみを解(ほぐ)しつつ、シャーペンを握りなおす。
仕方なしに奈智は和訳している英文から顔を上げて、後悔した。
「……っな、何?」
怪しげにニヤニヤしている、己とそれ程変わらないパーツの顔に無意識に引いたのは顎のみならず、身体も。
──イヤな予感しか、しない。
これは早々に退避しなければならないと、急いで背を向けるも無情にもとっ捕まる。
「なぁーちぃー? ほぉーら、ね? オレに話してごーらーんー?」
青くなって、意味もなく緩く首を振る奈智に腕を回して、双子の弟は尚も喰い付く。
まず、主語が、理由が、全てが、解らない。
「っぁ、ゃ」
「感度いーねぇー。堀ちゃんセンパイ、喜んじゃーうー」
首筋に舌を這わされて肩を震わせば、からかい混じりの溜め息を吹き込まれる耳。
──っヤダ!!
「コラ、沙和。お前は宿題しに来たんだろうが。遊んでるなら、奈智置いて家帰れ」
「えー……」
夕食の片づけをしていたはずの彼は、腕を組んで柱に背を預けて沙和を嗜(たしな)める。その顔は渋面。
「奈智泣いてるだろうが」
いつの間にか剥(む)かれた服を正され、長い指で目尻を拭われる。
「だぁーって、いじめたくなるんだもーんー」
堪ったものではない。
双子の弟から距離を取った奈智は自然と家主に近づく。
残り少ない貴重な夏休みでせっかく宿題を手伝っているのに、何が悲しくて遊ばれなければならないのだ。
「気になるじゃーんー。ドコまでいったのー?」
だから、主語!
「……デバガメって、知ってるか?」
「しぃーらなぁーい!」
元はのぞきのあだ名。現在は行為そのものの意味にも使われる。
小首を傾げる頭を撫でられながら、その大きな掌の持ち主から発せられた言葉に奈智は眼を点にした。
「俺らのことだろ」
「さっすがー、堀ちゃんセンパーイー! で? で?!」
手を叩いて身を乗り出した沙和に気圧されて若干後ずさりながら、長身の男前を見上げる。
「沙和はどう思う?」
「えーっとね、えっとねぇー!」
パシャン。
静まり返った室内に、水槽の中の魚が立てる音がやけに大きく響く。
──……い、一体。
紡ぎだされる卑猥な言葉の数々に唖然としつつ、奈智は早々に床に泣き伏した。
己の双子の弟の頭の中はどうなっているのか。
知りたいような気もするが、未開の地にしたままにして置きたいと思うのもこれまた本心。
長い溜め息を拾って視線を上げれば、腕を組んだ堀ちゃん先輩が眉間に皺を寄せている。
それはそうであろう。
ガッツリと放送禁止用語に引っかかる諸々を聞かされ、更にその中心には堀ちゃん先輩と奈智。
嫌悪も顕(あらわ)になるであろう。
「沙和、お前……。暇だろ」
繰り出される妄想に毒気を抜かれたのか、若干彼の声音にも覇気(はき)が無い。
「ヒマじゃないよー! なちの心配してるもーんー」
はっきり言って、迷惑以外のナニモノでもない。
第一。
「だぁってー、コクハクして、そしたら後はインじゃなーいー?」
沙和と双子をやめようかと、真剣に頭に過ぎった自分は悪くないはず。
閉じない口を当分の間塞いでおきたいものの、悲しいかなどこを探しても己にその気力が見当たらない。
「まず、ソコからして間違いだ」
「えー……」
組んだ腕を解かないまま、淡々と堀ちゃん先輩は口を開く。
「大体、その告白に散々水を差した張本人がナニを言う」
いつかのように、痛い沈黙が流れる。
そう。
堀ちゃん先輩の誕生日に暴露され、ついでに痺れを切らした沙和に乱入されて、それっきりこの話題は現在まで流れてきてしまっている。
まぁ、コレでそれほど支障は見られないので、この先輩後輩とも友人とも、ましてや恋人などと言われるような関係でもない、曖昧かつ微妙な互いの立ち位置のままである。
「っぇえええぇぇっっ?! こ、コクハクって……ウッソォ!? ソコからぁー?!」
深夜にご近所を顧みない大音量に、本日何度目かの頭痛がこんにちは。鎮痛薬は常備しているが、それがまだバックの中に残っているかは謎である。一時は改善したと思われていた症状に再会する悲しさを噛み締める。
この暴走した弟をどうするべきか。
奈智は本気で悩んだ。
一層の事、長兄に連絡を取って引き取りに来てもらうか?
いや、夏休みの宿題を終わらせるのが先決だ。
頭の中で繰り広げられる葛藤を知る由もない弟は尚も続ける。
「ってコトは、あれからナンもないってコトー? やぁっぱり、堀ちゃんセンパーイ、ふのーじゃ──」
「いい加減にしろ、沙和。心配しなくても、『抑えきれないほどの滾る熱い想い』は充分にある」
「ソレはソレでイヤー!!」
「っぐえっ! 沙和、何?」
思考を彼方に飛ばして打開策を模索していた奈智は、叫びと供に急に強い力で抱きつかれて眼を白黒させた。
「……なち、今の話きーてたー?」
「え? だから、告白の話でしょ?」
全体重でぶら下がっている弟に仰がれつつ、奈智は会話と供に通常よりも二倍の負担が掛かっている足を踏ん張る。
「……オレ、ちょっと堀ちゃんセンパイにどーじょーしてあげるー」
「そんなもの、いらん」
仲の良い先輩後輩を横目に奈智にはそろそろ限界が近づいていた。
ナニって、重いのさ。
……そろそろ、無理。
抜ける力を見越したように、支えられる腰。
「沙和、離れろ」
「うらやましぃークセにぃー」
「そう思うか?」
いーっと歯を見せた沙和に口角を上げた男は、同時に奈智の足を払う。
「──ぇ?」
ただでさえ、ギリギリだったバランスを崩されて目を剥く。
その鼻先には目を細めた顔。
スローモーションの画像の様に攫われる唇。
一瞬の、出来事。
ゴン。
「堀ちゃんセンパーイ、ひぃーどぉーいぃー! なちだけ助けるのもー、キスシーン見せるのもぉー!」
親のセックスシーン見ちゃうのってこんな気分なんだーと床に転がって嘆く沙和に、普段からそれ以上のモノを見せられていると反論する事は、沸騰した頭では出来なかった。
のちに過激さを増した兄弟の情事を見せ付けられるとは、この時の奈智は思いもしない。
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