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第37話 月のない夜

 微かな異音に、ジハードは目を開いた。  今夜は月も姿を現さないらしく、灯りを消された塔の一室は暗闇に包まれている。最後に夜回りの兵が覗き窓を確認に来てから随分になるから、もう真夜中のはずだ。  身体は動かずに目を開き、唯一の出入り口である扉を見つめる。窓の格子から差し込む弱い星の光でも、夜目の利くジハードには辺りを知るには十分だった。――と、音も立てずに木の扉が薄く開いた。  ジハードは一瞬の躊躇もしなかった。隣で眠る女の顔を掴み、呻き声を上げる暇さえ与えず思い切り捻じ曲げる。骨が砕ける鈍い音と、腕に伝わる末期の痙攣。それらが敵兵に知られぬよう、上から圧し掛かって封じながら、ジハードは中に滑り込んできた人影を確認した。 「……ノイアート」  ジハードは囁くような小声で足音も立てずに近づいてきた相手の名を呼んだ。  ベラード領兵の装備を身に着けているが、独特の隙のない歩き方と背格好はヴァルダンの私兵部隊の一つを預かる将校のものだった。偵察などの隠密行動を主体とする部隊の長で、かつて父王ベレスの弑逆を計画した時もサラトリア付きの世話係を装って王宮入りした男だった。  ノイアートは無言のまま腰に結び付けてきた袋をジハードに差し出した。中身はベラード兵の外套だった。捕らえられた時のままのシャツの上にそれを羽織り、腰にノイアートが差し出した剣を吊るす。  何時まで幽閉されていても、敵に屈するつもりは微塵もなかったが、いざ脱出となるとさすがに気分が高揚した。 「シェイド・ハル・ウェルディスはどうした。俺とともに捕らえられた北方風の――」  金具が当たって音を立てぬよう剣帯を押さえ、あたりの気配を伺いながらジハードは尋ねた。浅黒い顔をした壮年の将校は口の前に指を立てる仕草をし、懐から小さな布の包みを取り出した。 「……これをお預かりしております」  闇の中に溶け込むような、聞き取りづらい低い声だった。ジハードが布を開くと、幽かな星明かりにも煌めく白金の髪が一束現れた。シェイドのものに間違いない。  どうやら先に助け出されたようだが、それにしてもあの見事な髪を僅かとはいえ断ち切るとは何者の差し金だ――。そんな憤りを抑えながら、布の包みを懐に仕舞い込む。後は一言も発さず、意識を脱出することに集中した。  寝台を振り返り、まずはアリアが完全に息絶えていることを確かめる。ジハードを助ける見返りにと、王妃の座と世継ぎの王子の母の座を要求してきた女だ。万が一にでも生きていて、その腹に子が宿りでもしていた日には悔やんでも悔やみきれるものではない。だが虚栄心ばかりが肥大した愚かな女は、醜い死に顔を晒して屍となっていた。発見までの時間を稼ぐために、ジハードはその骸を掛け布で覆って、眠っている風を装った。  ノイアートの合図に従って、ジハードは大きな猫科の獣のように気配を殺し、塔の一室を後にした。  扉を出たところには二人分の領兵の死体が転がっていた。ノイアートの部下はその死体を壁に凭れさせ、地面に座り込んで眠っている姿勢を取らせた。一つ下の階に降りると、そこは領兵の詰め所になっていたようだが、生きて動いているのはベラード兵に偽装したヴァルダン兵だけだ。ジハードの姿を認めると、視線を交し合うことさえなく合流してくる。見張りの兵たちは寝台の中に横たえられ、眠っているように見せかけられていた。  まるで塔の警備を知り尽くしていたような、怖ろしいほどの手際の良さだった。各階で退路を確保していた部下が合流すると、塔の出口をくぐる時には総勢で十名ほどになった。たったこれだけの人数で国王を救出するために敵陣に侵入してきたのだ。この作戦を決めた者も、実行する者も、驚くべき胆力の持ち主だと言わざるを得ない。  ジハードたちは夜回りの兵に怪しまれないために、数人ずつに分かれて塔を出ることになった。先発隊が見回り兵を装った落ち着いた様子で先に進んでいくのを確認し、ノイアートと部下がジハードを中央に隠すようにして塔を出る。少し離れて最後の数人が殿を守るように後ろについた。  怪しまれればこの人数で交戦しなければならない。平静を装う兵たちは緊張感に包まれていたが、城壁に囲まれた砦の中庭には人の気配がなかった。  今夜は宵の口の時間帯に宿舎の方から少しばかり騒がしい気配が感じられたが、それもすっかり止んだようだ。