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五千円札、たった一輪の花、泣けなかった僕
夕食時には少し早かったが、混み始めない時間帯の方が都合がいい。
いい雰囲気の店はいくつかリストアップしておいた。
しかし澄伽が『ハンバーグが食べたい』と言いだし、それは想定外だったので慌てて近くの良さそうな店をスマホで調べた。
店に着くと、やや薄暗いロフトのような個室に案内される。
「なんか秘密基地みたいだね」
と澄伽は喜んでいるし、周りの客に邪魔されずゆっくり話ができそうで俺も満足する。
しかし、メニューも開かないうちに、
「あっ!」
と澄伽が声をあげる。
「何?どしたの?」
「あの、遊司郎さん……おれ今日、リュックにコレつけっぱなしだったんだけど……ダメだった、よね?」
申し訳なさそうに口元を歪めている。コレとは例のヘルプマークのことらしい。
「どうして?ダメなわけないじゃん」
「え……そーなの?だってこんなのつけてる俺みたいのと一緒にいるって思われるの、嫌じゃない?」
自尊心が低くて、さらに要らない気遣いまでしてしまうのか。
「澄伽くんがつけてて安心って思うならつけてたらいいし、外しときたいなって思ったら外せばいいよ。俺はどっちでもいい」
「……遊司郎さんって変わってるね!」
そう言って乱雑にメニューを開く。
「……そういう風に言ってくれる人がいるなんて思わなかった」
ありがと、と小さく呟いた顔は完全に俯き、表情はわからなかった。
「今日、水族館楽しかった?」
料理が来るまでの間、なるべく明るい話題をと話を振ってみる。
「うん!すごい楽しかった!キラキラして綺麗だし。不思議だよね。あんなにたくさんの魚が高いビルの屋上にいるの。ほんとはみんな海に帰りたいんじゃないかな……」
生き物たちの気持ちを慮(おもんばか)るその感性ですら好ましく思う。
「でも今日来れて良かった。たぶん初めてだもん、水族館」
「えっ、子どもの頃とか行かなかった?」
「うん、うちさ、お父さんいなかったから。お母さんスーパーで土日も関係なく働いてるし、出かけるとかあんまりなかった」
母子家庭。今どき珍しくもないか。
「お父さん、いなかったんだ。寂しかった?」
澄伽が口元だけでニッと笑ってから話しだす。これは作り笑いだ。
「お父さんは……おれのことが嫌いだったみたい。学校の勉強も全然できなくて、担任の先生に言われて病院で検査したら、軽い知的障害があるって言われて。そしたら、ろくでもないガキ産みやがってって、全部お母さんのせいにして出てっちゃった」
絶句した。そんな酷い男親がいるのか。
科学的に考えても、子どもには両方の親の遺伝子が入っているわけだし、澄伽の障害はすべて母親側の要因だとは限らない。
澄伽の障害はおそらく比較的軽い。
嫌悪や侮蔑といったマイナスの感情を理解できてしまうがために、深く傷つくこともあるだろう。
「でも違うよね。俺がこんななのはお母さんのせいじゃなくて、俺のせいだよ」
俺はホテルで澄伽のヘルプマークを拾ってから、自分なりに知的障害について調べてみていた。先天的な場合がほとんどということも知った。
親のせいにして責めれば済むことでもない。けれど、澄伽自身が責任感や罪悪感を背負って生きるのはもっと違う。
「澄伽くんのせいなんかじゃないよ」
「そうかな……」
会話が途切れかけたタイミングで、アツアツの鉄板に乗ったハンバーグが運ばれてくる。
「うわ、思ったよりデカいな。食いきれるかな」
何しろ俺はもうアラサーだ。あまりのガッツリ感に弱音を吐くと、
「おれは余裕で食べれそう」
澄伽が得意げに微笑む。
「さすが。若いな」
笑ってくれると安心する。
ちなみに澄伽の方にはトッピングで大きなエビフライも付いている。
澄伽は食べ始めると夢中になって黙(だんま)りになるようだ。
一緒に食事しているのにそれは寂しいので、またこちらから話題を出していく。
「澄伽くんはさ、すごくお母さん思いなんだね。うちの母親は口うるさいから、こっちからはほとんど連絡しないよ。あ、俺の実家は名古屋なんだけど、そっちの方言でみゃーみゃーうるさくてしょうがないよ」
内容はもっぱら結婚のことで『結婚しろ』の『け』の字も嫌になってくるほどだ。
「なごや……あー、なごやか、ふーん。……あ、えっと、うちの場合は、おれがいろんな男の人と会ってえっちしまくってるって知ったら、お母さんぶっ倒れちゃうかもだから、そこは秘密なんだけど」
「そうだな。その方がいいな」
まっとうな友だちと遊びに出かけている設定にしているんだろう。今日の俺は、まっとうな友だちの方に分類されていいんじゃないだろうか。
「……でもね、まだお母さんに内緒にしてることある」
澄伽がナイフとフォークを握ったまま、神妙な面持ちになる。
「高校三年生の時、あ、高校は特別支援学校ってとこ行ってたんだけど、学校の帰りに寄り道して花屋さんを見てきたんだ」
「花屋さんを?」
「うん、母の日が近かったからプレゼント買いたいなって思って」
本当に母親思いのいい子だ。ただ、それを語る澄伽の表情は暗い。
「そ、その後ちょっと道に迷って……あ、あの、し、知らない男の人が……」
口調が冷静さを失ってきている。
「大丈夫だよ、言いたくなかったら言わなくていい」
