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誘いを受けて

A市女子中学生いじめ自殺事件後の保護者会の取材から、1週間が経った。 「あ…あの、伊達さん!」 その日の全ての仕事を終えて帰ろうとした瞬間に、溌溂とした声で名前を呼ばれて、敏雄は振り返った。 青葉だった。 「どうした?また横居に何か言われたのか?」 だとしたら、一度は横居に釘を刺しておくべきだろうと敏雄は思った。 社内でトラブルを起こされてはかなわない。 ──まったく、横居のアホが! あまりに慎みのない最近の横居の態度に、敏雄は辟易しはじめていた。 横居は過去に何度か、議員や大企業幹部のパワハラ騒ぎを記事にして、茶の間の話題を掻っ攫ったことがある。 そんな横居が下の立場の人間に、「彼にパワハラされました」と告発されるようなことがあれば、とんだお笑い種ではないか。 「違います。横居さんとはもう、ほとんど関わってませんから。向こうもぼくのこと避けてる節ありますし…」 「じゃあ、なんだよ?」 ひょっとして、他の記者に意地悪されたのだろうか。 青葉にろくでもない意地悪をしそうな輩が、この社内には山といる。 青葉は変なところで聞かん気が強いらしく、そのことが原因で煙たがられているらしかった。 その点においては青葉にも問題があるのだろうが、だからといって横居がやっているようなことを見過ごすのだって充分に問題であろう。 それでは、いじめを見て見ぬフリする教師と何ら変わらない。 この時点で、しっかり対処する必要があると判断して、敏雄は青葉の返事を待った。 さて、横居でないとしたら誰の名前が上げられるのかと敏雄は身構えたが、返ってきたのは意外な言葉だった。 「あの……伊達さん。差し支えなければ、一度だけでもいいんで、一緒に飲みに行ってくれませんか?日時と場所は、そちらに合わせますから」 「……別にいいけど」 横居への怒りではらわたが煮えくりかえっていたところ、思わぬ肩透かしを食らってしまった敏雄はキョトンとした。 「よく横居さんと飲んでますよね?いつもどこ行ってるんですか?」 そんな敏雄に構わず、青葉はさらに尋ねてくる。 「この近くの居酒屋だけど」 「じゃあ、場所はそこでいいですか?」 「俺はいいけど。お前はいいのか?」 敏雄は念のために聞いてみた。 あの居酒屋は敏雄のお気に入りだが、若者が好むような洒落た仕様ではないし、混み合ってくると、仕事帰りのサラリーマンや学生の騒ぐ声がとにかくうるさい。 「いいんです。ちょっと話したいなと思ってるだけなんで。伊達さんがよかったら、仕事についてのアドバイスとか欲しいです」 なるほど、そういうことか。 青葉に声をかけたのは、あくまでトラブル回避のためと、いつまでも目の前で落ち込まれるのが鬱陶しかったからだが、それを青葉は「気にかけてくれている」だとか「この人なら相談に乗ってくれそう」と判断したのかもしれない。 「なんなら、今から行くか?」 横居は今日、音楽プロデューサーの不倫疑惑について調べるため、張り込みに出払っている。 敏雄も今夜は特に用など無いし、青葉と空いた日が重なる日を、今後いつ設けられるかはわからない。 だから、今すぐ行ったほうが都合が良いのだ。 「空いてます!」 唐突な誘いにもかかわらず、青葉は嬉しそうに即答した。 「じゃあ、行くか」 いつまでもクヨクヨと悩まれるより、多少なりともやる気になってくれた方がありがたいから、敏雄は青葉の誘いに乗ることにした。  「いいところですねえ」 店に入ってすぐ、敏雄と青葉は店員にカウンター席に案内され、そのまま椅子に座ると、青葉は店内をキョロキョロ見回した。 「そうかあ?」 この店は安価で、それなり味もいいから敏雄は気に入ってはいるが、どこにでもあるような大衆向けの居酒屋だ。 そばのテーブル席では学生グループが騒ぎ立てているし、店内の床は油だとか靴の跡でところどころが汚れている上、店全体はそんなに広くはない。 そんなだから、青葉がこの居酒屋のどこを「いいところ」だと述べているのか、敏雄は理解しかねた。 「それで、話したいことって何だ?」 言いながら敏雄はメニューを手に取った。 腹に結構な空きがあるが、後で胃もたれする可能性を考えると、あまり油っこいものを大量に食べることはできない。 「ちゃんと売り物になるような写真が撮れるにはどうしたらいいか、どんな写真が記者さんたちに受け入れられるか、それが知りたいんです」 わいわい騒ぎ立てる他の客や、せわしなく動き回る店員には目もくれず、青葉はまっすぐに敏雄を見た。 「微妙だなあ…俺は創作に真剣に向き合うアーティストとやらは撮ったこと無いぞ」 敏雄は横居から聞いた青葉の言葉を思い出した。 「ぼく、もうそれはいいんです。今は、スクープ写真を撮ることに集中しようと思ってますんで」 どういう心境の変化であろうか。 それはわからないにしても、やる気にはなっているなら、何らかのアドバイスをよこした方がいいかと敏雄は考えた。 「そうか。うん、わかった。俺なりに助言はするよ。ただまあ、あんまり役には立たないかもしれないぞ」 取材方法は記者によって異なるし、カメラマンと記者では勝手も違ってくるから、敏雄はそう念を押しておいた。 「別にいいです。あくまで、伊達さんの意見を聞きたいだけなので」 言うと青葉は、運ばれてきたお冷やを一口飲んだ。 「そうか。あー、まあ、言うことがあるとするなら、今のお前にできることは、片っ端からいろんな人と会って、その人たちに名刺配りでもすることだな」 「名刺配り…?」 青葉がトンと軽く音を立てて、お冷やが入ったグラスをテーブルに置く。 「そうだ、まずは地道に名前を売るところから。 俺の場合は、記者がたくさんいそうな現場に毎日のように行って、通りすがりに声かけまくってたんだ。俺が新人だった当時は、新興宗教の教祖さまや幹部たちがしょっちゅうメディアを騒がせてた時期だった。だから、そのときはよくM駅に行ってたな」 「M駅に?どうしてですか?」 青葉がキョトンとした顔で敏雄を見つめる。 どうにも「某新興宗教団体」と「M駅」が結びつかないらしい。 「そこには、その宗教団体の総本部があったんだ。で、そこにたむろしてる記者に片っ端から声かけて、名刺交換してもらってたよ」 「そんなことして、ちゃんと応えてくれるんですか?」 「ぜんぜん!」 敏雄は首を振った。 「ですよね?」 「まあ、向こうから見たら完全に不審者だよな、今にして思えば。会う人ごとに「時間がありましたら、お茶でもいかがですか」って言うんだけど、ほとんどの人にうるさがられたよ。こっちから連絡取ったら、「なんだ、お前かよ」の一言で突っぱねられて終わりだ。でも、たまーに話聞いてくれる人がいて、その人が情報くれるんだ。で、その人とメシ食ったり、その人を経由して別の人と知り合って、また情報もらって…それの繰り返しだったな」 若手記者だった頃を思い出して、敏雄は少しばかり懐かしい感慨に耽った。

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