砦の中は誰も彼もが死に絶えたか、ぐっすりと眠りを貪っているかのようにやたらと静かだった。  無人の庭を落ち着いた足取りで進む。やがて山と城壁との境の場所に辿り着くと、目立たぬ場所の垣根が一部朽ち果て、山の中へ獣道が続いているのが見えた。どうやらここから侵入してきたらしい。  背後を警戒しながら、人ひとり進むのがやっとの狭く険しい道を這うように進む。山中に迷い込みそうだと思ったが、山に慣れたものが先導しているらしく、やがて反対側の平野に出た。地図の上では角のように突出していた峠を一つ横断したことになるようだ。山裾には物音を立てぬようにハミと蹄に布を巻かれた馬が待っていた。  山向こうの空は薄く白み始めている。夜明けまでは後僅かだ。追跡を逃れるためには、少しでも暗いうちに一気に駆け抜ける必要がある。  馬に巻いた布を外し、男たちが鞍に跨った。ジハードに用意されたのは伸びやかな四肢を持つ黒い駿馬だ。 「――ミスル離宮へ!」  ノイアートが低く宣言した。鬨の声を上げることもなく、男たちは馬の腹を蹴る。ジハードも馬を駆けさせるべく、外套を体に巻き付け、身を倒した。  エスタート旧砦からミスルへは、街道を使えば数時間の距離だ。だが少人数のノイアートの部隊は街道ではなく農道を選択した。道は荒れているが夜明け前で人の姿もなく、追手がかけられても大人数は一気に通ることができない。  一時間ほど馬を疾走させ、山脈から朝日が顔を出す頃、一行はミスル領に入った。  王室直轄地であるミスルは領地としては小さなものだが一帯が巨大な庭園となっている。離宮の広い前庭には、背の高い垣根に隠れて武装した一個中隊が待っていた。甲冑を纏い、今すぐにでも出陣できるよう部隊を控えさせているのはサラトリアだ。 「サラトリア!」  手綱を引き絞り、ジハードは馬を腹心の目の前で停止させた。  今回の旅程はサラトリアが組んだものだ。忍びの旅行ということもあって、供回りの人数も極力控えたのが仇となったが、救出の手際はその失態を補って余りあるものだった。  だが王の帰還を迎えるサラトリアの表情は沈鬱で、晴れがましさや喜びは微塵も感じられなかった。  後ろに控えるフラウも、今にも倒れそうな青い顔をして食い入るようにジハードを見つめている。――急に、胃のあたりがずしりと重くなるのをジハードは感じた。  まさか……。 「……シェイドはどこだ? 先に助け出されたのだろうな!?」  ジハードの詰問に、サラトリアは顔色一つ変えなかった。無言のまま、ジハードが激情に駆られて飛び出すのを阻むように、手を伸ばして馬の轡を掴んだ。  崩れたのは後ろにいたフラウの方だ。膝から崩れ落ち、呆然と地に座り込む。その顔に浮かぶ絶望の表情にジハードは胃が捩じれるような気がした。 「殿下の御身は、今から私が命に代えても取り戻してまいります」  ――静かに。あまりにも静かにサラトリアが宣言した。  落ち着き払ったその声を聞いた途端、足元から一気に血が逆流するような怒りがジハードを襲った。  あの砦の中で、シェイドが曲がりなりにも命を奪われずに済んだのは、敵が国王の命を掌中に収めていたからだ。王の命をいつでも握りつぶせるからこそ、第一王位継承者の命に値打ちがあった。  だがジハードが無事脱出した今、シェイドの人質としての価値はなくなったと言っていい。塔の中が空だと判明し次第、シェイドの命は失われる。怒り狂う敵陣に取り残されたシェイドは、今まさに首に縄をかけて殺されようとしているかもしれなかった。 「…………ッ!」  思わず馬首を翻そうとしたジハードは、轡を握ったサラトリアの手に阻まれてたたらを踏んだ。ジハードは静かに見上げてくる榛色の瞳を馬上から睨んだ。  サラトリアは全てを知っていて、ジハードを無事取り戻すためにシェイドの命を切り捨てたのだ。誰よりも側近くにいて、ジハードがどれほどシェイドを想っているかを知っていながら、まるでただの奥侍従の一人であるかのように敵陣に見捨てて来た。  ――カッとなったジハードは馬用の鞭でサラトリアの手を打ち据えた。朝の空気を裂くような硬い音があたりに響いた。  待機するヴァルダン兵が息をのんだが、籠手に守られたサラトリアの手は、鞭の強打にも微動だにしなかった。 「昼にはグスタフ砦からの一個中隊が到着いたします。