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腕に走る傷

電話が切れてから、約10分後のこと。 廊下から、ドタバタ騒がしい足音が聞こえてきた。 足音はこちらにどんどん近づいてきて、終いにはオフィスのドアをバーン!と乱暴に開けて乗り込んできた。 その数、全員で11名。 先頭には南が立っていた。 ──弟子連れてくるヤツがあるか! 南ときたら、あれだけ啖呵を切っておいて、ひとりで来る度胸は無いのかと敏雄は呆れた。 一方で、何をしてくるかわからないので、警戒も怠らなかった。 それは石垣も益子も同じことで、2人ともオフィスの入り口付近に立つ11人を、身構えて見つめていた。 「邦子にケガをさせたのはどいつだ!?出てこい!!」 南は手に持っている雨傘で、そばの机の縁をバンバン叩いた。 オフィスの廊下に立ててあった雨傘を、わざわざ掴んできたらしい。 叫んだ口から吐き出される息が臭い。 おそらく、ここに来る前に結構な量の酒を飲んだのだろう。 南がこうも興奮しているのは、その酒の勢いも手伝っているのかもしれない。 「不倫してっから悪いんでしょうが。だいたい、40のオッサンが20歳そこそこの若い女と不倫なんて、恥ずかしくないんですかあ?」 石垣が、南を挑発した。 いっそのことわざと怒らせて、殴る蹴るしたところをカメラにおさめて記事にしてやろうとの魂胆だ。 「んだと、テメえ!」 南の後ろにいた弟子のひとり、小森(こもり)が、石垣の言葉に反応して怒り出す。 「落ち着け!」 南が腕を伸ばして、小森に待ったをかける。 こんなことができるあたり、酒こそ飲んでいるが、案外冷静なのかもしれない。 「でも…」 「飛びついたら、こいつらの思うツボだ!」 南が小森を諌める。 「はっはっは!大したお弟子さんですねえ?」 石垣がイヤミっぽく笑い出す。 「どういう意味だ!」 南が怒鳴った。 「そのままの意味ですよ」 石垣のイヤミっぽい笑みが、より濃くなる。 今にも大声をあげて笑いそうだ。 「コノヤロウ!」 怒った南が、一歩前に出てくる。 「お、やりますか?こちとら空手の経験あるんで!アンタらみたいな雑魚芸人ども、どうってことありませんからね?」 石垣が両手で握り拳を作って、顔の高さまで上げる。 「ぶち殺すぞ、この野郎!」 それに怒った南が怒鳴ったと同時に、10人いた弟子のひとり、グレート鈴木がそばにあった粉末消化器を噴射してきた。 大して広くはない社内が、一気に白い煙に包まれて、敏雄たちはゲホゲホと咳き込んだ。 煙で視界が完全に塞がれてしまって、ろくに身動きが取れない。 敏雄は煙から逃げようとしたが、すぐにその場でうずくまってしまった。 それでも、なんとか立ちあがろうとするが、その瞬間に、目の前を何がかすめた。 それが何であろうかと目を凝らしてよく見ると、卓上用のセロテープカッターだった。 視界が冴えていないのは向こうも同じなのに、どうしてピンポイントで自分のところへ投げられたのか。 飛んできた方向へ視線を移すと、少し離れた場所から、南と弟子の何名かが、その場にあったものを手当たり次第に投げつけていた。 どうやら偶然当たっただけのようで、敏雄を狙って当てたわけではないらしい。 そこからさらに離れた場所では、南のもうひとりの弟子の井口(いぐち)タカが、石垣を何発も殴打していた。 「クソッ!」 視界が霞む中、敏雄は何とか逃げ口を探そうともがいた。 その瞬間に、右腕の甲に鋭い痛みが走った。 何事かと自分の右腕を見てみると、そこの皮膚がぱっくりと割れて、血が流れ出ていた。 ハッとして顔を上げてみれば、目の前にはカッターナイフを片手に持った南が立っている。 「てめえ、コノヤロウ!」 南がもう一度、カッターナイフを振り上げる。 間一髪、なんとか避けたが、次はいつどこから、どうやってカッターの刃が飛んでくるかわからない。 視界がろくに機能しない中、敏雄は負傷した腕をかばいながら、おぼつかない足取りで南から逃げた。 ──警察はまだか?! 先ほど益子が通報したはずだから、もうそろそろ来てもいいはずなのに。 敏雄は頭がクラクラしてきた。 結構な量の出血をしたせいで、脳に酸素が行き渡らないせいかもしれない。 「おい、警察だ!動くな!!」 そばのデスクにもたれかかった途端、バタバタ騒がしい足音がして、開きっぱなしのドアから怒号が響く。 警察官が2名、ようやく到着したのだ。 その頃には煙も引いていて、視界もようやく機能し始めてきていた。 それに伴って、南と弟子たちも大人しくなる。 「南さん…?」 「え…」 駆けつけた警察官は、あからさまに動揺した。 益子が警察に何と言って通報したのかは、今でも不明だが、この反応を見るに、南の名前は出していなかったらしい。 それなら、彼らの驚愕にも納得がいく。 通報を受けて駆けつけてみれば、床には物が散乱しているわ、人が倒れているわ、部屋中に白い粉が散っているわの荒れ放題。 その中でケガ人が3人いて、その中央には誰もが知る大物タレントと、その弟子10人が立っている。 これが驚かずにいられようか。 「あ!おまわりさん!!」 そばで座り込んでいた益子がよろめきながら立ち上がると、詳しい事情を説明し始めた。 事の詳細をすべて聞いた警察官2人組みは、南やグレート鈴木、伊口タカをはじめとする弟子10人に、抵抗せず大人しくするようにと命令した。 このとき、益子が話したことすべてを、南は何ひとつ否定しなかった。 「そいつの言ってること、全部ホントだよ」 さっきまでの荒々しい様子がウソのように、南は淡々と話す。 「そうですか」 「それと、コイツらはオレに命令されてやったんだ。そこにいる2人はまだ19だ。未成年なんだよ。だから、お咎めはないだろ?」 南が、未成年メンバーの美豆島(みずしま)永島(ながしま)を、あごでしゃくった。 「リーダー!」 「そんな….」 かばうような態度を取る南に、美豆島と永島は、縋るように詰め寄る。 「それは後で決められることです。けれど、未成年なら、情状酌量の余地もありますから、いまは署までご同行願います。できますか?」 警察官の声に、異様な熱がこもる。 若い弟子を気づかう大物タレントに、胸を打たれたのかもしれない。 「わかってる。ほら、お前ら、おまわりさんの言うこときけよ」 「…はい」 10人の弟子たちは、南の言うとおりに警察官の指示に従い、大人しく連行されていった。 こうして警察官の指示にはしっかり従ったことや、逃亡や証拠隠滅の可能性も低いことから、南たちは手錠をかけられることもなく、外に連れ出された。 一方で、そんな南と弟子たちの熱いやりとりを、敏雄は腕の傷を押さえて、歯ぎしりしながら眺めていた。

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