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いやらしいイタズラ
「そんなもんですか?」
青葉が怪訝な顔をする。
「そんなもんだよ。そうしてるうちに、たとえば新聞記者からは新聞では書けないようなネタ貰ったり、それを編集部にかけ合って独自ネタを増やしていくんだ」
敏雄がそう説明しても、青葉の顔はどこか訝しげだ。
未だにピンとこないらしい。
「お前、今のところに来る前は、音楽雑誌の編集部にいたらしいな」
「そうですけど…」
青葉は「それが何なのか」という視線を敏雄に向けた。
「じゃあ、知ってるだろ?アーティストだって最初から売れてるヤツなんかほとんどいないし、いたとしても数えるくらいだ。最初からスクープ掴める記者はいないし、決定的な写真撮れるカメラマンなんかいねえ。みーんなそういう細かいことからチマチマやって、やっとありついた仕事で成果出して、それで周りに認めてもらうんだ。俺だって、最初のうちは小さい記事のアシスタントばっかりだったよ」
「そうですか…」
「お前さ、いま「ムダな仕事してる」「こんな仕事、自分には向いてない」って憂鬱になってんじゃねえか?」
青葉が唇をもごもご動かして、押し黙った。
図星だったようだ。
「なあ、ムダな仕事なんかねえよ。若いうちは、自分の適性とかあまり考えずに、目の前の仕事をガムシャラにやるこった。そしたら、本当にやりたい仕事や向いてる仕事がわかってくる」
そうは言ったものの、青葉はどこか納得いかないような様子でいた。
「まあ、俺の場合はそうだったんだよ。それでも目の前の仕事を頑張ってやってみても、腑に落ちないことがあるなら、思い切って一から別の仕事してもいいと思うぜ」
敏雄はとってつけたように言った。
青葉の気持ちは少しわかる。
自分だって若い頃は、中年の上司に「俺の若い頃は」「最近の若いモンは」なとど説教されるのは不愉快極まりなかった。
だのに、冷静になって考えてみると、今の自分がやっていることは、彼らと変わらない気もした。
飲みに誘ったのも助言を求めたのも、青葉の方からとはいえ、少々上から目線過ぎたかもしれない。
「あー…よかったらさ、今度、名刺を安く作ってくれるところを紹介してやる。専属の記者やカメラマンは経費扱いだけど、契約カメラマンは自費なんだろ?あ、そうだ。お前は何頼む?腹減ってねえか?」
敏雄はなるだけ気遣うような口ぶりで青葉に話しかけながら、メニューを渡した。
「あ…ありがとうございます。そうですね、うーん。まずは飲み放題を頼んで、若鶏の唐揚げと焼き餃子、あと、焼き鳥の盛り合わせにします」
敏雄の言いたいことは多少なりとも伝わったらしい。
青葉は大して迷うことなく、食べたいものを決めていく。
「そうか」
メニューの選択が若いな、と敏雄は思った。
今の自分がそんなものを食べたら、きっと胃もたれしてしまう。
「あの、伊達さんが追いかけてるいじめ事件、記事を読みました」
話が進んでしばらく経ったとき、青葉が突然切り出した。
「そうか。そりゃ、ありがとう」
「ぼく、記事を読んで、この事件にすごく興味を持ちました。だから、あの…一緒に取材したいんですけど、いいですか?」
予想外の申し出だった。
敏雄がいま追っている事件に、関心を抱く者は多い。
何せ世間からの注目度が高く、編集長には未だ記事の続投を求められている。
しかし、これに青葉が興味を持って同行を求めてくるとは思わなかった。
ひょっとしたら、わざわざ敏雄を飲みに誘ったのは、最初からこれが目的だったのかもしれない。
「俺はいいぞ。でも、まずは編集長からオーケーもらわないとな。編集部員にも話をつけておかないと始まらないぞ」
「わかりました!」
敏雄が了承すると、青葉は嬉しそうに笑った。
「今日は奢ってやる。編集部にオーケーもらったらの話だけど、これから忙しくなるぞ。
