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第33話 箱の中の獣

 板を何重にも張り合わせた重い扉を、ラナダーンが見張りの領兵に開けさせた。頑丈に作られた扉が軋みながら開いていくのを、シェイドは息も詰めて見守る。  扉が開いたその向こうには、寝台と小さな机を並べただけの簡素な部屋があり、囚われてなお威厳を失わぬ若き国王と――乱れた部屋着姿のアリアが居た。 「…………」  驚きのあまり声も出なかった。なぜあの女が慎みのない姿でジハードの部屋にいるのか。  同時にジハードもまた、シェイドと同じように目を見開いてこちらを凝視していた。その視線にシェイドはハッと気づく。今自分がどんな姿で国王と対峙しているのか思い至ったのだ。 「下ろしてください」  シェイドは慌ててラナダーンに訴えた。ジハードの敵であるラナダーンの腕に、裸に掛布を巻き付けただけの姿で抱かれている。目は潤み頬は火照っていた。声もひどく掠れている。快楽に喘ぎすぎたせいだと、他の誰に分からなくともジハードには知れてしまう。 「腰が抜けて立てもしないくせに」  ラナダーンは鼻で嗤うだけで聞き入れてくれなかった。その上、情事を仄めかすような言葉を放つ。ジハードの顔が一瞬強張り、見る見るうちに激しい憤怒の表情に塗り替えられた。疑いが確信に変わったのだ。  ジハードは忌々し気に顔を背け、冷たく吐き捨てた。 「――ここから出ていけ。お前はもう俺とは無関係だ」  その言葉と声音に、絶望で足元から粉々になっていくような気がした。  きっとジハードはアリアから聞いたのだ。自分がどんなふうにして快楽に堕ち、卑しい傭兵たちの嬲り者になったのかを。見も知らぬ男たちの精液を飲み、体の内側を腐り果てそうなほど穢され、大声を上げて喚きながら娼婦の本性を曝け出したことを。  抗いきれなかったことは言い訳にもならない。シェイドは堕ちて奥侍従としての自分を失った。それは事実だ。  けれどその元凶となった女を、ジハードは知って側に置いているのか。自分がただ一目姿を見たいとこれほど焦がれていたのに、その間ジハードはよりにもよってこの女を――。  頭の芯を焼き尽くすような怒りが、長い間腹の底で眠らせていたものの目覚めを促した。押し込めてあった箱の封印を破って、それがゆっくりと頭をもたげる。  ――ジハードが、欲しい……。  獣の姿をしたものが、飢えた声で低く唸った。  戦神の血を引く誇り高い王。己の正義と力を信じ、どんな困難にも怯むことのない、生まれながらの聖なる統治者。虜囚となって塔に閉じ込められても、その誇りと輝きは少しも損なわれてなどいない。何故なら、ジハードを王たらしめているのは人の世で与えられた地位ではなく、内に秘めた魂の輝きだからだ。  例え地位と名誉を奪われても、ジハードは変わらず王者であったに違いない。己の手で国を興した最初の王と同じく、彼はいずれ必ず人々を治め導く存在になったはずだ。それほどの輝きが、ジハードの魂にはある。  シェイドは、それに心惹かれずにはいられない。  完全な存在。正統なる血筋と非の打ちどころない容姿、万人の目を引き付けずにはおかない鮮やかな生き様。建国の男神の現身そのものだ。  この美しく輝かしい存在を自分の元に繋ぎとめておきたい。他の誰にも奪わせない。身も心も、髪の一筋まで、永遠に自分だけのものだ。誰にも、ほんの一欠片も譲りたくない。  ましてや裏切り者の毒婦など、同じ空気を吸うことさえおこがましい――! 「…………ッ」  自分自身の激しい感情に揺さぶられて、シェイドは思わず身震いした。  これほどまでに激しく、手前勝手で醜い感情が自分の中にあったのかと愕然とした。――これは嫉妬だ。他人を妬む愚かしくも醜い感情が、自分の中に姿を隠して眠っていたのだ。  シェイドは肩を上下させて息を継いだ。  爆ぜるように噴き出したこの感情は、今初めて生まれたものではない。ずっと以前から心の片隅に棲みついていたのを、見ないふりをして自分を騙してきたのだ。本当はずっとこれを隠し持っていた。  美しく正統な血を持つアリアを。有能で信頼されているサラトリアを。