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60 足あと

 ホットココアに口を付けたまま、奈智は呆然と目を見開いていた。 「…………っど、どちらサマで、しょう……?」  日が陰ったのかと思った。日照時間の少ないこの季節だし、ありえないことではない。  しばらく熱い甘い飲料物を啜っていれば、増えた圧迫感。  不審に思って丸めた背から顔を上げれば、黒尽くめの男達に囲まれたのに気付き、今。  おかしい。確実に。  寒空に凍えつつ、ペットボトルを供にして公園のベンチに佇む高校生なだけ、のハズ。  大きな背で、真っ黒なスーツに身を包み、それぞれの顔にはサングラス。  ……怖いよ。  引き攣った顔と声で問いかけても、返事はなく更に不安を煽られる。兄である多聴は腹に隠された言いようのない暗黒であるのに対し、何をするでも言うでもなくのっそりと立ち続ける男達も不気味。これでは子供も滑り台や砂場では遊べまい。というか、不審者で通報されはしないのだろうか。  人違いだ。そうに違いない。  結論を出して満足した奈智は、ひと口ココアを含む。知らない人たちに囲まれたまま、セルフで和んだ所に知った声が掛けられる。 「お前ら、いたいけな天使を囲んで何してる。散れ」 「……川嶋さん」  見慣れてしまった金髪に不本意ながら若干の安堵を覚えてしまい、負けた気になって密かに頭を抱える。 「お知り合いですか」 「悪いな、天使。帰らせる」 「は、はぁ」  男達に何かごとを囁いて引き上げさせた後、さも当然の如く奈智の隣に座る川嶋を見上げる。 「川嶋さんは行かなくていいんですか?」 「俺はいい」  さようですか。  特別話題にする内容もなく、静かにお供の量を減らす作業に入る。身体に染み渡る温かさは反比例して、手の内からカイロをなくす。 「悪かった」  ペットボトルを空にした頃、隣から聞こえた謝罪に奈智は眼を丸くした。 「──……え?」 「義妹(いもうと)が差し出がましい事をした」  続けられる言葉に、幻聴ではなかったらしい事を知らされる。それと共に深々と頭を下げられ、訳がわからない。 「っあ、あのっ!? 顔上げてくださいっ!!」 「アレは一つのことに拘(こだわ)ると、どうも突っ走る傾向があってな」  イノシシか。  いや、それ以前に目の前の彼もヒトの事は言えない立場だろうと、冷静な部分で突っ込みを入れる。──ココロの中で。  さすが兄妹。  彼の数々の行動によって、奈智の心にトラウマを刻んでくれたのは記憶に新しい。お陰で街角のショウウィンドウに飾られたウエディングドレスとタキシードには、もやは恐怖しか覚えない。それほど夢はないが、これで結婚式を挙げられなくなったらどうしてくれよう。 「聞かないのか?」  ……何を?  改まった声音から元の彼の軽い口調に戻り、問われた質問内容に目をパチクリさせる。 「えーっと、『こんな寒い所に居るよりも、暖かい部屋の方がいいですよ』?」  強風吹き荒れる、極寒だ。 「天使こそ、な。ソレでいいのか?」  ソレもドレもない。  あいにくと現在は買出しに出掛けた親の不在を、コレ幸いと兄弟がまぐわっているのだから自分の居場所がない。別に絡まるのだけが恋人関係ではないだろうと思う自分は、やはり子供なのだろうか。家の中でなく、どこかへ遊びに行っても何ら問題はないだろう。兄と弟で出掛けるなど他の兄弟でもありえる。ただ沙和はともかく、あの多聴が『笑顔で楽しく思い出作りに勤しむ』というのが、薄ら寒いだけで。 「家業のことは聞かないのか?」  言葉を重ねられ、そういえばと先日の衝撃を振り返る。忘れていたなんて、とても言えない。上塗りされた驚愕は、兄弟の家出だったというだけ。 「ちょっと驚きましたけど」  普段の宇宙人はなりを潜め、意外と普通に会話を交わすというこのシチュエーションに少しどころではない不思議さを感じる。  いつものハイテンションはどこに姿を眩ませたのだろう。 「ちょっと、か。大物になるぞ、天使」 「はぁ……」  目を細めた彼は奈智の頬に指を這わせ、そのまま唇を辿る。 「『美人な天使が降ってきたのかと思った』」  複数の黒尽くめのスーツ姿に追いかけられ、行き場を失って飛び越えた壁の向こう。