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星に願うことなんて何もない
LINEでいくつかの候補の中から、澄伽に水族館を選んでもらった。
そこは都心の高層ビルの屋上に位置する珍しい水族館で、ホームページに載っていた生き物の写真を見てすっかり気に入ってしまったようだった。
「チケット買ってくるから、ここで待ってて」
「待って遊司郎さん、おれも行く」
「いいよ。俺が誘ったんだから俺が奢るよ」
「違うの。おれアレあるから」
結局一緒に窓口に並びながら、荷物の中をがさごそあさっている。
すぐに順番は来て、
「大人ふたりで……」
俺が告げかけた時、
「あった!」
澄伽がリュックから何かをようやく取り出した。
手のひらサイズの手帳のようなそれを提示すると、
「では一名様は半額ですね~」
受け付けの女性は淡々と告げる。
支払いを済ませその場を離れてから、澄伽がその手帳を見せてくれた。
「これ、療育手帳っていうやつ。お母さんにね、友だちと水族館行くって言ったら、割り引きになるかもしれないから窓口で出しなさいって言われたんだ」
「へぇ、そんな仕組みがあるんだ」
「こういうとこあんまり遊びに来たことないし、ほとんど使ったことなかったけどね」
少し寂しそうに目を伏せて、手帳をリュックにしまう。
「お母さんが教えてくれたんだ。そしたらその半額で得しちゃった分で、お母さんにおみやげを買ってかないとな」
「えーっ、そんなの何がいいかわかんないよー」
そうして母親の話題で少し照れる様子は、このくらいの年頃の若者らしくて微笑ましい。
俺には計り知れないほどの苦労を抱えているはずの澄伽。その形ある証拠のひとつが先ほどの手帳なんだろう。
少しでも笑っていてほしい。小さなことでも幸せを感じてほしい。
今の俺には何ができるだろう。
水槽越しに都会の空が透ける、まるで海の生き物が上空を飛んでいるかのように見える、斬新な作りの館内。
澄伽は早速、真下からアシカやペンギンをじっくり眺め目を輝かせる。
「飛んでる……」
「ほんと、飛んでるみたいに見えるな」
つい俺も夢中になりかけるが、澄伽が頭上の生き物を追いかけてふらふら歩くので、ついて行かなくてはならない。
休日だから人が多く、何度もぶつかりそうになって危なっかしい。
「ママー!」
その時、子どもの大声とともに、小さな男の子がこちらに向かって走ってきた。
衝突を避けるために、思わず澄伽の身体を強く引き寄せる。
後方では、走ったら危ないでしょと男の子が母親に叱られている。
それよりこの体勢、ゼロ距離。
澄伽は驚いたようなぱちくりとした目で俺を見上げている。
顔が近い、これは良くない。
「ごめん、ちっちゃい子が走ってきて危なかったから」
すっと身体を放す。
「あ、うん。ありがと」
澄伽がわずかに動揺した様子だった気がするけれど、まさか俺と密着して、いい意味で緊張したのかもしれないだなんてそんな。
馬鹿な期待はするもんじゃない。
俺とこの子は既にセックスしている。この程度の接触が何だというんだ。
そう自分に言い聞かせる。
真っ白な砂の敷き詰められた大きな水槽の前に辿り着く。海に見立てた水は青く透き通り、サンゴの隙間に隠れながら小さな魚が素早く泳ぎまわる。
まさに『映え』の風景。
おそらくSNS用の写真を懸命に撮る若者たちの中で、ただその光景に圧倒され『すごい、可愛い、すごい』と感嘆の声をあげるだけの澄伽は、きっと誰よりも純粋にこの展示を楽しんでいる。
俺は擦り寄った反応をされるのが面倒で最近はやめているが、かつては食べ物でも風景でも何かとSNSにあげていた。
所詮くだらない、見栄っ張り男の承認欲求だった。
じゃあ澄伽にとっての承認欲求は。
『でもさ、ここのお店で会う人とかLINEで繋がってる人とかは、俺とちゃんとお話してくれる。ちゃんと普通の人として見てくれる』
おとといバーで彼が語っていたことを思い出す。
きっとそれが澄伽にとっての承認欲求だ。
誰だって心を満たされたい。
水槽を背景に自撮りに夢中になっている派手なナリの女の子たちは、SNSでたくさんの反応が欲しいんだろう。
そして、たとえ身体目当てで構われているだけだとしても、澄伽は特別扱いせず接してくれる男を求める。
澄伽とこの女の子たちだけをとっても、承認欲求を持っていること自体には特に違いもないように思えた。
彼の障害って何だろう。
心の満たし方が他人より不器用。きっとそれは彼が抱える生きづらさのひとつだ。
そろそろ展示も終盤だろうか。
青く照らされた円筒状の水槽の中で、ふわりとクラゲが浮遊している。
澄伽はじっと眺めている。
だが特に感想などは発しない。あまり好みではなかっただろうか。
