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朝食
「え?」
青葉が鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「あははははは!」
──あー、どうしよう、笑いが止まらない!
青葉があまりに呆けた顔をするから、敏雄は大声を出して笑ってしまった。
「あ、あの、伊達さん?」
「はっはっは!あー…すまんすまん。ダマして悪かった。お前、俺のこと好きだって言った後、ソファで寝こけちまったんだよ。本当はキスなんかしてないんだ。ついでに言うと、この後は特に何にもなかったぞ」
敏雄は口内で唾液を絡ませて、ちゅっと音を立てた。
キスしたときのリップ音を偽装するために出した音だ。
「え?」
青葉が赤面した。
「お前、酔った勢いでこんな冗談言うなんて、案外酒グセが悪いんだなあ!」
戸惑う青葉などお構いなしに、敏雄はその場で腹を抱えて笑った。
「冗談…」
青葉は聞こえないくらい小さな声で、ボソリと呟いた。
「そこ座っててくれ、朝メシ出してやるから、食べていけよ」
ひとしきり笑った後、敏雄はテーブルにレコーダーを置くと、洗面所に向かって顔を洗い、洗面台横の棚からワックスを取り出すと、慣れた手つきで髪を撫でつけた。
それが終わると、キッチンの戸棚からミニクロワッサンが10個入った袋を、冷蔵庫からはヨーグルトを取り出した。
「青葉、コーヒー飲むか?紅茶がいいか?煎茶とか牛乳もあるけど」
敏雄は、言われた通りにソファに座っている青葉に呼びかけた。
「コーヒーで…」
「わかった」
ヨーグルトとスプーン、皿に開けたクロワッサンに、2つのカップに入ったコーヒー。
それら全てトレーに乗せると、テーブルまで運んでやった。
「ほら、食え」
「…ありがとうございます」
青葉がおずおずと、ヨーグルトが入ったカップを手に取った。
その様子は、どこか気遣わしげだ。
無理もないことだ。
泥酔して、迷惑をかけた上司の家で一晩中ずっと寝こけた後で迎える朝食など、とても気軽に摂れるものではない。
「砂糖とミルク置いとくぞ。好きに入れるといい」
そんな青葉を気遣って、敏雄はできるだけ優しげに話しかけた。
キッチンから砂糖とミルクを引っ張り出し、青葉の目の前に置くと、青葉はペコリと会釈して、砂糖とミルクをコーヒーカップに入れた。
どうやら青葉はずいぶんな甘党のようで、あんまりな量を入れるものだから、持ってきた砂糖のミルクの大半は消化されてしまった。
「食べ終わったら、すぐに支度しろよ。ブラシ貸してやるから、まずは髪を梳かせ。お前、頭ぐしゃぐしゃだぞ」
敏雄は青葉の隣に腰掛けると、自分の頭を指さした。
「あ…ふぁい!」
噛み砕いたクロワッサンで口内をいっぱいにした青葉が、口に手を当てて間抜けな返事をした。
その様子に笑ってしまうのを堪えながら、敏雄もコーヒーを飲んだ。
敏雄が「遠慮なく食え」と言うと、昨夜あれだけ食べたというのに、青葉はクロワッサンもヨーグルトもペロリと平らげて、追加で出したロールケーキもあっという間に胃袋に収めてしまった。
──いい食べっぷりだな
敏雄のような中年にとって、若者がたくさん食べている姿はとても微笑ましい。
クロワッサンをつまみながら、敏雄は青葉が食べている様子をじっくり楽しく眺めていた。
あわただしい朝食を終えると、2人は髪と服を整えて、マンションを出た。
「送ってやるから、お前は助手席に乗れ」
駐車場に着くと、敏雄は所持しているライトバンのロックを解除した。
「はい!」
青葉が元気よく返事すると、助手席に乗り込む。
──さて、出社したらまずは、編集部に行かねえとな、
青葉を助手席に乗せ、今日の予定を頭の中で組みながら、敏雄はライトバンを発進させた。
「失礼します」
敏雄は出社すると早速、「編集部」と書かれたプレートが下がったドアをノックした。
敏雄たちが務める週刊文士には、「編集部」と呼ばれる部署がある。
記者やカメラマンが集めたスクープ、グラビアや小説コラムなどの編集は彼らの仕事である。
