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横居の本心

「お邪魔します」 青葉は、横居の存在をしっかり視野に入れた上で、はっきり聞こえるほどの声量で挨拶した。 横居は、青葉のほうへ視線を向けはしたものの、すぐに目をふせて俯いてしまった。 そのあまりの落ち込み様に、さすがの青葉も突っかかる気はなくなったらしい。 いかんせん、今の横居は覇気がなさすぎる。 いつも好戦的でギラギラ光っていた瞳は、いまはすっかり淀んでしまって、焦点が定まっていない。 顔は死が差し迫った病人のように青白いし、顎には剃り残しの髭がポツポツ生えていて、目の下には青黒いクマ。 いつもワックスやスプレーを使って遊ばせていた髪は、シャワーを浴びたせいでへたって、額やこめかみに張り付いていた。 ──落ち武者みてえ… それが、今の青葉の感想だった。 目の前に座っているこの男は、本当にあの横居なのだろうか、と思った。 いつも自信たっぷりで、元気にイヤミを言っていた、あの横居なのだろうか。 なんと声をかければいいのか、それとも、いないものだと思って扱えばいいのか、青葉はわかりかねた。 どうしたらいいのかわからず、立ち尽くす青葉をよそに、敏雄が横居の隣に座った。 「横居、おかわりは要るか?コーヒーとかのがいいか?」 風邪をひいた子どもを相手にするかのように、敏雄が横居に問いかける。 「…いいです」 横居が返答する。 ようやく絞り出したのであろうその声は、少しかすれていた。 「青葉、テキトーなところ座れよ」 「はい…」 言われて青葉は、カーペットが敷かれた床に直接座り込んだ。 ソファは2人が使っているし、自分はいまは部外者も同然。 この様子では、横居は帰る様子も無い。 どうしたものだろうか。 「…横居さん、大丈夫ですか?」 ようやく出せた言葉がそれだった。 しかし、横居は何も答えない。 わざと無視しているのか、何も答えられないくらいに精神がまいってしまっているのか。 あるいは、その両方だろうか。 それさえも、青葉には判断しかねた。 「横居、大丈夫か?もう雨は止んでるし、服も乾いてるから。気をつけて帰るんだぞ」 「まだ…ここにいたいです」 横居が、敏雄にしがみついてくる。 「しょうがねえな。春也、悪いけど…」 「待ちますよ」 敏雄が言い終わらないうちに、青葉は答えた。 さすがに「帰る」とは言わない。 あくまで恋人は自分なのだし、その自分たちの仲を邪魔しているのは横居の方なのだ。 こうも落ち込んでいたら、気の毒だとは思うが、早く帰って欲しいという気持ちも生まれる。 「なあ春也、横居のこと、自業自得だって思うだろ?」 不満を抱く青葉に向かって突然、敏雄が切り出してきた。 「そりゃ、思いますけど…」 「今回のことは、俺のせいでもあるんだ」 「何故ですか?」 青葉は、敏雄の言っていることが理解できなかった。 「事件事故について取材するのはな、なかなか大変なことなんだ。心身ともに疲れるんだよ。事故現場は見てて気持ちのいいもんじゃないし、死人が出たとなると、いやでも泣いてる遺族にあれこれ聞くことになる。何よりキツいのが、反省も謝罪もしない加害者に向き合うときだな。キレそうになるのを堪えて仕事しなきゃなんねえから」 敏雄は、淡々と語り始めた。 敏雄の言わんとしていることはわかる。 つい最近、青葉も経験したことだから。 反省も謝罪も、お悔やみひとつ寄越さない加害者たちに、何度怒鳴りそうになったり、手を上げそうになったかなんて、自分でもわからない。 青葉がいままでの取材を思い出している最中、敏雄は話を続けた。 「横居が不倫だのパワハラだの、下世話なネタばっかり取り扱うようになったのは、俺のせいだ。嫌になるような事件や事故現場に散々行かせて、それで横居が精神的に病んでたのに気づかずにほったらかしてた。だから、今回ことも俺のせいだ。横居、今まで悪かったな。ぜんぜん気づけなくて…」 敏雄は横居の湿った体を抱きしめると、背中を撫でさすった。 「はい…」 横居は敏雄の胸に顔を埋めると、安心しきったように笑みを浮かべてみせた。 「なあ、もう帰れるか?なんなら、送ってやるぞ。まだここにいるか?」 言いながら敏雄が、横居の濡れた髪を撫でる。 その様子に青葉は、「恋人は自分なのに」と少しばかり嫉妬してしまう。 「帰ります。雨、もう止んでるんでしょう?」 横居は、敏雄の腕をゆっくり解くと、すっくと立ち上がった。 「ああ、さっき外を見たけど、止んでたよ」 「そうですか、じゃあ、もう失礼しますね」 「風邪をひくなよ」 「わかってます」 横居は自分の荷物を持つと、青葉に一瞥もくれずに脇を通り抜けていく。 そうしてしばらくすると、少し向こうで玄関ドアが閉まる音がして、そこからは何も聴こえてこなかった。 「横居さん、これからどうするんですかね?」 横居が去ったのを確認すると、青葉は敏雄の隣に座った。 「わからん。まあ、謹慎はまだ続くから、いまは仕事できねえわな」 「それにしても、横居さんのアレ。誰か止めようとは思わなかったんですかね?」 言うと青葉は、どさくさにまぎれて敏雄に寄りかかってきた。 「なあに、ほかの連中も横居に近いことしてるから、なかなか咎められないって事情があったんだよ。ったく、横居のこと責められる立場じゃねえよなあ」 甘えん坊な大型犬のようにのしかかる青葉の頭を撫でながら、敏雄は横居と会社全体の今後を考えた。 「敏雄さんが言えばよかったじゃないですか?あの人、敏雄さんの言うことなら聞きそうですけど」 「言ったよ。まあ、俺もそんな強くは言ってなかったけど」 「もう少しキツく言えばよかったんじゃないですか?そしたら、横居さんも加減を考えて、こんな騒ぎにもならなかったと思うし…」 「俺は、横居のことを強く言えないんだよ。若い頃の俺なんか、あんなのが可愛く思えるくらい好き放題だったから」 言って敏雄は、腕の傷跡をさすった。 「ねえ、聞いてもいいですか?その傷跡、何でできたんですか?」 青葉が、敏雄の腕の傷跡を指さす。 ずっと気になっていたのだ。 これはいったい、いつどこでどのようにできたものなのか。 「そんなの知って、どうするんだ?」 敏雄がふふ、と小さく笑った。 その笑みには、どこか自嘲的な雰囲気が漂う。 「恋人のことを知りたいって思うのは、普通のことじゃないですか?言いたくないなら、これ以上は何も聞きませんけど」 青葉が、真剣な眼差しで敏雄を見つめる。

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