キラキラの金髪を目にしながら被された布と共に囁かれ、奪われた唇。  忘れもしない、強烈な出会い。 「知ってたか? アレがはじめてじゃないぞ。会ったのは」 「……っえ?」  目をパチクリさせた奈智をちいさく笑って、今度は髪を梳かれる。 「しばらく前に、旅行代理店で」  元々旅をしない奈智が生まれてこの方、自分で旅行を設定したのは後にも先にも一回しかない。  あれは、兄と弟が恋人という関係に落ち着く直前。  拗(こじ)れに拗れ、多聴と沙和の兄弟関係は修復不可能かと半ば諦めかけて間に挟まれた奈智が頭痛を覚えながらため息をついた頃、突然弟に引っ張り出された家出旅行。沙和がプランを立てられるはずもなく、当然のように口だけ出して放り投げられたソレを何故か無関係な己が奔走したのだ。渋々といった感じで旅先に迎えに来た兄は沙和と仲良く帰ったけれど。  ──ふたり、で。  丸く収まってバンザイだが、後に残った遺物に言葉に表せない感情を覚えたのは、忘れもしない。  痴話喧嘩に巻き込まれ見せ付けられ、真冬の寒空の中雪降り積もる山に置いてかれて遭難しかかり、沙和と自分の宿泊費を捻出し、ナゼかムダに多い双子の弟の荷物も抱えて独り虚しく電車で帰宅していた途中、知らないお兄さんたちに絡まれ。  封印していたかった苦い過去をまざまざと思い起こされ、ヒッソリとひとりベンチに涙する。  その時の、代理店? 「正確には、店先だな」 「店先……ぁ、」 「思い出したか?」 「でも、アメくれた人は金髪じゃなかったですよ」  確か、美味しいレモンのアメだった。 「……大物になるぞ、天使。他にあっただろう。怖くはなかったのか?」  他。 「あ、刃物持った人が居ました」  不本意ながら、危うく人質になりかけたが。  平和なこの国にしては珍しく、当時はあたり一帯騒然となったものだ。  言われてみれば、犯人との間に割って入ってくれた若い男に似ているような。 「あの時は、ありがとうございました」  今度はこちらが深々と頭を下げれば、何ともいえない顔をしている。 「巻き込まれたんだぞ」  抗争に。と続く言葉にイマイチ実感ない奈智はふーんと首を傾げる。 「五体満足でよかったです。川嶋さんは怪我しませんでしたか?」  しばらく髪を弄っていた手は、再び頬を撫でる。  男の肌って、それほどいいものではないと思うのだが。 「あぁ──それから、お前を探した。部下たちも俺に隠れて探していたのは知らなかったが。偶然とはいえ、俺の元に落ちてきた時は年甲斐もなく喜んだ」  落ち……。 「……オメデトウゴザイマス」  あいにくと、アレは思い出したくない記憶ランキングの上位に登録されている。  そうか。いつぞやの高校生のように沙和に間違えられて追いかけられたのではなく、あの黒スーツの面々は正真正銘自分を追いかけていたのか。もしかしたら、奈智と鬼ごっこをする前に沙和の所にも行った可能性がある。それならば、兄の機嫌が悪かった合点もいく。恋人の身を案じて身代わり基(もとい)、本当の獲物に向けと怨念を放っただろう。もしもコノ一件が引き金で、今までの若干嫌がらせ染みた諸々が芋づる式に連なっていたとしたら、一体どうしてくれよう。  フッとやわらかく微笑まれ、頬を包まれる。 「もう一度、俺の所に落ちてくる気はないか?」 「意味が解りません」  ドコから落っこちるというのだ。しかも、トランポリンやクッションか何かのように傷なく受け止めてくれるというのだろうか。また足を捻ったのでは堪ったものではない。まぁ、あの時は考え事をしていて自業自得であったのだが。 「桜子(さくらこ)が言ったのは、あながち間違いじゃない。組を背負う立場としては、傍らの大切な人間に何らかの危害が加えられないとは言えない。この前の抗争は比じゃない」 「は、はぁ」 「『川嶋組』の代が変わるのは、来年の頭だ」  来年……もう一ヶ月はない。いや、あと半月あるかどうか。 「俺が本当の意味で自由に動ける時間はもうない。ソレまでに天使を縛りつけたかった、というのが本音だった。出来なかったのは、俺自身の甘さであり惚れた弱みだな」  だから、光る輪っか第一号にはじまり、届けの紙にウエディングドレス、輪っか第二号、新婚旅行計画と会うたびに着々とレベルアップしていたのか。