「大丈夫?疲れてない?」
声をかけると、穏やかに笑ってみせる澄伽の顔がこちらを向いた。
「ううん、なんか……水族館って初めてだけど楽しいなぁって思って」
展示を際立たせるための暗めの照明、ともすれば妖しくも感じられる青く煌めく光。
あのバーでは今のところ澄伽に二度会っている。
その店内を彷彿とさせるような今の薄暗さの下(もと)でも、今ここで微笑む澄伽はなぜだか別人のように思えた。
彼には絶対に、健全で清らかな場の方が相応しい。
障害があるから、可哀想だから、救いだすべきなんじゃない。
澄伽だから、彼を大切に想い始めているからこその、俺の勝手な願いだ。
順路は上手いこと出来ているので、最後に水族館のグッズのショップにたどり着く。
澄伽がまず選び始めたのは母親へのおみやげで、
「お母さんは甘いのが好きだから……」
とじっくり悩む。
「これにする!」
可愛らしいペンギンのパッケージのお菓子をチョイスして満足げだ。
「自分には?」
俺が尋ねてみると、少し驚いた顔をしている。
「でも、そんなにお金使えないし」
「おにーさんに任せなさい」
「え?」
「俺は澄伽くんより八つも年上だからね、奢ってあげるのは当然なの」
どうにか言いくるめてでも、澄伽に何か買ってやりたかった。俺とここに来たことを思い出せるような何かを選んでくれたらベストだ。
「え、ほんとに買ってくれるの?遊司郎さんってお金持ちなの?」
「お金持ち……になりたいけどね。今はまだあんまりお金持ちじゃないから、今日は一個だけね、買ってあげるの」
澄伽に欲しい物があるならいくらでも買ってやりたいし、おそらく買ってやれそうだが、それで『パパ活』めいた関係性になってしまっても嫌だ。
そんな俺の思案をよそに、澄伽はぬいぐるみを手に取ってみている。
「ペンギンとイルカだったらどっちがいいかなぁ」
両方の感触を確かめているうちに、今度は別のコーナーに気を取られたようだ。ぬいぐるみをさっさと置いて、そちらに足早に近づく。
「何だろ、これ」
「ああ、ハーバリウムってやつじゃない?」
「はーばりうむ……」
丸みを帯びたガラス瓶の中は、純白を基調としたさながら美しい海。海藻の間を色鮮やかな熱帯魚たちが泳いでいる。もちろんどちらもフェイクだが。
瓶の底には白い星の砂が敷き詰められている。これだけは本物かもしれない。
添えられていた説明書きをチラッと読んでみてから、見本の商品を手に取り逆さにしてみる。
「わぁ……」
上下を逆さにしたことで、底に沈んでいた星の砂が上から下へゆっくりと落ちていく。空から無数の白い星が降り注ぐような光景に、澄伽が小さく声をあげた。
「星の砂は、願いごとを叶えてくれる消えない星なんだって」
と説明書きに書いてあるままのことを伝えてやる。
「本物の流れ星は願いごと言う前にすぐ消えちゃうけど、これならゆっくり言えそうだね」
仮に澄伽以外の人間とこのシチュエーションになったとしても『綺麗じゃん。買えば?』で終わらせたことだろう。
「願いごと……」
「澄伽くんの願いごとは?何かある?」
何となく尋ねていた。
誰にだって何かしらあると思ったから。
金持ちになりたい、仕事での成功、恋愛成就や結婚、あと定番は家族の健康か。
澄伽は俺の手から受け取ったハーバリウムを何度も上下にひっくり返し、おそらくは星の砂が流れ落ちるのを見ている。見ながら考え込んでいる様子だった。
そうして、
「願いごと、何もないかも。おれたぶん楽しいし」
そう淡々と答える。
障害を抱えた彼は不幸に違いないと、俺は思い違いをしていたのか。それとも彼なりに妥協しているのか。
俺にはまだ澄伽を理解するのが難しい。
「あ、隣の青いのも綺麗だね。あー……でも買ってくれるのは一個だもんね」
「じゃあ俺が青いのを買うから、澄伽くんは白ね」
「え、遊司郎さんも欲しいの?おそろい?」
「おそろいって言うか色違いかな」
澄伽の持ち物と同じ物を持っていたいなんて、これじゃまるで恋する乙女だ。
俺は男相手にはサディスティックなくらいのバリタチだが、きっと澄伽の持つ何かが俺を丸くやわらかく溶かしている。
母親へのお菓子だけは頑として澄伽が支払いをしたがったので、俺は色違いのふたつのハーバリウムを買って、白い方を澄伽に渡した。
「大事にするね」
屈託なく笑うそのあどけない表情に、心臓が一瞬動きを忘れる。
澄伽を落とすための駆け引きなんてしたくない。
俺はただこの子の人間性に惹かれている。
願いごとはないと語った澄伽。その彼自身も気づいていない願いが、どうか叶ってくれることを密かに願わずにはいられなかった。
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