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62 居場所
……家庭内紛争、勃発。
居間に兄弟が。テレビとテーブルを挟んで、その向かいには両親が揃って難しい顔をしている。
そんな中奈智は口を半開きにした間抜け面のまま、ポカンとその様子を他人事のように眺めていた。
「沙和の事は聞いた。奈智を連れて行くとは、聞いていない」
腕を組んだ父は重苦しく口を開いた。
あいにくと自分が知っていたのは兄が家を出るというだけで(しかも偶然)、沙和のことに関しては状況証拠と己の想像だけだったのだが、さすがに両親は知らされていたらしい。どうやらのけ者にされていたらしい事実を知って、若干切なくなる。
「大体、奈智を連れて行ったらかわいそうだろうが。学校から遠くなる」
そうだ。
彼らがはぐくむ新たな愛の巣とやらは、沙和の通う学校にも多聴の勤務する会社にも近い。しかし我が家を中心に反対側に位置する高校の奈智には、通学時間が大幅に増える。距離にして二倍以上。それを、残り一年と少しの学校生活で行き来ができるか、と言われれば難しい。一体朝の何時に家を出れば良いのだ。それに付随しての、朝食の準備に弁当の……あることに気付いてしまい、奈智はハッと顔を上げた。
──……まさ、か?
恐ろしい考えに行き着いて、流れる嫌な汗を止められない。
「奈智、顔が真っ青よ?」
「っな、なんでもないっ」
心配した母に引き攣った笑顔を曝し、どんどん重くなっていく気分を誰にも悟られぬよう息を吐く。
キリキリと胃も頭も痛くなってきた。
バックの中に鎮痛剤は残っていただろうかと思考を飛ばす内にも、話は進んでいく。
「えー、いっしょだよー。ねー、なちぃ?」
「どうせこの家に居ても、生まれてくる赤ん坊の子育てを手伝わせる気だろ」
「どうしても無理な時は、な。お前達こそ、奈智に家事をやらせるつもりだろう」
新たな愛の巣で、自分は兄弟兼恋人達のおさんどんの就職が決まっているらしい。馬に蹴られるマゾっ気はサラサラないのだが。
怖れていたことが現実となり、奈智は涙目になった。別に、率先してやっていた訳ではない。ただ忙しい両親と、こと家事に関しては全く才能のない兄弟に挟まれて、はじめた事柄である。悲しいかな、現在ではそれも徐々に趣味となりつつある訳であるが。
「この子は家事搭載、万能機器じゃない」
「当たり前だろ。かわいい弟だ。親父たちこそ家政婦か何かだと思っているだろ」
「かわいい息子に決まっている」
……ウソくさい。
目の前で繰り広げられる父と兄の攻防に、もはや蚊帳の外に蹴飛ばされた奈智に発言力はない。
「お袋はどう思う?」
家族会議という名目上か、珍しく兄が母から意見を求める。
オークションにでも出品され、値段を付けられるのを待っている吊るされたブタか何かの心境で固唾を呑んで成り行きを見守る。
「そうねぇ」
ちらりと隣の奈智の顔を窺って、大きくなった腹を無意識なのか撫でる。
「私は、奈智が好きなようにすればいいと思うわ。多聴だって、奈智も、沙和も、これから生まれてくる子も、みんな大切な子ですもの。ただ、みんな一度に居なくなっちゃうのは正直寂しいわね。多聴は意地っ張りで実は寂しン坊だし、沙和は元気で賑やかでヤンチャだし、奈智はやさしくて笑顔が素敵で意外と男の子らしいの。そして、あなたは子煩悩でやっぱり寂しがり屋」
みんな、知ってた?