陛下は彼らとともにハルハーンへお戻りくださいますよう、お願い申し上げます」  荒れ狂う腹の底の激情と対照的に、冷たいほどに落ち着いた腹心の様子がジハードを激昂させた。  懐に治めていた布包みをサラトリアに投げつけ、飛び降りるように馬を降りると離宮に駆け込んだ。檻に閉じ込められた獣のように唸りながら、目についたものを片端から床に落す。花を描いた絵画も、繊細な模様を散らした花瓶も、見せたい相手がもういないというのに虚しいだけだ。中庭の花も木もすべて燃やしてしまいたい。  シェイドと蜜月の日々を過ごした寝室に入れば、今も寝台には快楽に啼いたシェイドの匂いが残っているのではないかと思わせる。だが整えられて冷え切った寝台に突っ伏しても、残り香どころか髪一筋見つけることはできなかった。  誰かが寝室に入ってきた気配に、ジハードは寝台から重い頭を上げた。  王宮を空けて半月ほどにもなる。国王としての務めに戻り、この国を導いていかねばと頭の片隅で思いはしたが、背負ったものの何もかもがすっかり色褪せ、どうしても気力が出てこなかった。  その目の前に、覚えのある小さな布の包みがそっと置かれた。そして細く畳まれた跡のある小さな紙片も。  それはウェルディ経典に収められたうちの一枚のようだった。王族や高位の貴族が用いる神聖文字で綴られた、かなり格式高いものだ。赤黒い染みが無数に飛んで、文章をまともに読めなくしていた。  なぜこんなものを出してきたのかと眺めるうちに、ジハードはそこに隠された文言に気が付いた。 「フラウが解放した中庭の鳥が持ち帰ってきたものです。この髪の束とともに……」  ウェルディの後継として暗唱できるほど教え込まれたジハードは、血で塗り潰された下に何の文字が書かれているかを知っている。それを繋ぎ合わせれば――。 『――貴き御方は旧エスタート砦、塔の五階。警備の兵士は扉から二、無、無、三、二。従姉姫の傭兵五十、ベラード領の主と先王の長子を名乗る男の手勢、同数以上――』  ジハードは言葉を失った。こんなことを知らせて寄越せるのは、シェイド以外にない。  ラナダーンの腕に抱かれて塔に上ってきた姿を、ジハードは思い出した。あの時シェイドはジハードの幽閉場所を探って知らせるために塔へきたのだ。 「シェイド様が敵の配下をヴァルダンの城下屋敷に差し向けてくださったので、捕らえて砦の詳細を知ることができました。あの少人数でノイアートを向かわせることができたのも、シェイド様のお働きあってのことです」  サラトリアの言葉を聞きながら、ジハードは布に包まれた細い髪の束を見つめた。  経典を破いて作った暗号に、シェイド自身の事は一文字も入っていなかった。美しく伸びた髪を惜しげもなく切り取ったのは、脱出の瀬戸際でジハードに迷いが生じないようにと、形見として届けたのだろう。サラトリアはシェイドの意を汲んで、それを正しく使った。  いつでも――守りたいと思っていた。  北方風の外見のせいで向けられる悪意や蔑視。痩せた体に染み渡る王都の冬の冷たさ。そういった全てのものから盾となって守り、温もりと喜びを与えたいと思っていた。ウェルディの降臨と言われる自分になら、きっとそれができると信じていた。  だが、いざ危機に直面した時、ジハードを守ったのはシェイドの方だった。  思えば脱出の夜に兵舎の方が騒がしかったのも、塔から目を逸らさせるために、シェイドが何か仕掛けたのかもしれなかった。ただ一人の夜回り兵にも会わずに砦を出られたのは、運が良かったからではないのだろう。  そのシェイドは今頃――。 「国王陛下」  足元にサラトリアが威儀を正して膝をついた。その口から、思いもかけない言葉が飛び出した。 「シェイド様を取り戻すことが叶いましたら、あの御方をどうか私に賜りたく存じます」  ジハードは顔を伏せたサラトリアを凝視した。――いったい、この男は今何を言った。  顔を伏せているので、見えるのはウェルディリア貴族とは思えない、柔らかい明るい色の髪だけだ。見飽きるほど側にいた同い年の腹心を、ジハードは信じ難いものを見るようにまじまじと見つめた。  元は同じウェルディを祖としながら、祭祀を司る家として常に王家に寄り添ってきた一族の末裔。世に二人と居ない優れた斎姫の弟にして、今や若くして国王の右腕と目される公爵家の長子だ。臣下とも、友人とも思ってきた。  ずっと側に付き従いながら、自分からは一度も地位や見返りを口にしたことのない男だった。  