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第35話 本能と理性と不安の境界線

 武藤さんに駅前でコマンドを言われたのは七月の終わりだった。  もう、三週間くらい前のことだと思う。  武藤さんの検査の結果の事は気になってはいたけど、さすがに詳細なんて聞けなかった。  そして今。  もしかしたら俺、まずいかもしれない。   酒を飲みすぎないように注意した、と思う。  ビール二杯は多くはないはずだ。  でも、こみ上げる衝動は抑えきれなくて、というか俺は、自分の中にある欲望の抑え方がわからないのかもしれない。  そばにいるDomを本能的に求めるから俺は、武藤さんの腕に絡みついているんだろうか。  あんまり深く考えてもいないし、今まで気にもしたことないことだ。  そもそも武藤さんは男だ。  だから俺が警戒するような相手ではないはずだ。  でも俺はSubであって、武藤さんはDomの性質が強いノーマルで。  つい俺はそのことを忘れてしまう。 「神代君とならどうなのかなぁ。俺がDomなら君を満足させられるんだろうけど、俺、そうじゃないんだよね」  そして武藤さんは、自嘲気味に笑う。  そうだ、武藤さんはDomじゃない。あくまでノーマルなんだ。  俺がいるから武藤さんはこんなぐらぐら揺れてんのかな。  Subに影響されてる、みたいな話、してたもんな……  俺はなんて言っていいかわからず、ただ呆然と武藤さんを見つめた。  駅ナカとはいえ空調が効いているわけじゃないから気温は高い。  そのせいか、背中を変な汗が流れていく。 「このまま家に連れて帰ろうかとか考えたけど、相手がいるんじゃ無理だもんね」    そして武藤さんは、俺が首にかけているドッグタグから手を離す。  笑いながら言ってるけど、これ、本気なのか冗談なのかわかりにくい。  もしかしたら自分に言い聞かせるために言ってるのかもしれない。  さすがに家には行けない。俺は、帰る場所があるし。  っていうか、さっきからスマホがすげー震えてる。  武藤さん、もしかして俺と「プレイ」がしたいのか?  一般的なDomとSubが、パートナーを決めるまでにどうしているかなんて俺は知らない。  だから複数とそういうことをするのが普通なのかも分かんねえし、たとえそれが普通だとしても、俺には受け入れがたい。  何言えばいいんだ俺。全然言葉が出てこない。  ぐちゃぐちゃと考えていると、武藤さんは駅の時計へと視線を向けて言った。 「あ、電車の時間になる」  そして、武藤さんは俺からそっと離れていく。  笑顔で手を振り、 「またね」  と言って、改札の中に消えていった。  な、なんだったんだ今の……  俺、武藤さんにあんまり近づかないようにした方がいいんかな。  もし俺、あの人に誘われたらはっきり断れる自信がない。  まじ、気をつけよう。  外で酒、飲まない様にしねえとな……  その時、綿パンのポケットに入っているスマホがまた、ぶるぶると震えた。  やべえ、いい加減でねえと。  時間は零時を過ぎた所だ。  改札前に人影は殆どなくて、静けさが包んでいる。  俺は慌ててスマホをポケットから出して通話ボタンを押した。 「あ、もしもし」 『今、駅前にいるけど大丈夫?』  すこし焦ったような声が聞こえてくる。 「大丈夫っすよ。ちょっと飲み過ぎたかもですけど」 『あぁ、やっぱり飲んだんだね。今どこにいるの』 「改札前……」 『今行くから』  という言葉の後に、足音や風の音が聞こえてくる。  どうやら電話を切るつもりはないらしい。  すぐにシュウさんの姿が通路の向こう側に見えてきて、電話が切れた。  彼は小走りに俺の前まで来ると、不安げな顔で俺の顔を見つめ、ぎゅっと、腕を掴んだ。 「大丈夫?」 「だ、大丈夫ですよ。ただバイト仲間とメシ行っただけだし」  言いながら俺は内心を誤魔化すように笑う。  でもきっとバレるだろうなぁ……  事実、シュウさんは表情を変えなかった。 「だから心配だったんだけど」  なんて呟く。 「あの、よく一緒にいる人も一緒だった?」  その言葉に俺は無言で頷く。  シュウさんには武藤さんがDomかもしれない、とかわかんのかな。   「やっぱりそうなんだ」  そしてシュウさんは俺の腕を掴んで歩き出す。 「帰ろう、もう遅いし」 「すみません、遅くなっちゃって」  引っ張られながら謝ると、シュウさんはこちらを振り返らずに首を横に振った。 「まあ、たまにはそういうことあるだろうし。僕だってゼミの飲み会だとかこの先あるだろうから深くは言うつもりないけど」  けど、なんだろう。  やっぱ気になるんだろうなぁ……武藤さんのこと。  あの人は大丈夫、とか言えねえしな……  そう思うのは俺が不安定だからか、シュウさんとの関係に自信がないからなのか。  武藤さんに揺れ動くかもしれない、なんていう不安を抱えるくらいなら、いっそのことパートナーとはっきりさせた方がずっといい気がする。  明日は月曜日だ。  俺もシュウさんも、一日何の予定もない。  だから今日、遅くまで起きていても問題はない。  家に帰ったら話してみる?  俺はシュウさんのパートナーになりたいと。  そう思い、俺は彼の背中を見つめる。  シュウさんの纏う空気が怖い。なんだこれ……  機嫌、悪いのか?  俺の腕に鳥肌がたっているのがわかる。 「秋星……さん?」  思わず名前を読んだ俺の声はわずかに震えていた。  駐車場に停められた車に乗った後、シュウさんは首を横に振り、いつもの笑顔を俺に向ける。 「ごめん、大丈夫だよ」  いくら笑顔で言われても、俺の身体はわずかに震えている。  怖い。  なんでこんなに怖いんだ? 「『グレア』……って言っても知らないか。ごめん、そこまで自分が機嫌悪くなるとは思わなくて」  そしてシュウさんは目を伏せる。  グレア……ってなんだよ? 「えーと、Domが機嫌悪くなると出ちゃう、威圧感とかオーラって言えばいいのかな。あと『ディフェンス』も関わってるかも」  ディフェンスって、守備って事か?  知っている言葉だけど、知っている意味とは違う感じがする。 「それも知らないか。Domが自分のSubに危害が及びそうな時Subを守ろうとする行動のことなんだけど。ごめん、自分でもそうなったことないから、抑えるのが難しいかも」  知らない言葉が色々出て来たけど、つまり、俺に危害が及ぶと思って機嫌が悪くなって、それでグレアっていうなんかオーラみたいなのを出してるって事か?  わかるような、わからないような……  そでれ俺は恐怖を感じてるってどういう状況だよ?  シュウさんは顔を上げると、俺の頬に手を伸ばして顔を近づけてきた。 「早く家に帰って、君を啼かせたい」  独占欲むき出しの顔で言い、噛みつくように俺の唇に口づけた。

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