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50 国外脱出
自室の扉を開いて飛び込んできた眩しい光景に、奈智は静かにそれを無かった事にした。
「……夕食の準備しよう」
今日は早く生徒会の仕事が終わってバイトもなく帰宅したが、どうやら頭はかなり疲れていたらしい。食事を取ったら早めの就寝を心がけよう。手を打って回れ右をすれば、首根っこを掴まれていつの間にか開け放たれていた部屋へ引きずり込まれる。
「入ればいいだろう、天使?」
「っか、川嶋さんっお久しぶり、です……」
引き攣った顔を自覚しつつ、長身の金髪を振り仰いだら意味深に口角を上げられていた。
兄の知り合いのなかなかに頭のネジの飛んだ彼は過去、強制的な鬼ごっこに逃げ惑っていた自分を救ってくれた恩人から、愛を囁きつつ好き勝手に身体を弄(まさぐ)り光る輪っかと婚姻届、ウエディングドレスを準備している宇宙人へと奈智の評価をマイナス面へと着々と落としている。
「いけないな。プレゼントがあるのに逃げるとは」
「遠慮しますっ」
「子供は遠慮しないモノだ」
「そのコドモにナニするつもりですかっ!」
扉に張り付いて涙目になった奈智は抵抗を試みる。
「甘いな、天使。今は十七だろ。来年はどうだ?」
「十八です」
あ、そろそろいい加減に進路決めないと。
というか、何でこの人、俺の部屋に当然のように居るのだろう。
今さらながらに湧き上がる疑問に首を傾げる。
「十八になるとどうなる」
「高校卒業します」
「結婚できるな」
「そう、けっこ……ん? 俺は、男です!」
「決まっているだろう。だから十八まで待っているだろ」
うっかりと頷きかけて、ハタと気付いた大きな間違いに大量の冷や汗をかきつつ叫べば、ケロリと返される始末。
婚姻適齢とやらが、女性は満十六、男は満十八というのは知ってはいるがもしや彼はそれを示しているのだろうか。
「だからな、変なムシが付かないようコレを」
そう差し出される小さな箱に感じるのは、言いようのない不気味さ。
「給与三か月分に変更したから、問題はないだろ」
いやいや、大ありだ。
問答無用で近づく前回とは比にならないほどの神々しく光り輝く輪っかに、力ない奈智にはなす術もない。これでは、堀ちゃん先輩経由で返却してもらったのは全くの無意味ではなかったのだろうか。そんでもって何故か責められたらしい、己の責められ損である。
「……なんで俺なんですか」
「そんなことか。会った時に言っただろう? 『美人な天使が降ってきたのかと思った』と」
俺の目に狂いはない、一目惚れだと豪語するそれこそが大きな間違い甚だしい。
「性別に囚われるとは小さな事だ。『足立奈智』という人間に惹かれたのだからな」
「……俺には何もありませんよ」
内緒話のように潜められた声音に奈智は溜め息をついた。
兄のように力や権力がある訳でも、弟のように人懐っこく可愛がられるような性格もしていない。ただ、その二人に挟まれただけの一般人。
「『何もない』と認めるのは案外難しいと知っているか?」
「──え?」
背を扉に預けて腰を下ろす自分の頬を撫でる指先を感じつつ、細められる眼を見上げる。
「人とやらは往々にして見栄(みえ)や虚勢(きょせい)を張りたがるからな」
「やっぱり、人間じゃなかったんですか」
「言葉のアヤだ。だが、『何もない』と嘆いてばかりで周りの幸福に気付かないのは同じくらい間抜けだ」
「あの、よく意味が……」
「教えてもらうばかりが学びではないな。迷い悩め。そして、俺の胸に飛び込め!」
両腕を広げて声のトーンを戻した、カオスな会話に奈智は頭を痛めた。
何をしたいのだろう。
「そういえば、天使はパスポート持っているか?」
あいにくと国外脱出を図った事はないのだ。持っている意味はない。
続く言葉に奈智はついに床に泣き伏した。
「新婚旅行はハワイなどと小さなことは言わず、豪華客船で世界一周旅行と洒落込もう」
三ヶ月の給与に差し替えられたブツが今後の波乱を生むのは、もはや周知の事実。
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