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45 なぞなぞ

「……ねぇ、沙和」 「なぁーにぃー?」 「何かやった?」 「なぁーんにもー」  可愛らしく小首を傾げて上目遣いに返された沙和の答えに、奈智は己の考えに浸る。  足立家長男には覿面(てきめん)な効果を示すかもしれないが、あいにくと自分にはそんな趣味はない。やるだけムダ。  生物の教科書を挟んで双子は顔をつき合わせコッソリと内緒話を開催していた。同じ室内に居るので、堀ちゃん先輩にも筒抜けであろうが気分的に。  双子の弟が何かやらかしたのではないのなら、では、一体なんだろう。  奈智は無言を貫く家主を静かに振り仰ぐ。  自動販売機に沙和希望のジュースを買いに行って、少し時間は食ってしまったが現在は無事に宿題の手伝いに復帰している。それとも、連日の宿題合宿に嫌気がさしたのだろうか。それもそうか。堀ちゃん先輩には何も関係ないのだ。勝手に押しかけたのはこちらであり、彼にも用事はあるだろうし静かに過ごしたいだろう。いい加減引き際だ。  黙々と読書している広い背中を眺めて、その思いを強める。受け答えや接し方は変わりないが、雰囲気が何となく物語っている──気がする。 「あのさ、沙和。そろそろ……」 「なぁーちー、手出してー」 「……え、こう?」  遮られた若干のんびりした声に眼を丸くして、素直に両手を差し出す。 「そー。で、胸に当ててみてー」 「う、うん?」  意味も解らず、ひとまず指示された通り行う。 「でぇー、思い出してくださーい」 「うん?」 「いちぃー。さっき、なちはドコ行きましたかー?」 「沙和のおつかいで、自販機へ」  一段楽したとシャーペンを置いた直後、国語に嫌気が差した沙和が放り投げた参考書と共に、ご近所を顧みない大声でジュースを所望したのだ。やや八つ当たり気味に堀ちゃん先輩に噛み付いたので、自分がその役を買って出た。忘れたとは言わせない。 「買ってきたよ。それ」  テーブルに佇むペットボトルを示す。希望であった品物を購入したのだ。新たに買い直せというのならば、今度こそ自分で行け。  大体何が悲しくて、毎年己の学校よりも難易度の高い学校の宿題を手伝うハメに陥るのであろうか。基本的にやればできる子である。それをやらずして、間際になって人に泣きついて事なきを得る。  ……そうか、手伝うのが問題なのか。  今さらに気付いた落とし穴に一人静かに机に泣き伏す。  いや、それは確かダメだった。  中学までは同じ学校に通っていた双子であったが、とある長期休暇にどうしても沙和の宿題を手伝う事ができなかった。そのためほぼ真っ白な状態で提出された課題は教師を巡り、親を巡り、兄を巡り。当事者の沙和はこっ酷く怒られた。当然だ。しかし何故か巻き込まれた己は監督不行き届きという、訳の解らない説教を受けた記憶がある。なんて理不尽。  幼馴染曰く、沙和の暴走を止められるのは唯一奈智だけなのだと、後日ケロリと当然のように言い放たれ、頭を鈍器で殴られた衝動に駆られた。  以来、ずっとだ。  このままで、弟は自立した大人になれるのであろうか。一抹どころの騒ぎではない大々的な不安が過(よ)ぎる。 「えへへー、ありがとー。なち、だぁーいすきー!」 「っうわぁ!?」  奈智の必死の苦悩を知る由もない沙和に急に抱きつかれて悲鳴を上げる。気を抜いていたのと、両手が塞がっているのでされるがまま。弟の身体を押し返そうとするも、その抵抗も一緒に抱き込まれてくぐもった声しかできない。思いの外強い力で引かれ、身動きを制限される。更に耳元に舌を這わされながら、息を吹き込まれて肩を揺らす。 「にぃー。ジュース買うのに時間掛かったのはなーんででしょー?」 