黒い髪と目を持つ大勢のウェルディリアの人々を。――臆面もなく愛を告げることのできるジハードを、シェイドはずっと羨み、嫉妬し続けていた。  どうして、黒い髪と目をもって生まれてこなかったのだろう。せめてもう少しまともな姿をしていたら、王からの寵愛を素直に喜べただろう。いつまでも側に置いて欲しい、もっと肌の温もりを感じたい、壊れそうなほど愛してほしいと、望みをそのまま言葉にできただろう。  けれど、北方人の自分に恋われても厭わしく思われるだけだから、そんな感情は生まれなかったことにした。  幾重もの箱に想いを閉じ込め、誰にも触れられないよう厳重に鍵をかけた。国王から与えられるのはただの慈愛であり、自分が抱くのは純粋で穢れない敬慕の念なのだと。  忠実な臣下として何もかもを捧げよう。見返りなど何も求めない。ただ国と国王と自分以外の誰かが平穏であれば、それで満足だ。何も望まず、分を弁えて慎ましく生きていく。だから――どうか嫌わないでいて欲しい。少しだけでいいから、愛してほしい。  本当は知っていた。ジハードが狂おしいほどに自分を愛していることを。どんなに激しく肌を合わせても足りないほど、いっそ一つに溶け合いたいと願うほど欲していることを知っていた。宝物を秘密の場所にそっと隠し、世界の全てから切り離すような愛し方がどんなものかを、シェイドは誰よりも知っていた。  本当はシェイドこそが、この男神の化身を誰もいない世界に連れ去って、独り占めしておきたかったからだ。 「……シェイド?」  胸に手を当てて苦し気に息を荒げたシェイドを、ラナダーンが覗き込んだ。シェイドはそれから顔を背ける。苦しいのは後悔しているからだ。穢れてしまう前に、一度でも自分の本当の気持ちに気付いていればよかったと。  ――ジハードを愛している。  花の蔓で作った檻の中に閉じ込め、風も光も通さぬ場所でずっとこの腕の中に包み込んでおきたい。千の命も万の恵みも、ジハードがいないのならば意味はない。世界と引き換えにしようと、ジハードだけはこの手から離したくない。命尽きるまで側にいたい。  けれど、もう遅い。骨の髄まで穢れてしまって、近づけばジハードまでもが汚れてしまう。 「……もう、ここへは来ません」  シェイドは決別を宣言した。会うのはこれが最後だ。そうでなければ歯止めが効かなくなる。失ったものを、世界を滅ぼしてでも奪い返したいと願うのは虚しいことだ。  両腕をラナダーンの首に絡めて、シェイドは縋るようにしがみついた。 「連れて降りてください、ラナダーン。……私を離さないで」  篭絡の意図を込めて切なく囁く。今からこの男を全身全霊をもって惑わし、利用しなくてはならない。この男だけではない。使えるものはどんなものでも、何を代償にしてでも利用する。どれほど望んでもジハードを手に入れることはできないのだから、残された道は一つだけだ。  シェイドの言葉に応えるように、強い腕が体を抱き留めた。国王が今どんな表情をしているかは、背を向けたシェイドには見えなかった。  重い木の扉が軋む音を立てて閉まる。  ラナダーンの首筋に顔を埋めながら、シェイドは青い目で虚空を見つめていた。  元の部屋に戻っても、シェイドはしがみつく手を緩めなかった。  ラナダーンも無理に引き剥がそうとはせず、シェイドを横抱きにしたまま寝台の上に腰かける。塔へ出かけたのはごく僅かな時間だ。寝台にはまだ先程の情交の痕跡があらわに残っていた。  この空気が残っているうちに、ラナダーンを引き込まねばならない。 「……あの方は、北方の血を持つ私を愛していると言ってくださいました……」  大切な秘密を打ち明けるような声音で、シェイドは囁いた。言葉にすれば、それを聞いた時の甘く切ない喜びまで、この胸の内に蘇ってくる。ミスル離宮で交わした言葉の一つ一つが鮮やかに浮かび上がってきた。 「迫害されている北方の民を、ウェルディリア人と同じように国の民として認めてくださるとも……」  あの時のジハードの言葉に偽りはなかったと思う。ジハードが王で在り続ければ、何時かはその言葉が現実のものになったはずだ。ジハードの代では無理でも、五十年後、或いは百年後には何かが変わっていたに違いない。