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タレコミ
現在20XX年11月末、時刻は21時。
東京都N区の10階建てマンションの1室で、スマートフォンの通知音が鳴り響く。
誰かからの緊急連絡だ。
裸のままベッドで寝ていた敏雄 は、むっくりと上半身だけを起こすと、そばに置いてあったスマートフォンの通話ボタンを押した。
「もしもし?ああ……では明日、18時にS駅ですね。はい、お疲れ様です」
短い会話を終えると通話を切って、隣でうつ伏せになって寝ている若い男に目を向けた。
若い男は相当深く寝入っているらしい。
規則正しい呼吸に合わせて、裸の背中が上下している。
「起きろ、横居 !」
そのお気楽な様子になんだか腹が立った敏雄は、若い男──横居昭彦 の背中を、バチンッと音がなるくらいに強く叩いた。
「いたっ!なんですか⁈」
驚いて跳ね起きた横居が、叩かれた場所を押さえて、むっくり起き上がった。
「タレコミだよ。ほら、あのミュージカル俳優。元カノ名乗ってた女が売り込みに来たヤツ」
ベッド脇のサイドテーブルにスマートフォンを置くと、敏雄はそこに置いてあったペットボトルのミネラルウォーターを一気に口に流し込んだ。
置きっぱなしにしていたミネラルウォーターはすっかり温くなっていたが、冷たすぎなくて、今の敏雄の喉を潤すにはちょうどいいくらいだった。
「ああ、それで?タレコミの内容はどんなもんです?」
横居は叩かれた背中をさすりながら、小さなあくびをした。
「アイツにDV受けて、堕胎強要されたって言ってただろ?その女が婦人科に入院したときのカルテとか、中絶の同意書の署名の照合が取れたそうだ。あとアイツ、レギュラー番組の収録終わったら、スタジオからだいぶ離れたコインパーキングに向かってるらしいわ。いつもそこに車停めてて、それから飲み仲間と遊んでるんだとよ」
ペットボトルをテーブルへ戻すと、敏雄はベッドの縁に腰掛けた。
「たしか、アイツのレギュラー番組の収録してるスタジオって、駐車場ありましたよね?なんでわざわざそんな面倒なことを……」
「酒飲ませてベロベロに酔っぱらった女持ち帰るのに、車使いたいからじゃねえの?」
「あー、ありえる……」
横居は起こした上体を、またベッドに横たわらせた。
「じゃ、伊達 さん、明日は18時から緊急で張り込みですか?その前に、例の中学校の記者会見も入ってましたよね?」
「ああ、それまでは本社で原稿だ。まあ、それもすぐ終わりそうだが…」
「じゃあ、明日はそれなり余裕ありますよね?だったら、もう1回シてもいいですか?」
横居が起き上がって、ベッドの縁に腰掛ける敏雄を後ろから抱きすくめた。
「またかよ。1回出しただろお前」
「1回しか、ですよ」
横居がうなじに舌を這わせてきた。
「ん…お盛んなこったな」
首にかかる横居の吐息と舌の感触にうめきながら、敏雄は明日の予定を頭の中で反芻した。
同時に、突撃取材した際、あのミュージカル俳優はどんな顔をするのかと考えた。
──まあ、だいたい予想はできてるけどな……
生まれて間もない子猫みたいに、ちゅうちゅうと自分の乳首に吸い付いてくる横居の髪を何気なく撫でると、右腕の傷跡が視界に入った。
翌日18時、寒風が吹きつける中、敏雄はS駅近くの撮影スタジオの前に立っていた。
その場でしばらく張り込んでいると、件 のミュージカル俳優がそこから出てきた。
「大澤 さんですよね?」
敏雄はミュージカル俳優──大澤に歩み寄り、声をかけた。
「…はい」
敏雄の呼びかけに、大澤がゆっくり振り返る。
「週刊文士の記者です」
「…はい」
こちらの身分を明かすやいなや、大澤の幅広い肩がビクリと震えた。
なんということはない、突撃取材した際、大半の相手は決まってこんな反応をするのだ。
「大澤さんが昔、交際されていたヒサワレイコさんとのことについて、お話をお伺いしたいんです。この女性と、同棲されていた時期ありましたよね?」
「いやー、あの……事務所通してください」
女の名前を出した途端、大澤が気まずそうな顔をして目を泳がせ、やっと出した言葉がそれだった。
──こりゃあ、クロだな…
大澤の態度を見た敏雄は、咄嗟にそう判断した。
それでも、女の言っていたことが全て事実である確証はまだ無いため、アレコレ探ってみることにした。
「この女性が先日、あなたの自宅で自殺未遂したと聞いてますが」
「いや……」
大澤は口を開いたが、言葉が何も出てこないようで、陸に打ち上げられた魚みたいに間抜けな顔をして、口をパクパク動かすだけだった。
「首を吊ろうとしていた、とのことでお話を伺っています」
「…事務所を通してください」
大澤は明らかに動揺した様子で、さっきとまったく同じ、答えになっていない返事をした。
「……僕からは、何も言えないので…」
「否定はされない、ということですか?」
「いや、僕からは何も言えないので」
大澤は同じ答えを返した。
「妊娠させて、中絶させたことについては?」
「それも、何も言えないので…すみません」
敏雄の追及に、大澤は何故か謝罪を始めた。
いったい何に対する謝罪なのだろうか。
「彼女に手を上げて、アザだらけにしたことについては?」
「それも何も言えないので、事務所を通してください」
「心当たりはありますか?」
「それも何も言えないので…ごめんなさい」
大澤の返事は変わらない。
「わかりました」
これ以上なにか聞いても答えは同じだろうと判断した敏雄は、そこで取材を切り上げることにした。
「ありがとうございます、お疲れ様です」
こんな状況で、なぜ感謝の言葉など吐き出すのか。
大澤はひとまず安心といったような顔をして、軽くお辞儀をした。
「ええ、失礼します」
敏雄が引き下がると、大澤は杉の木みたいに長く伸びた脚をせかせかと交互に動かして、逃げるようにその場を去って行った。
──みっともねえ背中だな
大澤が着ているダークグレーの厚手のロングコートが、風に煽られて柳のように揺れる。
敏雄は侮蔑と諦めを含んだ眼差しで、その様子を見つめていた。
──最近、こんなヤツばっかだ…
こんな反応をするのは、大澤に限ったことではない。
しかし、何度もこんな経験をすると、虚しい気持ちばかりが芽生えてくる。
後日、大澤の所属事務所が本人に確認したところ、事実であったということを述べた。
その上で、相手の女への謝罪文と、大澤との契約を解除した旨も発信した。
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