そうなったらゆっくりメシも食えなくなるから、遠慮せずに、今のうちに好きなものを好きなだけ食っておけ」
「ありがとうございます!」
さっきまでの薄暗くて怪訝な様子が嘘のように、青葉は元気よく笑顔で礼を言った。
話しているうちに料理が運ばれてきて、青葉も敏雄も結構に飲んだ。
これがいけなかった。
ひとしきり飲んで店を出た後、敏雄は酔って潰れた青葉を家に連れて行くハメになった。
青葉は下戸というわけではないが、酒豪というわけでもないらしかった。
だのにハイペースで酒を飲み続けて、自力で立ち上がれないくらいに泥酔してしまったのだ。
酔って自分に寄りかかる青葉の体の、なんと重いこと。
中肉中背で大した腕力もない敏雄が、180センチを優に超えている青葉を自分の部屋に連れて行くのは一苦労だった。
「ったく!ああも無鉄砲に飲むヤツがあるか!」
敏雄は青葉のバカに大きな体を、玄関の廊下に投げ捨てるように置いた。
ゴンっと結構に鈍い音がしたが、玄関マットの上だし、大したケガはしないだろうと踏んで、そのままにした。
何より敏雄だって肩が凝ったし、腰も痛いのだ。
「すいひゃせん…」
ふにゃふにゃ笑いながら、青葉が意味の無い謝罪を述べた。
「あー、くそッ、腰いってえ…」
敏雄は廊下を歩いてリビングまで向かうと、ラックの引き出しから湿布を取り出した。
歳のせいか肩がろくに回らないから、患部に湿布を貼るのも一苦労だ。
「だてさん…」
廊下で寝ていた青葉がふらふらとリビングまでやってきて、ろくに呂律が回っていない舌で名前を呼んできた。
「おいこら、酔ってるなら歩くな」
敏雄は出しっぱなしにしていたラックの引き出しを中に入れると、そばの2人掛けソファに座った。
「酔ってませえん」
言いながら青葉が近寄ってきて、敏雄の隣に座った。
「酔ってるヤツはみんなそう言うんだよ」
「ふふふ」
青葉は敏雄の反論にまともに答えず、どうしたわけか敏雄に抱きついてきた。
本当に重たい。
自分の体の大きさを理解できていない大型犬に、じゃれつかれた気分だ。
「おい、離れろ!」
「へへ…」
敏雄の抵抗もどこ吹く風で、青葉はヘラヘラ笑いながら敏雄の平たい胸にグリグリと頭を押し当ててきた。
──横居もこんなカンジだったな
敏雄は、7年前に横居をホテルまで引きずっていった夜のことを思い出した。
もっとも、横居の場合は元気がなくて、もう少し落ち込んでいたのだけど。
「伊達さん…」
青葉がしがみついていた腕をほどくと、背筋をまっすぐに伸ばして、敏雄と目を合わせた。
青葉の目はまだトロンとしていて焦点が定まっていないが、呂律が回ってきたのを見るに、ほんのり酔いが覚めてきたらしい。
「ん?」
どうせ、この後はすぐに寝てしまうのだろうと考えていた敏雄は、大雑把な生返事をした。
「好きです、付き合ってください」
突然、青葉の目の焦点がしっかり合ったかと思うと、急に告白された。
わけがわからない。
「は?」
「好きです、付き合ってください」
予想外の言葉に唖然とする敏雄を置き去りにするように、青葉はまた同じ言葉を繰り返した。
──相当酔ってるな、コイツ…
「そうかそうか、わかったわかった。ちょっと待てよ」
ちょっとしたイタズラ心が芽生えた敏雄は、ソファから立ち上がると、テーブルに置きっぱなしにしていたレコーダーを手に取り、スイッチを入れた。
──ちょっと遊んでやるか
「聞こえなかったから、もう1回言ってくれ」
敏雄はソファに座り直して、レコーダーをかまえた。
「好きです、付き合ってください」
隣に座った青葉が繰り返す。
「そうか。じゃあ俺にキスしてくれよ、青葉」
言ってから敏雄は、吹き出してしまいそうになった。
どうせやらないだろうし、やったとしても明日には忘れてしまうだろう。
「…はい」
青葉が敏雄の方へ擦り寄ってきたかと思うと、ゆっくりと頭を敏雄の膝に落とした。
瞬間に、すうすうと深い寝息が聞こえてくる。
──このタイミングで電池切れかよ!
