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ファースト

「……え? 入院?」 「そうなのよ。大したことないって言ってるけど、ちょっと様子見てくるわ。ごめんなさい、その間だけでも──」 「うん、いいよ。麻歩(まほ)みてるよ。父さんとゆっくりしといでよ」  入った連絡は父方の祖母が病気を患ったとの事だった。祖父没後、友人と人生を謳歌している彼女が調子を崩すなど、はじめて聞くので心配だ。何てったって、高校生の自分よりも活発に動く人なのに。  先日無事に産まれた末の兄弟をあやしつつ、奈智は子育てで疲労の濃い母に労わりの言葉をかけた。これから、仕事を早くに切り上げて帰って来る予定の父と共に祖母の元に行くのだ。いくら自分が家事の補助をしようとも、夜泣きや授乳などに対応して彼女も心休まる時が少ないだろう。それでなくとも、十数年ぶりの子育てだ。自分たちの時よりは、身体的にも負荷が掛かっているだろうことは予想される。  留守番の奈智と乳児を心配した母は、何度も奈智に行動の確認をしながらしきりに謝った。 「俺はともかく、麻歩は病院に連れて行けないでしょ。いってらっしゃい」  半ば強引に母と帰宅した父を送り出し、一緒に振っていた弟の腕を戻す。 「ばあちゃん、元気だといいね、麻歩」  ぷっくりしたほっぺたを軽く突いて再び扉を仰ぐ。キャッキャと高い声に意識を戻されて、つられて緊張を緩める。 「そうだね、大丈夫か。麻歩はいい子だね」  はじめはおっかなビックリ恐々とだったが、次第に慣れてきた乳児の抱き方に近頃は弟も笑ってくれるようになった。あの多聴や沙和が以前はこのようなかわいらしい姿だったとはとても思いつかないが、小さい頃から知っている母からしたらあの釣れなさ加減に嘆きは大きいだろう。  ちなみに現在彼らは完全に新居に引っ越して、奈智は自宅で安寧なる日常を送っていた。ソファも風呂も汚れを気にしないで使用できるのだ。畳んだ洗濯物をしまうときに扉を開ける時の、あの緊迫感に襲われなくても良くなったのだ。両親の居ぬ間におっぱじめられる絡まりの喘ぎ声に耳を塞がなくてもいいのだ。食事をしながらむせ返るような濃厚なシーンを見せ付けられなくて済むのだ。なんて、清々しい日々なのだろう。訪れた幸いに、知らず涙する。 「あんなオトナになっちゃダメだよ!」  すぐに大きくなるであろう末の弟の身体をヒッシと抱きしめて、乳児特有の大きな頭に縋る姿はかなり滑稽であろうが外野も居ないので気にしない。 「……あれ? 電話?」  甘いミルクのニオイを漂わせる、かわいい弟と愛を深めていれば鳴り響く着信音にパチクリと目を瞬かせる。  ドコに置いてあったっけ?  しばらくバックの中に放置してあったような気もする。しかも、あの音は堀ちゃん先輩だ。どうしたんだろう。奥深くに眠っていた物体を探し出して、首を傾げる。 「はい?」 『奈智、今平気か? ──お、弟か』  電話に出た途端、何故か大泣きをはじめた麻歩をあやしつつ意識を傾ける。 『ヒマだったら、どこかに出掛けるか? と思って』 「すみません。親に急用ができて出ているので……」  せっかく誘ってくれようと連絡をくれたのに。申し訳なさで見えないはずなのに頭を下げる。他の誰かとでも出掛けてもらって、とぼんやりと思考を飛ばせば、フッとやさしい声が耳を攫う。 『えらいな』 「……先輩、」  自分の未熟さは承知しているので、とても子供じゃありません、とは言えず咎めを含んで言葉を詰まらせる。向けられる微笑みと共にまるで頭を撫でられたような錯覚さえ覚えるのはナゼだろう。 『じゃあ、そっち行くか』 「……え?」  呟きなのか決定事項なのか訳も解らず終話され、携帯電話片手に呆然と佇む奈智が残った。  本当に来ちゃった。いや、来て悪いわけではないのだが、特別おもしろいこともありはしないだろう。  