いたずらっぽく笑って小首を傾げる母を、奈智は唖然と眺めた。
父や兄に対して、そのような微笑ましい見解ができるのは多分この人だけであろう。
絶句した男共一同を見回して、彼女はテーブルに置かれていた茶を啜った。
「だから、寂しがり屋さんのみんなで、やさしい奈智を困らせないの」
「居場所に困るなら、ココに住めばいいだろ」
さも当然とばかりに言い切った男を見上げつつ、奈智は差し出されたコップを受け取った。
「え、ココって……? ありがとうございます」
「俺の部屋。」
「堀ちゃん先輩の……?」
新たな場所の候補が上がり、更に困惑が増す。
「あぁ」
さも当然とばかりに首肯した彼は眼を細めつつ己のコーヒーに口を付けて、奈智の頭を引き寄せる。
『解らないなら、解るまで俺の傍に居てくれ』
いつぞや夏の終わりに囁かれた言葉。
曖昧な期限を設けられ、ひとまず友好な関係は続いているハズ。時折仕掛けられる、子供のような戯れに驚きはするが。
口腔内に広がる堀ちゃん先輩特製のカフェオレを堪能しながら部屋を見回して、何故か増えてしまった己の私物たちを眺める。
初回にこの部屋にお邪魔した時は彼の服を借り、明らかに違う身体のサイズに衝撃を受けたものだ。一体何回袖を折り返したことか。その苦戦を知ってか、いつの間にか用意されていた自分用の衣服。しかもサイズピッタリという訳の解らなさ。そして奈智の好みの物だけでなく、時々混ぜられる普段自分では着ない系統の種類に新鮮さを感じる。洗面台に並べられた歯ブラシに、一人暮らしの割には多い食器の種類。
知らぬうちに自分の存在が置かれている。改めて気付けば、何てずうずうしい有様だ。これで、もしも彼と付き合っている人間が訪れたら大目玉モノであろう。親兄弟然り。
「今もあんまり、変わらない気が……っわぁ!?」
急に強い力で身体を引かれ、悲鳴を上げる。
「っちょ、……先輩?」
放られたベッドからいきなりの行動に抗議を上げかければ、思いのほか真剣な眼差しに言葉を失う。コップはいつの間にか取り上げられていた。
「奈智……」
彼の指が輪郭を確かめ、耳朶に辿り着く。弄ばれる石に気を取られつつ、覆いかぶさった男の下から抜け出そうと笑うも失敗する。
再びその唇がゆっくりと己の名前をかたどるのを見ていられず、瞼を閉じればそこかしこに降らされる口付け。
「ぁ、んぅ……」
漏れる吐息の中、強く感じる視線にうっかりと薄目を開けてしまい、後悔で全身を朱に染まらせる。
「──もう、解ってるだろ?」
「……っ、」
囁かれ耳朶を食まれる感触に、時間を掛けて慣らされた身体は意思とは関係なく勝手に跳ねる。
「っ、かんなぃ……アッ!」
差し込まれる舌に恐れをなして、かぶりを振るも許されるはずもなく。
どうしようもなく滲む視界を隠すようにして腕をかざすも、無常にもすぐに退かされる。
「そんなにイヤか?」
「っだって……」
不本意に滲む視界に下唇を噛んで耐える。
「だって、『解るまで』って、解ったらお別れじゃ……」
それは、嫌だ。
いつぞや川嶋にだけは伝えたが、堀克己という男の近くに居たいだけなのに。それができなくなるのであれば、本末転倒だ。
痛い沈黙が二人の間を流れる。
大きな溜め息をついて、奈智の首筋に顔を埋めた男の表情は窺えない。
「……何だ、このかわいい生き物」
「え? 今、なん──」
「いいか、奈智」
耳元で呟かれたハズの言葉を拾えず問えば、顔を上げた男に遮られる。
「いい加減に、お前に惚れてる男の言葉を信じろ。何度も言ってるが、奈智が欲しい。からってないぞ。──解るな」
疑問ではなく、確認を。
「他の誰にもこんな事しないからな。実はそんなに気も長い方じゃないが、奈智だから待てる」
とろける様な微笑みを与えられる。
「好きだよ」
囁かれる甘い言葉に、全身の体温を急上昇させられる。
息が、できない。
「……っ、」
逃げられない。
いや、逃がしてもらっていたのだ、今まで。
ソレを嫌でも知らされる。
彼のやさしさを。
己の逃げを。
「……、す」
「ん?」
カラカラに乾き切った喉から、絞り出す。
「お、れも、です……」
「──あぁ、知ってる。ずっと前から」
ひとつ笑って、頬を撫でられる。
重ねられた唇に、誓いを乗せて。
「これからも、傍に居てくれ」
「実際、奈智の親父さんもお袋さんも知ってるから、問題ないだろ」
「──……え?」
背後から包まれ肩口に顎を乗せられている状態で、相手を仰ごうとして失敗する。
「好きなだけ居ていいぞ。合鍵もあるしな」
低く笑いわき腹を弄る、イタズラな大きな掌に軽く溜め息をつく。
これからも、波乱は待っているようだ。
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