――それはシェイドが命を捧げると考えるのに十分な理由のはずだ。  シェイドは顔を上げてラナダーンを見つめた。 「……貴方は、王の座に就けば北方人をどのようにされるおつもりですか?」  シェイドの体を抱くラナダーンの腕に一瞬力が籠った。  厚みのある胸が平常心を保とうとゆっくり上下しているのがわかる。だが密着した身体が、ラナダーンの胸が早鐘を打っているのを伝えてきた。彼にとってはこれは玉座が手に入るか否かの正念場のはずだった。 「北方人、か……」  きっとラナダーンは北方人をどうするかなど考えたこともなかっただろう。ラナダーンの言葉の端々にはシェイドが良く知る、生粋のウェルディリア人らしい北方人への蔑視と嫌悪が感じられた。それだけではない。異端のものを忌み嫌うという以上の明らかな憎悪が、ラナダーンからは感じ取れる。  きっと彼は今心の中で、玉座と北方人への嫌悪とを天秤にかけているのだろう。取るに足らぬことだと適当にはぐらかせるほど、北方人への嫌悪は浅いものではないようだ。シェイドは冷静にラナダーンを観察した。  考えたこともない事を突然問いかけられても、まともな答えが出るはずはない。忙しく頭を巡らせているはずのラナダーンの気配を探りながら、機を見て、シェイドは畳み込むように次の一手を突き付ける。 「私は北方人を弾圧から解放するつもりです。不当な差別をなくし、彼らが人として扱われるように法を整備します。……どうか、私に力を貸すと言ってください。そうすれば、王位継承者の額環は貴方のものです」  ハッとしたように、ラナダーンがシェイドの体を離して目を合わせてきた。期待と緊張がその目に浮かぶ。シェイドは目を逸らさなかった。  魅惑的な申し出のはずだ。嘘でも協力すると言ってしまえば、玉座を得るための最後の札が手に入る。後ろ盾のない北方人一人を葬ることなど、彼らにとっては容易い事だろう。  シェイドはこちらを見る栗色の瞳を正面から見つめ返した。底に金泥を散らした夜明け前の空のように青い瞳で、ラナダーンの心を絡めとるように。 「王位に就けば、この私が貴方を王族として迎えます。長く玉座に留まるつもりはありません。法が整えばすぐにでも、貴方にその座をお譲りすると、お約束いたしましょう」  崩れそうな疲労を感じて、シェイドは寝台の上に横たわった。今頃になって胸が早鐘を打ち始めたが、ラナダーンがいた間は平静を装って見せられたように思う。  額環の在り処を聞いたラナダーンは急いだ様子で部屋を出て行った。きっと配下を王都に向けて出立させるための手配をしに行ったのだろう。種は撒き終えた。あとはそれが思う通りに芽吹くかどうかだ。  ふぅ、と大きな息を吐く。不快な匂いが部屋中に充満していたが、疲れ切っていて敷布を引き剥ぐ余力もなかった。押し隠していた興奮と緊張のせいで熱を持った頬を両手で冷やす。試みが上手くいくかどうかなどわからない。けれど打てる手は、どんなに望みが薄くとも打っておくに越したことはない。  汚れた寝台に四肢を投げ出し、自分を落ち着かせようとゆっくりと息を吐く。脱力した拍子に足の間が濡れたのを感じて、シェイドは顔を顰めた。ラナダーンが中に放ったものが溢れてきたのだ。  ――湯浴みをしたい。  シェイドは叶いもしない望みを胸の内で呟いた。ここへ来てからというもの、一度もちゃんと身体を拭っていない。食事とともに届けられる水を使って少しずつ浄めてはいるものの、体の中にはまだ傭兵たちに注がれたものが残っているような気がしていた。協力する素振りで少し警戒が緩めば、湯浴みは無理でも、せめてきちんと体を拭えるように水桶を用意してもらいたい。  そんなことを考えていたシェイドの耳に、足音高く通路を進んでくる複数の気配が届いた。ラナダーンが戻ってきたにしては早いし、それに随分荒々しい足音だった。  まさかと思う間もなく続きの間に大勢が入り込む気配があり、急いで寝台から身を起こすと同時に部屋の扉が開かれた。  扉を叩きもせず入ってきたのは、拉致された夜に中庭で見かけたあの老将軍マクセル・ベラードだった。

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