見た目によらず焦っていたらしい。今さらながらに、自分を引きとめようとした彼の心構えが窺える。ソコまで真面目に執着してもらったのは、たぶん例のストーカーの一件以来だ。 「一般人に手を出す、という点にも気が引けた。総てを知っていたからこそ、多聴は口を挟まなかったのだろうな」  やや自嘲気味に口元を上げる顔を眺める。  ──総てを。  期限があるのも、時間が無いのも、川嶋の心の葛藤も。  だから、神出鬼没であった彼が当然のように足立家に出入りできたのであろうか。 「……ナンで、俺ですか?」 「解らない。理屈じゃないんだろうな」  コチラの方が余計に理解不能だ。  でも。 「俺にも解らない事だらけですけど、川嶋さんがやさしいって事だけは解りました」  これだけ個人の力も権力も、見目も良いのだ。そして、自分には異次元なバックも。その気になれば、強引に──いや、ある意味強引ではあったが──コトを運べないわけでもなかっただろう。いくら自分が未成年であったとしても、書類はいくらでも作りようはある。それこそ、いつぞやの二ノ宮(にのみや)のように無理やり連れ出して閉じ込めてしまうことなど簡単だろう。それを川嶋はあえてしなかった。  微笑んだ奈智に、眼を丸くした男は次の瞬間、笑みを溢した。 「フッ。大物だな、天使」 「俺には何もありません──でも、」  言葉を切って、一度瞼を閉じる。開いた視界に、覚悟を決めた精悍(せいかん)な男の顔。 「でも、周りには支えてくれる大切な人たちが居ます。その人たちが『俺』をつくってくれています」  偽り無く話してくれているのであろう彼には、相応に自分も話さなければ失礼だ。  時におちゃらけ、限られた時間の中でも最終的には自分に選択を与えてくれる川嶋。  ケンカを逃げ足を教え、気付かぬ所で先回りをしてくれている多聴。  物事をかき回して遊ぶ節はあるものの、心配してくれている沙和。  得体は知れないが、それでも援助してくれる『雨宿り』の香坂と高城。  面倒くさそうにしても、同じ視線に立って迷った時に道しるべを与えてくれる、かっちゃん。  どれも、だれも、自分にとってかけがえのないモノ。  そして──。 「そんな俺は、堀克己という男の所に居たい」  逸らさず、視線を合わせたまま。 「──上出来だ」  目の前の男から自分に向けられた、諭し。何も無いと嘆いてばかりではなく、周りを見ろと。  一番身近な兄が弟が離れると知り、振り返った今までの自分。  童話の『青い鳥』を家の中で見つけてから、ふと視線を窓の外に向ければ。  いつぞや兄弟二人に置いていかれた新雪の中のように。さまよっていたハズの己の歩んでいた道には、たくさんの人の足跡が絡んでいた。  たくさんの。  交わりの中で自分も歩いている。  たぶん、それ以外にもあるのかもしれないけれど、今の自分にはソコまでしか気付けない。 「もしも、天使の腹が決まっていなかったら、本気で掻っ攫うつもりだったんだがな。残念だ。──俺を袖にした事を後悔させるくらい、男を磨くか。今もいい男だがな」  少し寂しそうな色を瞳の中に一瞬垣間見たような気がしたのは、自惚(うぬぼ)れなのだろうか。  もしも出会いが、互いの立ち位置が、少し違っていたら川嶋とは意外と友好な交友関係を築けていたかもしれない。兄と弟のように、人生の先輩と後輩のように。  ちょっぴり残念な気持ちになりつつ思考に耽っていれば、目の前から川嶋が消えた。 「スキを見せたら今度こそ、問答無用で掻っ攫うからな」  いつの間にか男に強く抱き込まれ、身動きできない。低く囁かれる宣言に、無意識に背筋を何かが駆け上がる。ちいさな口付けをこめかみに受け、困惑していれば鳴り響く着信音。 「何かあったら、ソコへ連絡しろ」 「……え?」  ドウイウ事ですか? 「俺への直通だ。レアだぞ」  特別希望はしておりませんが。 「代替わりする組の頭のシークレットだ。無くすなよ」 耳元で潜められた内容を半分も理解できなかった奈智は、ディスプレイと去って行く背をただ呆然と眺めるしかできなかった。

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