「っ、知り合いに声掛けられたから……離してっ!」  残す所あと数メートルで目的地であったが、呼び止められたため意識を向けた。ひとことふたこと交わし、すぐに車で拉致されたが。 「しーんぱい、したんだよー。急にいなくなっちゃうしー、ケータイ持ってないしー、車走ってくしー」  すぐ近くだったから、財布しか持っていなかったのだ。使う用事もなかったし。 「まぁーた、連れ去られちゃったかもしれないってぇー、びっくりしたー」 「ぁ……、」  周囲に多大なる迷惑を掛けた、この前の件を彷彿させたのか。 「ごめん、なさい……」  迷惑を掛けた。項垂れた奈智は、弟の腕の中でちいさくなった。疾(と)うに終わったモノだと認識していた為に他への配慮に欠けていた。 「かぁーわいぃーなちぃ。さぁん。くるまから降りたら何したで──っちょっとぉ!」 「いい加減にしろ」 「放してー! 堀ちゃんセンパイのバカー!!」  ジタバタとする沙和をモノともせず、子猫のように首根っこを掴んで溜め息をつく長身を眺めやる。 「堀ちゃんセンパイも気になってるクセにー!」 「お前の行動は目に余る」 「うらやましぃークセにぃー!」  頬を膨らませた双子は、その手から逃れてテキパキと課題を片づけ始める。いつも学校に行く時の朝の仕度とは比べ物にならない速さだ。 「あんまり言いたくないケドぉ、多聴兄ぃ前、『てめぇの石に代えたなら、落とし前見せやがれ、カス』ってゆってたよー」  紫煙を立ち上らせつつ、威圧的に言い放ったであろう長兄のその情景が思い浮かぶ。が、一体何の話だ。疑問符を顔中に貼り付けた奈智と対照的に、思い当たる節があるのか家主は長い溜め息と共に脱力する。 「……筒抜けって、おかしいだろ。まだ他にあるのか?」  呟きつつ、奈智の耳朶を掠めてから覗くのは襟首。 「オレはしぃーらなぁーい。宿題だいだい終わったから帰るねぇー。なちはぁ、三番めのクイズのこたえ考えてねぇ。それまで帰ってきちゃダメぇ! 堀ちゃんセンパイと一緒でいーからぁー」  訳が解りません。 「おーえんしてるんだからねぇー。奈智、早く帰って来てほしぃーけどぉ、解けて帰って来てほしくなぁーい。じゃぁーねぇ」  そう言って、サラリと攫われる唇に瞠目する。  可憐に賑やかにかき回していってくれた弟を呆然と見送って、残ったのは静まり返った室内。  普段、開きもしない参考書を使って勉強をし過ぎて、頭が沸いたのだろうか。それとも、この暑さか。エアコン効いていても侮れない、この夏。買ってきた飲料水では足りなかったか。追いかけて水分を促すと共に、身体と主に頭を休めさせなければ。いくら夏休み残り一日とはいえ、やはり詰め込みすぎたか。それでおかしくなってしまっては、元も子もない。まぁ、元々オカシイ所はあったが。  実の弟に若干ヒドイ思考を巡らせながら、奈智は難しい顔をした堀ちゃん先輩を見上げて息を飲む。  その眼差しに。 「……あの、先輩?」 「沙和に感化された訳じゃないが、俺も知りたいな。そこの所」  どこの所?  不意に指を這(は)わされる、先ほど沙和がイタズラを仕掛けた場所。 「どうだった? 沙和とも、車から降りた時あの男とも──」  くるま……。  しばらく思案したのち、閃いた事柄に目を瞬(しばた)かせる。 「見てたんですか?」  今の今まで忘れていた。  結局の所、兄の会社の社長さんに紅茶とムースをご馳走になってしまい、更に送ってもらって降りたところで急に腕を引かれて互いが触れた。 「どうって、どうも……」  彼の求めている返答が解らず困惑する。 「……何で、そんなに冷静なんだ」  冷静も何も、皆して暇で近くに丁度いい遊べる自分が居たから。それでなければ、可愛い女の子でもない男にイタズラをする理由にはならない。