奈智は弟を抱えたまま、自宅玄関で堀ちゃん先輩を迎えていた。 「お構いもできなくて、すみません」 「別にいいぞ。俺が構いたいだけだから」  意味不明なことを口にする長身を見上げていれば、いつの間にか捕まえられていつぞやのように頬に掠められる唇。ゆっくりと上がる口角をまるでスローモーションか何かのように見開いた目で捉える。 「落とすなよ」 「ぇ……っぁ、」  低く囁かれたと思ったら、声と同時に引かれる腰と舌を這わされる首筋。ちいさく痛みを伴うリップ音を遠くで拾う。 「……と。危ないな」  誰のせいで……と反論する思考も霧散する。不意に起こった出来事に遅れて顔を赤くして、酸欠の金魚か何かのように無意味に口を開閉するしかできなくなる。  途端、火が付いたように大泣きを始めた弟に意識を戻される。 「……ぁ、麻歩」 「腹でも減ってるのか?」 「──ッ、み、ミルク! 作ってきますっ!」  半ば無理やり先輩に手の内の弟を押し付けて、台所に駆け込む。火照る首に手をやりながら脱兎の如く逃げる後ろ姿に、満足気に男が目を細めているとは知らずに。  ……疲れる。ナンだろう、あの恥ずかしい人。  シンクに縋り付いて、誰ともなく奈智は深い溜め息をついた。その吐息に若干甘さを含んでいる気がするのは、己だけだろうか。侵されている、色々と。  無機物に額をくっ付けて、染み渡るジンワリとした冷たさに冷静をもらう。  しっかりしろ、自分。いくら四つ離れているとはいえ、あの落ち着きようは一体ナンなのだろう。というか、掌の上で上手く転がされているのは気のせいか?  この頃頓(とみ)にスキンシップが激しくなって来やしないかと思いかけて、ハタとする。  実はあんまり、変わってない。  出会った時も顔を摑まれたし、体調不良でクスリを飲まされた時もやたら距離が近かったし、さも自然に肩や腰を抱かれるのも日常的にある。今さらになって、気付いた事実に呻く。シンクの冷たさだなんて、どこぞに飛んで行ってしまった。  徐々に近くなってくる泣き声で我に返って、慌てて哺乳瓶とミルク缶を捜索する。 「いい加減に泣き止まないと、お前の兄貴が困るぞ」  脅しなのかあやしなのか、たぶん言葉は通じないであろう乳児をからかう堀ちゃん先輩の声を聞きながら、こっそりと背後をうかがう。  ナゼこの人、慣れているのだろう。  一見すると、年若いパパとその子供。  あぁ、なんと微笑ましい光景。兄と双子の弟ではとても醸し出せない、ほのぼのなリビングにひとり静かに心の涙を拭った。 「どうした?」 「──え、あ」  バッチリと視線が合ってしまい、慌てふためけば声を出して笑われる。 「……子供、好きなんですか?」  若干復活を果たせば、アッサリと手の内を明かされる。 「まぁ、な。この前も姉貴の子供の相手してたからな」  お姉さん、居るんだ。しかも、子持ちの。と、いうことは堀ちゃん先輩のお母さんである静香さんはおばあちゃん!? あんな若々しい祖母がいていいのか? 「お、上手いな。適温」  衝撃を受けている奈智の手から出来たミルクを抜き取って、堀ちゃん先輩はシャコシャコと軽く振る。 「早く、でかくなれ」  唇に哺乳瓶の先を当てた方に口を開いて吸う反射を確認した彼は、そのまま麻歩に授乳してくれる。 「はぁ、上手ですね」 「そうでもないぞ。たぶん、コレが終わったらまた泣く」 「お腹一杯になっても?」 「ああ」  子供というものは、不思議なものだ。 「ほら、兄貴だ」  手慣れたもので背中をさすってしっかりとゲップまでしてくれた後、予想どおり大泣きを始めた弟を手渡される。  涙を溢れさせている目尻を拭ってやれば次第にキャッキャと笑い始めた麻歩に知らずと笑顔になる。 「やっぱり『ママ』がいいのか……」 堀の恨めしく呟いた声は、弟をあやしていた奈智には届かなかった。

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