あまりにバカバカしい青葉の様子に、敏雄は肩を震わせて笑いを堪えた。
それから、レコーダーを口元へ近づけると、唾液を絡ませてちゅっ、ちゅっと音を立てた。
──明日はこれを聞かせてやるか、反応が楽しみだな
レコーダーのスイッチを切ると、敏雄は自分膝を枕にして寝ている青葉を引き剥がしてソファに放置し、寝室に向かった。
こんなもの、酒が入った上司が、酒が入った部下に働いたくだらないイタズラでしかないのだけど、ここから2人の関係が進展していくのは、また別の話である。
「あいたた…」
鈍い頭の痛みに起こされた青葉は、額を押さえた。
目を開けると、見たことのない景色が広がっている。
──ここ、どこだ?
昨日はたしか、上司の記者と職場近くの居酒屋に行って、カウンター席に座って、そこからいろいろと話し込んでいたはずだ。
それなのに、どうして知らない家のソファに寝転がっているのか。
──確か、伊達さんに一緒に事件を追いたいって頼んで、了承してもらって、えーっと、それから…
青葉は、昨日の記憶を探り出していこうとした。
「よお、青葉」
「あ、伊達さん…」
声のした方へ目を向けると、Tシャツにスウェット姿の上司が立っていた。
いつもはしっかり撫でつけられている髪が、額に垂れ下がっている。
会社にいるときにしか会ったことがないから、青葉にはその姿が新鮮に感じられた。
「昨日は激しかったなあ、ダーリン?」
敏雄がニタニタと笑った。
歯を見せてイタズラっぽく笑うその様は、不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫を彷彿とさせる。
この上司に対して「真面目でしっかり者」という印象を持っていた青葉は、この人もこんなふうに笑うことがあるのか、と意外に思った。
案外、プライベートではくだけた人なのかもしれない。
「何のことです?」
それにつけても、上司の言っていることがわからない。
彼が言う「激しかった」とはどういうことだろう。
なんだって自分は「ダーリン」などと呼ばれたのか。
「おいおい、しらばってくれる気かあ?昨日はあれだけ情熱的に迫ってくれたのに、アレはウソだったのか?」
言うと敏雄が、そばのテーブルに置いてあったレコーダーを手に取って、スイッチを入れた。
『聞こえなかったから、もう1回言ってくれ』
レコーダーから、敏雄の声が聞こえてくる。
『好きです、付き合ってください』
聞いてから青葉は青ざめた。
これは、間違いなく自分の声だ。
ここで青葉は初めて、自分が何をしたか理解した。
酒の勢いにまかせて、ろくでもないことをしてしまった。
それに対して、敏雄は何と言ったのだろうか。
青葉が気になったのはそこだった。
『そうか。じゃあ俺にキスしてくれよ、青葉』
『はい…』
自分が返事する声がはっきり聞こえてくる。
それ以前に、この上司もなぜこんな懇願をしてくるのか。
しかし、そんな疑問は一瞬で吹き飛んだ。
レコーダーからはっきりと、ちゅっちゅっという唾液が絡まる音が聞こえてきた。
「え…?」
青葉が呆けているうちに、レコーダーのスイッチが切られた。
「この後は撮れてなかったんだよ。何せお前ときたら激しくてなあ。俺からレコーダーブン取った後…あんなことするとは思わなかったぞ。俺は腰がくだけるかと……」
敏雄はそれ以上、何も言わなかった。
この後、自分はいったい何をしたのか。
「腰がくだける」「激しかった」「ダーリン」などという言葉から察せられることは、ただひとつだ。
レコーダーから流れてきた音声と、目の前にいる敏雄の言動から、昨夜の自分が何をしたのか。
青葉はようやく気づいてしまった。
「あ、あの…すみません、ぼく…」
何と言えばいいのかもわからない。
あたふたしているうち、敏雄が片手で顔を覆って肩を振るわせた。
その手の下で、敏雄がどんな顔をしているのかわからない。
「くくっ…はっはっは!青葉、これはフェイクだよ」
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