それが――。 「祖父に連れられて初めて王宮入りした十の年に、あの御方に出会いました。一目お会いした日より、ずっと心を囚われているのです。陛下が構わぬと仰せであれば、どうぞ私に伴侶としてお与えください」  そのサラトリアが深く首を垂れて、初めて口にした望みがこれなのだ。ジハードはまるで見知らぬ男を見るように、呆然とその頭を見つめた。  十と言うなら、それはまだジハードがサラトリアがと出会うよりも前――シェイドを初めて目に留めた時よりも数年も前の話だ。それほど前からサラトリアはシェイドを見知っており、心を囚われていたというのか。  公爵家の長子であるサラトリアは、宮廷内で数々の浮名を流しながらも、生涯正妻を置くつもりはないと明言していた。血縁の中から才覚に優れた者を早々に養子に迎え、嫡子として届け出も済ませてある。それも一風変わったヴァルダンのやり方なのだろうと気にも留めなかった。まさか、それもいつの日かシェイドを手元に迎えるための布石だったのだろうか。  思い返せば、王宮の誰も行方を知らなかったシェイドの所在を突き止めてきたのは、このサラトリアだった。  サラトリアがシェイドを預かると口にするのも、これが初めてではない。父王を手にかけ、シェイドが腹違いの兄だと判明したばかりの頃、サラトリアは即座にヴァルダンに引き取る案を提示してきた。決して外部には漏らさず、王族として生涯丁重にお迎えするので、その身柄をヴァルダンに預けて欲しいと――。 「……シェイドが、承諾すると思うか……?」  呆然としながらジハードは尋ねた。  シェイドはこのサラトリアをひどく嫌っている。それは傍から見ていても明らかだ。王位簒奪の夜にサラトリアに騙されたことが尾を引いているらしく、信用できぬ相手だと警戒しているのがよくわかった。だからこそ、安心して白桂宮への出入りも許していたというのに。  だがサラトリアの答えは簡潔だ。 「シェイド様が私を蛇蝎のように嫌っておいででも構いません。私の方があの御方を愛しておりますから、生涯大切にいたします」  確信の籠った言葉に、足元が崩れていきそうな気がした。  シェイドを愛しているのは自分一人だと思っていた。まさか腹心のサラトリアがこれほどの想いを隠し続けて側にいたとは思いもしなかった。  ジハードは、ラナダーンの腕に抱かれていたシェイドの姿を思い出した。ラナダーンもまたシェイドに惹かれたのかもしれない。あの時シェイドは裸体に掛物を巻き付けただけの姿で、男の腕に抱かれていた。白いはずの頬は紅潮して目は潤み、声は叫んだあとのように掠れていた。きっとラナダーンはシェイドの白い肌を味わったのだろう。  シェイドの方もラナダーンを受け入れたのかもしれない。縋りつくように男の首に回された腕、首筋に顔を埋めて、二度と振り返りもしなかった後ろ姿。そうでなければ、あの奥手だったシェイドが敵に縋りつくような真似をするだろうか。  捕らえられたら、敵に協力する振りをしろと言ったのはジハードだ。例え自分が殺されてもシェイドだけは安全な場所にいて欲しいと願って、突き放すような言葉を投げた。あの言葉が、もしや迷っていたシェイドの心をラナダーンに傾けてしまったのではないか。 「もし、戻るのを拒んだら……?」  自分の事は何一つ記されていない、シェイドからの密書。もしかすると自分の事は忘れてくれという、訣別の意思を告げるものであったのではないかという恐れが、棘のように刺さっていた。  しかしサラトリアの答えに迷いはなかった。 「砦の者を皆殺しにして奪ってまいります。いつの日かお怒りが鎮まるまで、何時まででも償い続けます」  ジハードは深い息を吐いた。  もしもシェイドがラナダーンを受け入れたのなら、深追いせずにそっとしておくべきかという考えが頭をかすめていたが、サラトリアはそんなことは考えもしないようだった。サラトリアには確固たる自信があるのだ。どのような状況に陥っても、自分の想いが変わることは決してないと。  ジハードは揺れ動いてばかりだ。  初めは父王の奥侍従だと思った。容色が優れているだけで、中身はどうか知れたものではない。それでもあの肉体に触れたいという思いを抑えきれず、罠に嵌めて力づくで手に入れようとした。父の妾妃エレーナの愛人だと思った時にはただ腹立たしく、罰を与えて従えることしか考えなかった。  腹違いの兄だと知った時には、諦めるべきだと自分に言い聞かせ続けた。