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56 敗退した悩殺
「珍しい所で会うね」
掛けられた声に奈智は顔を上げた。
「あ、先生。こんにちは」
春から夏に掛けて散々世話になった診療所の医師にペコリと頭を下げる。
「身体の調子はどう?」
「先生のお陰でよくなりました」
微笑めば、一瞬見開いた目が細まる。こんなひとつの仕種から、彼女と堀ちゃん先輩との間に血が繋がっているのだと改めて知らされる。
従姉弟だという彼らは時折、本当の姉弟のようにそっくりな時があり、実は堀ちゃん先輩は母である静香よりも松本との方が近しいのではないかと錯覚を覚えることも多々ある。
「こんなところでどうしたの?」
「あ、トイレットペーパーと卵を買いに」
友人と学校の休み時間に広告をチェックしていたら、大安売りだったので早速足を運んだのだ。ちなみに、真咲(まさき)は下駄箱で後輩君に捕まってしまったため、買い物は遭えなく断念。未だ続く友人と後輩の追いかけっこは終わりをみせず、むしろ若干激しくなっている気がするのは、己の気の迷いだけであってほしい。絶対、そうに違いない。
まぁ、ストッパーである蓮見(はすみ)が居てくれるから、そうそう危ない方向にはならないであろうが。やっぱり友情は輝かしいよ。友情バンザイ。
ぼんやりと思考を飛ばしながら二人仲良くドラッグストアの中を進みつつ、目当ての物をカゴに入れる。
まだ残っていて良かったと、主婦化した高校生は胸を撫で下ろした。
自分と同じ方向に足を運ぶ高い背を見上げて、今さらながらな質問を口にする。
「先生もお買い物ですか?」
「あぁ、そうだったんだけど……奈智くん、これらヒマ?」
顎に手を当てて考え込んだのち、提案した松本に奈智は首を傾げた。
「……えっと?」
困惑した奈智は押し倒されたベッドから妖艶に微笑んだ松本を見上げていた。彼女の目がギラ付いて見えるのは、逆光だからなのだろうか。そうに違いないと結論付けた奈智は、ズリズリとホフク前進応用、後ずさりを開始するも悲しいかなベッドヘッドによって逃れを阻まれる。
無事に買い物を終え自宅の冷蔵庫に片づけている間、車の中で待っていた彼女。恐縮した奈智は半ば引き摺られるようにして美味い食事に連れて行かれ、そして今。
「奈智くん……」
「はい? っあ、あのっ!!」
「オンナを知りたいとは思わない?」
頬に触れる掌に意識を奪われつつ、思いの外近い顔に悲鳴を上げる。
背はシーツ、逃げ場はない。
──おかしい。確実に何かがオカシイ。
言いようのない不安を抱えたまま、大量の冷や汗を流す。
酔っている?
いや、先ほどの食事には酒類は無かったハズだ。
第一、ほぼ変わらない料理を一緒に食べたのだ。それほど強くない自分が酔わないはずがない。松本にとって、ネコのようにマタタビの作用のあるモノでもあったのだろうか。最愛なるペットの金ちゃんを食したそのネコはそれほど好きになれないが、テレビの画面や写真などでは癒しの存在。ソレらと一緒なのか。一瞬、動物特集の番組で紹介されたマタタビでグテグテになった毛の塊が頭を掠める。
あまりの急展開に思考の追いついていない奈智は感触に現実に引き戻される。
「いいね、ツヤツヤ。吸い付くような肌。可愛いよ、奈智くん」
いつの間にか外された上着のボタンに、肌に沿わされる掌。
いよいよおかしな状況になったと、今さらながらに焦り出した奈智を嘲笑うかのごとく、彼女のその濡れた唇が口角を上げ耳朶を食むようにして囁かれる言の葉に瞠目する。
「──オトコにしてあげるよ」
細められた瞳の中に宿る何かに怯えつつ、魅惑的に唇を舐め上げる舌に目を奪われる。
「っえ、えっとですね!」
『いい加減にしろ!!』
「──ぇ?」
淫蕩な空気を打破するかのごとく響いた、聞き慣れた声に眼を丸くする。
「これからお楽しみだってのに、ヘタレは黙ってろ。空気読みな。ソコで指銜(く)えて奈智くんの喘ぎ声でも聞いてマスかいてろ」
『おいっ!』
「とっとと手を出さないのが悪い」
しれっと答えた松本を見上げて、奈智はあんぐりと口を開けた。いつの間にか彼女の手には見慣れた己の携帯電話。
そして、通話中の登録名は『堀克己』。
一体、いつから。
いや、ナゼ?
あまりの衝撃に声もない奈智を放置したまま「何がオンナだ、ビッチだろうが」「熟女の色香を教えてんだ」などと言い合いをはじめる従姉弟を眺めつつ、気付いて肌蹴られた服を正す。電話で相手を軽くあしらいながら奈智の様子を楽しそうに眺める松本に、伸ばされた手で目尻を拭われる。
「……ぁ、」
次いで触れられる唇に、雫を押し戻されるようにして音を立てられる。
「これから奈智くんとよろしくするから。おやすみ、ヘタレ」
憎まれ口を叩いて強制的に終了された電話は、当然のように電源まで丁寧に切られてベッドの上へ放られる。
「残念。せっかくイイコトしようとしたのに。──もう、しないよ」
おいで、と若干からかいを含んだ手招きに警戒しつつ、いつの間にか腕に捕らわれる。
「かわいいなぁ。コレだから、いじめたくなる。どっちもね」
強く抱き締められ、目を回す。
「っど、どっちも……?」
「奈智くんも、克己も。あー、いいオモチャ見つけた!」
満足そうに声を高くして笑う松本の言っている意味が全く解らない奈智は首を傾げるのみ。
つまり、は?
「この私に診察しろって言うからどんな子かと思ってたら、かわいい奈智くんだし。いつも手が早い克己のクセに珍しくグズグズしてるし」
あれは春のできごと。体調を崩した奈智を堀ちゃん先輩が松本の所に連れて行ってくれたのだ。
「す、すみません……あの、先輩は、」
自分の体調管理不足によって招いた行動に彼が責められるのは、とても頂けない。
第一、その原因の一端どころか全ては我が兄弟の情事であり、そのストレスを解消できずにいた己の不手際である。
顔を上げて詰め寄った奈智は、続く言葉に答えを探しあぐねる。
「あの克己が大切にする子って、どんな人間だろうって」
まぁ、今回ホントに食べようかと思ってたけど。とは年下キラーの心の中の声だけである。
「奈智くんにも、克己にも、どっちにも興味あったのね」
魅惑的にウインクを寄越されて、困惑する。
「あの、俺は普通の高校生です」
兄のようにとてつもないバックグラウンドがあるわけでもなく、弟のように誰からも慕われる人気者でもなく。
俯いた奈智の顎を掬って、松本は極上の笑顔を曝す。
「ソレがいいんじゃないの?」
二人仲良くコタツで蜜柑を堪能していた所へ、息を切らせて駆けつけた堀がその光景を目にして脱力したのは、言うまでもない。
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