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A市女子中学生いじめ自殺事件 後日
後日、A市の中学校の保護者会に参加していたひとりの男が、「保護者会の一部始終を録音していたから、聞いて欲しい」と連絡してきた。
少しでも情報が欲しかった敏雄は、これ幸いと2つ返事で了承し、その保護者の男に社内の応接間に来てもらう形で、面会する約束を取り付けた。
『今回の報道がなかったら、誰も何もしないつもりでいたんですか⁈』
『担任の先生はどうしていらっしゃらないんですか⁉︎』
『報道はすべて事実なんですか?過剰なんですか⁉︎』
『担任の先生は変わらないんですか?いじめにまともに対処しなかった先生に、子どもは何を相談するんです?』
『先生がた、わたしは自分の子どもたちに、「おかあさん、わたし、どうしたらいい?」と泣いて聞かれて、返答に困りました』
持ちこまれたボイスレコーダーからは、悲痛な保護者たちの訴えが聞こえてくる。
抗議の声を上げている保護者の誰ひとり、冷静を保っている者はいないであろうことが、手に取るようにわかった。
ある者は嗚咽混じりであったり、ある者は怒気を孕んだ声で校長に詰問し続けている。
そんな保護者たちとは裏腹に、校長は自信なさげに「第三者委員会により調査中です」「検討します」と曖昧にしか答えない。
この上で、亡くなった被害者少女の担任だった教師は参加すらしていないという有り様であったそうだ。
学校側から言わせていただくと、「殺害予告が来たために、安全のため謹慎させた」という。
社内の応接間。
敏雄は情報提供者の男と、テーブルを挟んで向かい合って座っていた。
「報道よろしくお願いしますね。あの人たち、メディアが立ち入らなかったら、本当に何もしないんですから」
敏雄の向かいに座った男が、深々とお辞儀をする。
この男の声には聞き覚えがあった。
保護者会の取材に向かったときに聞いた、「先生がたは何もわかってない、なぜ黙祷のひとつもしないのか」という怒鳴り声だ。
あの声の主は、この男だったのだ。
「ええ、わかっています。お忙しい中、わざわざこちらまで赴いてくださって、ありがとうございます。神木 さん」
敏雄も保護者の男──神木に倣うように頭を下げた。
それこそ、神木の協力には心から感謝していた。
自分が駆けずり回って調べたからこそわかる事実はあるものの、事件において、記者はあくまで部外者でしかない。
結局は、こうして自分たちを信頼してくれる情報提供者の協力もあって、初めて記事は完全するのだ。
「いえ、とんでもない。お礼を言いたいのはこちらのほうですよ。
あなたがたに報道されることがなかったら、会見だって保護者会だって、開かれることはなかったんだから。
本当に、本当にありがとうございます!」
神木がまた、深々と頭を下げる。
神木の歳の頃は、敏雄と同じくらいかちょっと歳上かくらい。
身長はざっと見て165センチから170センチほど。
肩や胸が厚く、俗にレスラー体型と呼ばれるような、ずっしりとした体格をしている。
黒々とした髪を短く刈っていて、わずかにシワのある顔には脂が浮き上がり、それが蛍光灯の光を浴びてテラテラと反射していた。
一見どこにでもいそうな、うっかり屋気味のお父さんといった印象を与える一方、樹齢千年はくだらない御神木がごとく、どっしりとした威圧感があった。
本人によれば、神木には娘が2人いて、どちらも被害者少女が通っていた中学校に、今も在校しているとのことだった。
娘はそれぞれ上の子が2年生、下の子が1年生だという。
我が子が通っている中学校でいじめが起きて死者まで出たというのに、学校側はろくに動かないばかりか隠蔽しようとする。
あまつさえ、亡くなった被害者少女は我が子と同じ年頃とあっては、心穏やかではいられなかったのだろう。
「あの、伊達さん。大事なことですから、これだけはちゃんと守ってください」
神木が頭を上げた。
「何でしょうか?」
「もし、私がこんなことをしたばっかりに、被害者の女の子のご遺族に累がおよぶことがあれば、私の名前と連絡先を伝えてください」
神木がポケットからサイフを取り出した。
そして、そのサイフから小さなメモ用紙を取り出して、敏雄に渡してきた。
受け取ったメモ用紙を広げてみると、「神木矜持」という彼のフルネームと、電話番号が書いてあった。
「矜持」はおそらく、「きょうじ」と読むのだろう。
「神木さん、そんなことをしていただかなくても結構です。何があっても、個人情報は必ず守りますから」
「そういうわけにはいきません。僕はね、この事件に覚悟を持って向き合うつもりです。
自分だけ安全なところにいて学校を批判するなんて、そんなみっともないマネは絶対にしたくありません。お前はどこの誰だ、名前を名乗れと言われたら、ちゃんと名乗るつもりでいるんです」
「そうですか、わかりました」
敏雄はメモ用紙をズボンのポケットに入れた。
こうしないと、神木は聞き入れないだろうと判断したからだ。
そんな判断を下すくらいに、敏雄を見つめる神木の目は、真剣そのものだった。
もっとも敏雄は、この先で何が起こっても誰にもどこにも神木の名前を出すつもりはない。
情報提供者同士でのトラブルは避けたかったし、彼の覚悟に敬意を払いたい気持ちもあったからだ。
「では、失礼します」
神木はまた一礼すると、ゆっくりと立ち上がった。
「ええ、お気をつけて」
敏雄もそれに続くように立ち上がると、応接間のドアを開けた。
「ありがとうございます」
ドアを開けた敏雄に礼を言って、神木は廊下に出た。
そして、軽く会釈すると、神木は去っていった。
出口に向かって廊下を歩いていく神木の背中を、敏雄はいつか見たミュージカル俳優の背中と比べた。
女に手を上げて堕胎を強要した挙げ句、それを追及されれば逃げ回るような、みっともない優男とはまるで違う。
自らの信じる正義のため、顔を合わせたこともない少女の尊厳のため、ここにやってきたひとりの父親の、ひとりの男のたくましさが嫌でも伝わってくる。
敏雄はふと、さっき渡されたメモ用紙をポケットから取り出して、彼の名前を視線でなぞるように読んでみた。
この「矜持」という言葉には、自信だとか誇りだとか、プライドという意味がある。
──名は体を表すって、こういうことなのかもな…
敏雄は神木の威厳と覚悟に圧倒される想いでいた一方で、どこか懐かしさを感じてもいた。
──もう少し話したかったな…
神木の威厳は敏雄にそんな感情を抱かせたし、彼の怖いくらいに真剣な眼差しは、しばらくの間、敏雄の脳裏に焼きついて、なかなか離れていかなかった。
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