思い留まったのは、今にしてみれば偶然のようなものだ。タチアナと話すうちに、行きつけるところまで想いを貫いてみたいと思っただけのことだ。一年が経っても心開くことがないのなら、自分の手の内から解放してやらねばならないと考えていた。  ラナダーンがシェイドをどのように扱ったのかは定かでないが、ジハード自身がシェイドを大切にしてきたわけでは決してなかった。自分勝手な想いで振り回し、自分を好きになれと強要し続けてきたにすぎない。  ――だから、不安なのだ。  好意の見返りを求めているから、それが得られないのならば諦めるべきかと迷いが生じる。愛し返してもらえないのならば、愛し続ける自信を持てない。自分の気持ちに確信がないから、いつもこうやって揺れ動き続ける。  サラトリアに聞いてみたい答えは、もう一つしか残っていなかった。 「……もしも、死んでいたらどうする……」  口にするだけで胸が潰れそうだ。  何の罪とがもない、あの若く美しい異母兄が、その身に相応しからぬ古い朽ち城で、身分卑しい男に命の灯を吹き消されたかもしれない。虜囚を失った腹いせに、嬲られ、苦しみ抜いて死んだかもしれない。それも己が僅かな護衛で離宮に連れ出したせいで。  もしそうなっていたら、自分はいったいどうすればいいのか。  サラトリアが一瞬言葉を詰まらせた。この冷静な男でも、感情で言葉を詰まらせることがあるのだと、ジハードはどこか冷静な頭で観察していた。  一瞬の沈黙の後、サラトリアは絞り出すようにこう言った。 「……ご遺体を取り戻して参ります。いずれ私が入るべき墓にて、安らいでお待ちいただきたく存じます」  ――あぁ、この想いは本物だ。ジハードは思った。  そうだ。どんな変わり果てた姿になったとしても、手放すことなどできはしない。初めに心惹かれたのはあの見目麗しい姿にだが、今ジハードを捕らえて離さないのは気高く孤独な魂の方だ。  ミスルの離宮で、ジハードはシェイドに問いかけた。もしも自分が王でなくただの男だったら、少しは好意を抱いてくれたか、と。今思えば傲慢で無様な問いだ。王でなかったなら、ここにいるサラトリアのように触れることさえできなかったというのに。  だがそれは同時にシェイドの方にも言えることだった。もしもシェイドが何の特徴もない、ただの一人のウェルディリア人であったとしたら、ジハードはどうしていただろう。これほど心惹かれることもなく、触れ合うこともなかったのだろうか。  いいや、きっとそうではない。いつか必ずジハードはシェイドを見出し、その魂の穢れなさに触れて愛さずにはいられなかっただろう。ならば同じことではないか。  あの砦の中で、シェイドがどんな目に遭っていたとしても、何も変わらない。美しい姿を失い、下劣な男どもに肉体を汚され、誇りを打ち砕かれて心を壊し、目や耳も手足も、命さえも失っていたとしても、愛さずにいる理由にはならない。想いは自らの内から溢れるものであって、相手から与えてもらうものではないからだ。  驚くほど澄んで美しいあの魂と、自分の魂の欠けた部分がピタリと合う。シェイドの方がそうは思わなくとも、ジハードはシェイドを手にすることでしか魂の欠損を満たされない。失えば不完全さを永遠に抱いて、空虚なまま生き続けなくてはならないのだ。 「――褒章は、別のもので我慢してくれ」  シェイドを譲ることはできない。例えそれが右腕とも友人とも目してきた青年であっても。ジハードはそう宣言した。  サラトリアが顔を上げ、一瞬――今まで一度も見せたことのないような悔しげな表情を浮かべた。だが瞬きをするうちにその表情は掻き消え、柔和な面立ちは穏やかさを取り戻す。  腹の底を読ませぬ青年貴族は、承諾の証に深々と頭を下げた。  十年近い主従関係を持ちながら、ジハードはこの日初めてサラトリアの本性に触れた気がした。この男もまたジハードと同じく、生まれた時から己自身だけが主なのだ。  忠誠心厚く従っているように見せているが、己の信念と相反するときが来たなら、この男は一瞬の迷いもなくジハードから離れていくだろう。逆に王として相応しいと認める間は、惜しまず力を貸してくれるはずだ。  今のジハードにはそれが必要だった。 「グスタフ隊が到着次第、砦攻めの準備を始めよ。――指揮は俺が執る!」

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