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57 予感

 奈智は目の前の人物を凝視したまま、しばらく固まっていた。 「どうなさいましたの?」  上手く言葉を紡ぐことのできない自分に対して、小首を傾げた愛らしい彼女は桜子(さくらこ)と名乗った。  ココ一部だけ、どこぞのおとぎ話を切り取ったかの如く、花をまき散らすお姫様はゆるくウエーブの掛かった長い髪を揺らしてふんわりと微笑む。後ろに見えるはずの白馬の王子様とお城は、何故か黒い高級車と黒スーツを着込んだ厳(いか)ついお兄さん達だけれど。 「…………今、なんて?」  カラカラに乾いた喉から絞り出した声はみっともなく掠れていた。 「あら、申し訳ありません。わたくしったら」  耳には入っていたものの、衝撃的事実に頭が追い付いておらず聞き返した奈智に勘違いした彼女は頬に手を当てて再び同じ説明をはじめた。 「お兄様は川嶋組を背負って立つ者。生半可な気持ちでのお付き合いは、お止めになった方があなた様の為ですわ」 「たっ、多聴兄っ!!」  勢い込んで、奈智はノックもせずに兄の部屋に転がり込んだ。 「ぁあ?」  紫煙を立ち上らせるその高い背から不機嫌そうな低い声が響いたが、今はそんなこっちゃ知ったことではない。 「川嶋さんって、ナニモノっ?!」  寒空の中、学校終わりに迷子の女の子に声を掛けられ案内している内に、相手が探しているのがどうも自分だと知った奈智は用件を聞いて固まった。 「どの川嶋だ」  あれは夏の暑い日。自宅玄関に豪華なウエディングドレスを持参した金髪の彼に、この長兄も会っているはずだ。扉に弾かれ、兄に踏まれて肩を負傷した自分に労わりの言葉を掛けてくれた宇宙人に、暑さでドロドロに溶けて膿んだ頭はうっかりと絆(ほだ)されそうになったのだから。 「川嶋組の倅(せがれ)がどうした」 「…………えっと、ど、ドウモしません。申し訳ありませんでした。」  コレは自分の聞いてはいけない範囲であった。  事も無げに言い放った相手に奈智の思考は一旦停止する。  相手と己の力関係を如実に表したような、椅子で長い足を組んで煙草を吹かす兄と床に正座させられている自分。  急激に冷えてきた頭を深々と下げて仲良く床とご対面しつつ、小さくなった奈智はそそくさと退散しかける。兄の部屋と外界との温度差を感じなく……いや、むしろ極寒なのは、エアコンの効きが悪くなっただけの所為ではないはず。  格言にもあるように、人間には各々適性や能力に応じて相応しい場所というものがあると奈智は常々思っている。その思考は己の可能性を狭めてしまうだろうことも知っているが、如何せん背景の黒い兄を間近で見ているからこそ、実感を込めてしまう。  大体、同じ様な顔だからといって自分が双子の弟の沙和の位置に立てるかといわれれば、それは否だ。彼のように、誰にでも良く言えばフレンドリーに警戒を抱かせないように悪く言えば馴れ馴れしく話せないし、人気者でもなければ、兄の相手なぞできる訳もない。ひとりひとり違って、それが個性。オンリーワン、バンザイ。 「──あれ? 何これ?」  部屋に散らばった紙面に気付いて、奈智は拾い上げた。  『売物件』。しかも一等地の最上階、超高級マンション。  よもや。 「……多聴兄、家出るの?」 「あぁ」  ひとつの仮説に辿り着き、張り付いたのどで問えばさも何でも無さそうに返される。 「……そっ、か」  言いようのない広がっていく沈んだ気分に、知らず声音は暗くなった。 兄が生み出すさらなる波乱がこれから待ち受けていようとは、この時の奈智は知らない。

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