どんなネタを本誌に掲載するかを決めるのも彼らであり、まず編集長を交えて会議を行い、記者やカメラマンが持ってきたネタを吟味し、ページ配分やレイアウトを決定する。
記者やカメラマンは最低でも5本のネタを持ってくるのが義務とされており、それは敏雄も例外ではない。
敏雄は数ヶ月に、前回のミュージカル俳優の一件と、現在も取材し続けているA市のいじめ自殺事件と、ほか3件も持ってきていた。
3件はボツになったが、A市のいじめ自殺事件は続報や追撃取材も求められており、ほかのメディアも注目するようになった。
今回のいじめ自殺事件の場合、報道する前ならひとりでも事足りたし、ほかの雑誌や新聞社の記者に情報を横取りされる心配もなく、心ゆくまで取材できた。
しかし、ほかのメディアが注目して、こぞって取り上げ始めたとなると、新しい情報を得るのも難しくなってくる。
とてもひとりで処理しきれるものではない。
アシスタントとなってくれる記者かカメラマンが欲しかったところだから、青葉からの申し出は、敏雄にとって大きな僥倖であった。
「おはようございます、編集長はいらっしゃいますか?」
ドアを開けて編集部室に入ると、敏雄は辺りを見回して、編集長を探した。
「ああ、伊達さん。ここにいるよ」
編集長の新谷 が、自分のデスクから立ち上がって、敏雄の方へ歩み寄ってくる。
「どうした?何が問題が起きたのか?」
新谷が訝しげに聞いてくる。
「いえ、ちょっとした希望がありまして…」
敏雄は首を横に振った。
「希望?」
「今後の取材は、青葉春也をアシスタントにつけたいんですが構いませんか?
青葉は若手ですし、こういう現場は初めてですが、伸びしろは充分にありますし、なにより本人が強く希望しています。
私との現場への同行をお願いできませんか?」
「ああ、そんなことか。もちろん許可しよう。前々から、彼にはスクープのチャンスを与えるべきと思っていたから、ちょうど良かったよ」
新谷は納得したような顔で、敏雄の懇願を聞き入れてくれた。
週刊文士には、実績あるエース記者やエースカメラマンもいれば、伸び盛りの若手もいる。
大スクープだからといってエース記者にばかり頼っていると、新米にはいつまでもチャンスが巡ってこない。
そうならないために、新米にチャンスを与える機会を考えるのも、編集部の役割なのだ。
こういう場合、若手はエース記者のアシスタントを任されることが多く、そこから場数を踏んでいく。
今となっては単独で動くことが多い横居も、かつては誰かのアシスタントに回ることが多かった。
「あー、それとだね、今回のこととはまったく関係ない話なんだが…横居くんのことで、ちょっと…」
「なんです?」
──横居め、今度は何やらかしやがった?
青葉への当たりがナリを潜めたかと思った矢先に、またトラブルを起こしたのかと敏雄は辟易した。
「取材のやり口が乱暴過ぎる。彼はそれなり大きなネタを持ってくるから、今までは大目に見ておいたが、最近は特にひどい。
君は彼と親交が深いだろう?君から釘をさしておいてくれないか?それでもまだ目に余るようなら、わたしからも注意することにしよう」
「ええ、わかりました。注意しておきます」
敏雄は編集長に一礼すると、編集部室を出て行った。
「青葉、許可が下りたぞ」
編集部室から離れた廊下で待たせていた青葉、敏雄は結果を報告した。
「ほんとですか!」
青葉の顔がパッと華やぐ。
「ああ、さっそくだけど、アポ取ってる人がいてな、その人と応接室で会う約束してるんだ。
それが終わるまで、集めた資料や記事を確認しておいてくれ。これに入ってるから」
敏雄は持っていたUSBメモリを青葉に渡した。
「はい!」
青葉は元気よく返事すると、自分のデスクへ向かった。
──青葉、いい顔してきたな
若手に意欲的な様子を見せられると、敏雄自身もやる気になれる。
青葉のやる気に報いるためにも、自分がしっかりしなくては。
そう思うと、いつしか横居に対する怒りも消え失せていた。
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