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44 ティーセット
──何だろう? 何でだろう?
現在の状況について行けず、奈智は首を傾げた。
確か炭酸飲料が欲しいとのたまった沙和の飲み物を買いに堀ちゃん先輩宅を出て、歩いて数分の自動販売機を目指したはずなのに。しかも、目的地は彼の家から見える位置であったハズ。
だがしかし、ココはどこだろう。
「どこなのでしょうか、木戸さん」
目の前に座って優雅にコーヒーを飲む姿に声を掛ける。
「僕の秘密の場所かな」
欲しい答えになっていないのですが。
あと数歩でジュースが買える距離で声を掛けられ、車で拉致され現在に至る。
二ノ宮の時といい、実は自動車は鬼門ではなかろうか? それとも、冬から引き摺っていた件が終わったと思って、気が緩んでいるのか。
仕方なしに、奈智は目の前のレモンムースにスプーンを差し込んだ。口の中に広がる甘酸っぱさ。
「……ぁ、おいし」
頬を緩めた奈智の反応を見た銀縁メガネの奥が細められる。
「それは良かった」
向けられた魅惑的な笑顔に意味もなく、顔を火照らせる。
「……あ、あの? 急にどうしたんですか」
「顔が見たくなってね」
そんな理由で社会人の大人は、健気にも弟の宿題を手伝って残りわずかの貴重な夏休みを消費している高校生を引っ張りまわすのか。
呆れた奈智は双子の弟の心配をしに、思考を飛ばす。沙和は順調に勉強に励んでいるのだろうか。
自動販売機は近くであったため、バックはおろか携帯電話も持たず財布のみで外出した。沙和にも堀ちゃん先輩にも宿題の進行状況を確認する事ができない。どうしたものか。終わりの見えてきた国語の課題は無事終了したのだろうか。それとも、以前のように堀ちゃん先輩に食って掛かって、迷惑を掛けているのか。ただでさえ、押し掛けているというのに。
「……──え?」
掬ったムースをそのままに痛みを訴えるこめかみを押さえながら唸っていると、手を引かれる。
「あぁ、これは美味だね」
俺が食べていたスプーンとムース。
「わざわざ食べかけ食べなくても、注文したら……」
いかがでしょう?
彼は我が愚兄の会社の社長……らしい。貧乏学生の己ならばいざ知らず、ムースのひとつやふたつ、財布は痛くもかゆくも無いと思われる。それとも、実はこのちいさな菓子はそんなに高価な物なのだろうか。
どうしよう、食べちゃったぞ。あんまり高いと払えないぞ。
メニューで金額を確認しようとするも、見当たらず。
そういえば、見た覚えが、無い。
これはいよいよ恐ろしい事態になって来たと、奈智は真夏なのに背筋が冷たくなる。
「面白いこと考えてる?」
滅相もございません。
青くなって緩く首を横に振る己を楽しそうに目を細めて眺めている視線と出会う。
「あの、このムースと紅茶っておいくらでしょう?」
無意識に生唾を飲み込んで意を決して真剣に尋ねた質問に、テーブルの向こうで相手が眼を丸くする。
あ、はじめてかも。その表情。
「……値段、ね。急に何聞いてくるかと、思ったら……」
俯いて、肩を揺らし始めたかと思えば、笑いを堪えているようである。
「あ、あの……?」
「とても、あの多聴の弟だとは思えないね」
「兄は兄ですから」
あの人と一緒にされたのでは堪ったものではない。自分は善良なる一般市民、ただそれだけ。たとえ兄弟であっても、あんな規格外とは全く別物だ。
「急にどうしたの?」
笑いの発作から立ち直ったらしい彼は、口角を上げる。
「あんまり高いと、俺支払いできないという危機が……」
それはもう、盛大なる。
「そうだねぇ、じゃあ奈智くんの一晩の金額で」
長い足を優雅に組んで、彼は思案する。
「っえ!? 四千二百五十円ですか?」
万とかだったら、どうしようかと思った。
歓喜を上げた奈智に、呆れ声が掛けられる。
「やけに具体的だね」
「確か、俺のバイトの時給で換算するとその位になります」
安心して、奈智はその美味いムースを口に運んだ。
意外に時給が安い事を知った木戸がお相手と共に、会社のバイトに入れようと画策しているとはこの時の奈智は思いもしない。
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