「ううん、聞いて?わかんないけど遊司郎さんに話したい。……おこづかいくれるって言われて……ホ、ホテル連れてかれた……」
呼吸を忘れるほどに、感情の整理が追いつかない。
まだ高校生で今よりも分別のついていない澄伽が、おそらく無理やりか言いくるめられてだ。悪意のある大人の男に。
「それで、五千円もらった……」
俺は若い男の子を買う趣味はないけれど、おそらくそれは安すぎる。そもそもその年齢に手を出すのは犯罪だ。
「五千円あれば立派なお花が買えたけど、そんな大金どうしたのってお母さんにバレたら可哀想だから……おこづかいで買えるくらいの安いのにして……。余ったお金はコンビニのゴミ箱に捨てちゃった」
安価なカーネーション。コンビニのゴミ箱に突っ込んだ現金。泣くこともできずにいたであろう高校生の澄伽。
すべてが頭に浮かんでしまって、手が震えそうになる。
「……ぐっ……ぅ……」
澄伽は涙を堪えながら、エビフライに豪快にフォークを刺す。
やっぱり泣くのが下手くそだ。
「ふぇ……へひふあい、おいひ……」
泣くのを我慢しながらエビフライをかじっているのが、意地らしくてたまらなくなった。
今日はもうこれ以上、接触するのはやめておこうと思っていたんだけれど。
向かいのイスから、澄伽が座っているソファ側に移動する。
「つらかったこと、教えてくれてありがとね」
片手で背中をさすってやる。個室なのをいいことに、本当はこの前のように抱き締めたい気持ちもあったけれど。
狙い落とそうとなんてしたくない。心の支えになりたいなんていうのもおこがましい。
今のしんどくなってしまった気分を落ち着かせてやるだけだ。
「澄伽くんは大人の男だけど、泣いていいんだよ。……俺の前でくらい泣いたらいい」
「な、なんで……ぅぐ」
「なんでかな。澄伽くん泣くの下手だけど、この前俺の前で上手に泣けてたから。……必要でしたらぎゅーでも何でもしますが」
澄伽の瞳からぼろっと堪えていた雫が落ちた。
「もぉ~……なんで、なんでそんなしてくれるるの?」
紙ナプキンで涙を拭いてやるついでに、デミグラスで赤く染まっていた口元もさり気なく綺麗にしておく。
澄伽のためなら服くらい汚れてもいいけれど、その格好で帰るのは恥ずかしいので。
でもこれで心置きなく。
「おいで」
「うん」
素直にこちらの胸に顔を埋(うず)めてくれた。じんわりとそこが濡れていくことで、ちゃんと泣いてくれているのを確認する。
「お、おれね、その人にい、いろんなことされて、こわかったしその時はすごく嫌だったけど……後から思ったんだ。……男の人ならおれを必要としてくれんのかなって」
「うん」
「中学までは普通のとこ行ってて、ちょっといいなって思う女子もいたけど、おれなんかみんなにバカにされてるだけだったし……もしかして男の人になら、って……」
澄伽のその推測は完全に当たってしまって、有象無象の男たちが彼の身体を好き勝手に弄んでいる。
きっと理解のある女性と出会えれば、そっちの可能性もあっただろう。澄伽は心根の綺麗な子だから。
しかしそれは今のところないようだ。
誰からも関心を向けられないのと、コミュニケーションの手段として男たちに身体を差し出してしまうのと、どちらがマシなんだろう。
「うぇ、ぐ……う、遊司郎さんさぁ、優しすぎだよ……」
「そうかな」
「うん……おれの勘違いかもしんないけど、俺に障害があるから親切にしてくれてるわけじゃないの……何となくわかる」
「当たり前だろ。澄伽といると楽しいから今日も遊びに誘った、それだけ」
一緒にいて楽しい、それは言える範囲の感情。
大切に守り慈しんでやりたい、それは本音。
その表向きの感情と内なる本音で二重にくるまれたさらに真ん中に、下心もたしかにある。
こうして抱き締め、澄伽の体温やほのかで清潔感のある香りを感じてしまえば、否が応でも一度だけのセックスの記憶が蘇った。
なめらかな柔肌を、快感に震え可愛らしく啼いた声を。
終電シンデレラの澄伽にはまだかなり早い時刻だが、今日はもう帰らせることにした。
『ホテル、行く?』
『俺の家に来る?』
誘えば澄伽は断ってこない確信はあった。
けれどそれでは俺は澄伽にとって、話を聞いてくれてセックスしてくれるその他大勢のお友だちの中に再び埋もれる。
そうはなりたくないということは、この複雑にしてどこか温かな気持ちは、限りなく限りなく恋に近い。
地下鉄で帰る俺は、澄伽をJRの改札の前まで送る。
「今日はありがとね。楽しかった」
「おれも。こんなに楽しいお出かけ初めてだったから」
らしくもなく、胸の奥が甘苦しく疼く。
「それじゃ、またふたりでどっか行こっか。LINEで相談しよう」
「やった!嬉しい!」
こんな無邪気な笑顔を見せられては、勘違いしない人間はいない。俺も御多分に洩れずだ。
日曜夜のターミナル駅。多くの人が行き交う。愛おしさに負けみっともなく澄伽を抱き寄せてしまう前に、その頭をポンポンと撫でるだけに留めた。
改札を通った澄伽のことはあえて見送らないことにした。
もういい加減気持ちが溢れすぎている。これは自制だ。
だから俺は知らなかった。澄伽が俺の後ろ姿を見つめていたのを。
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