夏休みだしやることがなかったのだろう。こちらは、もはや年中行事になりつつあるため長期休暇の最終一週間はアルバイトも入れず、弟の宿題にせっせと励んでいる最中というのに。  唸って隣で頭を抱えられる。心配して手を伸ばせば、捕らえられる。 「先輩?」 「……本当にそう思っているのか」  そうでなければ、一体何が楽しくて柔らかくない唇と身体を求めるか。  性格も明るく人気者で様々な所から数多のお誘いのある沙和ならばまだしも、一卵性双生児で外見は似ていたとしても全くの別人である自分へ当てはまるか、と言われればそれは否であろう。 「たとえ奈智がそう思っていたとしても、たぶん、いや確実に、俺は妬いてる」  意味を、掴み損ねる。 「笑えるほどの子供染みた、独占欲だな。──言っている意味が、解るか?」  覗きこまれる真摯な顔から視線を逸らす事ができない。 「できることなら、他のヤツとは触れてもらいたくない。たとえ沙和でも。俺だけにして欲しい」  無理だろうけど、と漏らしながらの苦笑と共に額を合わせられる。  体温を、分ける。  近くなった彼との距離にも何の反応も返せない自分に業を煮やした様子もなく、目を細めた彼は続ける。 「奈智。お前が大切だ。友人としてではなくて、それ以上に」  紡がれる言葉に経験の浅い己には、持ち合わせの言葉が見つからない。 「──これは、俺の想い。」  頬を包まれ、一瞬重なり合う唇と囁かれる内容に瞠目する。 「奈智が欲しいと思うよ。からかいではなく」 「……イタズラ、じゃ、ない……?」 「ああ」  間、髪を容れず力強く頷かれるその言葉が偽りでないといいなと、思ってしまう。 「お前に惚れてる男の言葉を信じて貰いたいな」 「ぇ……ナン、で?」  女性には不自由しないと聞く。  それなのに、何故? 「解らないなら、解るまで俺の傍に居てくれ」 「ぁ……は、ぃ……?」  目元をやさしく細めた彼は奈智の耳朶を弄(もてあそ)ぶ。 「ひとまず、もう少し貞操観念を持ってくれ」  溜め息混じりの声と共に蘇る言葉。 『お前、自分で気付いてるか? 押しに弱いぞ。貞操観念が』  あれは、いつぞやオムライス専門店『雨宿り』で兄が呟いたのだ。その直後、香坂に叩かれていたが。あれと関係あるのか? 「沙和だけじゃなく、奈智もモテるぞ」 「は、はぁ……」 「実感ないなら、それでもいいが。あとは……前に渡したキーリング持ってるか?」  思案した堀は過去、彼からの誕生プレゼントを示す。 「え……あ、カバンに」  首を傾げつつ、向かった先で背後から再び閉じ込められる。 「あ、あの?」 「コレだな」  包まれるぬくもりに、徐々に心拍数を早める心臓に置いていかれそうになる。  外されたのは、いつぞや書類と共に押し付けられて行き場を失った、光る輪っか。 「要らないだろ」  自分にとっては過ぎる物を、後生大事に取って置く理由は引き取り手が無いのに高価な物が放置されているから。沙和には換金すればと提案されたも、当人に返すのが全うだと未だキーリングに通したままだった。  どうするのだろう。 「返しておくからな」 「っえ、知ってるんですか?」  これを渡した川嶋を。あの人は確か、兄である多聴の知り合い。同じ高校出身ならば、知り合いなのかも知れない。世の中、なんて狭さ。 「あ、ありがとうございます」 正直、どうしようかと考える事も放置していたほどだ。 顔を顰(しか)めて、輪っかを見つめる彼を眺める。 それに気付いたのか、絡み合う視線。同時に口腔内を激しく貪られ、奈智は酸欠になった。 夏休み最終日の思い出。

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