38 / 64

第38話 戦神の血

 頬を撫でられる感触に、シェイドは目を開けた。  明るい部屋だ。開け放たれた窓からは、夜明け前の薄く青みを帯びた空が見えた。少し冷たい風が清浄で心地いい。  瞬きをしてその清々しさを味わった後、シェイドは頬を撫でる手の持ち主へと視線を上げた。野性的に整った顔を縁取る暗い色の髪。浅黒く日焼けした肌、慈しみを湛えた瞳――。 「…………ウェルディ」  シェイドの口から零れた名を聞いて、男が滲むように微笑った。 「光栄だが、そんな大層なものではない」  大きな掌が壊れ物に触れるようにぎこちなく頬を撫でる。その仕草でシェイドは相手がラナダーンだと気づいた。憑き物が落ちたように穏やかな顔で笑んでいるから、最初は誰だかわからなかったのだ。 「丸一昼夜も眠っていたが、具合はどうだ? 起きられそうか?」  武骨な指が頬から耳元へ伸び、髪をひと房掬い取って指の間を滑らせた。癖のない髪は指の間をサラサラと零れて首筋に落ちる。短く切られてしまったらしかった。 「汚れが取れそうになかったから切ってしまった。美しい髪だったのに、すまないな」  失った長さを惜しむように、何度も梳いて整えてくれている。これがもし黒髪であったなら、少しは惜しいと思ったかもしれないが、どのみち北方人の色でしかないのだから、長かろうが短かろうが大した問題ではない。  それよりも意外だったのは、ラナダーンが愛しむように髪に柔らかく触れることだ。初めて顔を合わせた時には北方人に対する蔑視を隠そうともしていなかったのに、驚くほどの変化だった。  シェイドの視線に気づいたように、ラナダーンは小さく笑った。悲しみの滲む微笑みだった。 「……私の母を産んだ女は、北方人だった」  ぽつりと、ラナダーンが語り始めた。 「母はウェルディリア人らしい黒髪と黒い目の持ち主だった。それゆえ、先王陛下の妾妃になることが決まった日に、その女は処分されたそうだ。どんな時にも微笑っているしかできない無学な女だったと、祖父から聞いたことがある」  淡々とした、感情の籠らない声だった。  シェイドは元は東方を守護する将軍であったマクセルの厳格な顔を思い出した。  北方人は家畜同然だと言い放ち、シェイドを人として認めようとしなかった老人が、北方人の女に自分の娘を産ませていた――。  娘が国王の妾妃に決まるまで、その女を手元に置いていたというのだから、なにがしかの情があったのだろう。娘が妾妃になることが決まり、奴隷同然の北方人から生まれたことを隠すために女を手にかけた時、老人はどのような気持ちだったのだろう。  そして、そうまでして得た男児が、黒髪と黒い瞳を持たないと知った時には……。 「母が私を身籠った時、王宮では生まれた赤子が王太后に捨てられるという噂があったそうだ。母は懐妊の兆しを感じるとすぐに自ら妾妃の座を辞し、ベラードに戻って私を産んだ。父王が内密にベラードを訪れたのは、私が生まれて一年後の事だったらしい。物心つかない頃で覚えていないが、私を見てこの青玉と経典を置いて行ったそうだ」  ラナダーンの耳を飾っていた大振りの青玉が、今は外されて掌の中だった。シェイドが中の紙を一枚破り取った経典も手の中に収まっている。――ベレスは残酷なことをしたものだと、シェイドは思った。  おそらくベレスは確かめに行ったのだ。妾妃が産んだ男児が何色の髪と目を持っているかを。  ともに漆黒ならば、王家の一員として迎えてやれる。だが、ラナダーンの瞳は黒ではなかった。髪の色は誤魔化せても、目の色はそうはいかない。連れて帰れば王太后カレリアに殺されるだけだ。だから青玉と経典だけを与えて、王宮からは放逐した。  けれど――。 「いつか第一王子として王宮に迎えられる。私は祖父にそう言われて育てられた。田舎育ちと侮られないよう、王都から最高の学士を呼んで、帝王学や外交術を身に着け、剣と馬を学び……。どれほど日に透かして眺めてみても、この青玉の中に星が宿ることはなかったというのに」  ベラードの一族が一縷の望みを捨てきれなかったのも仕方のない事だ。これほど見事な青玉が手元にあるのだから。  王家に迎える気がないのなら、ベレスは何一つ与えずに去るべきだったのだ。青玉は王太子の額を飾る星青玉に通じている。神聖文字で綴られた経典も、いつか王宮から迎えが来るという、あるはずもない希望を一族に抱かせたに違いない。  シェイドにとってベレスは王であり、父だと思ったことは一度たりともなかった。けれど今になって考えてみれば、ベレスは確かに親として、我が子であるシェイドを守ろうとしてくれていたのに違いない。  ベレスは実母であるカレリアに逆らってまで、化け物と呼ばれたシェイドを後宮で育てさせ、読み書きができるようになるとすぐに側仕えとして引き取ってくれた。王太子であったジハードとの間に確執が生じた時も、内侍の司という安全な場所に居場所を用意してくれた。もしもあの時王宮の外へ出されていたなら、シェイドは北方奴隷として生きていくことしかできなかっただろう。  同じように、ベレスはラナダーンを守ろうとしたのだ。明るい色の瞳を持つ者が王族として迎えられるのがどれほど困難なことか、ベレスにはよくわかっていた。だからこそ決して王宮には迎えず、黒い髪と目をもって生まれた三番目の王子であるジハードだけを唯一の直系男子として、王太子の地位に就けたのだ。 「……ラナダーン」  シェイドは手を伸ばしてラナダーンに触れた。腕を掴んで引き寄せ、逆らわずに身を屈めて来たラナダーンの頭を両手に抱く。シェイドはその頭を胸に包み込んだ。 「貴方は私の兄です」  静かに宣言する。  血の繋がりなど全く感じさせない二人だ。片方は髪と目の色さえ黒ければウェルディの再来、片方は生まれも知れぬ北方人の姿をしている。けれど全く違うこの二つの肉体には、半分だけ同じ血が流れている。  国の主であると同時に、一人の父親であろうとした男の血。――尊い神の末裔の血だ。 「……私たちは誇り高きウェルディの裔です」  胸元に顔を伏せたラナダーンの身体が、一度だけ震えた。  どんな血が混ざっていようとも、この身の内に流れる血の半分は建国の男神ウェルディから授かったもの。その事実は決して揺るがない。  誰に判じられる必要もないのだ。己が己の血に相応しいと思える生き様だけを選べばよい。己の血に恥じない生き方だけを、選べばよいのだ。 「シェイド……」  呻くように名を呼ぶラナダーンを、シェイドは両手で抱きしめた。  自分がどんなふうに生きるかは、もう決めてある。あとはラナダーンの決断を待つだけだった。  何か食べるものを取ってくると言って、ラナダーンは部屋を後にした。  シェイドはゆっくりと寝台から身を起こすと、掛布を巻き付けて注意深く立ち上がった。歩くと足が震えてしまい体の芯が痛んだが、動けなくはない。  この感覚は既知のものだった。半年以上前の嵐の夜に王太子だったジハードに破瓜された時と同じものだ。ならば耐えられる。  解放された窓にゆっくりと近寄り、全身に朝の風を受けた。冷たい清冽な風が心地いい。肩の高さで切られた髪が風に舞って頬を叩くのも、自由で身軽な気分だ。眠っている間にラナダーンが丁寧に清めてくれたらしく、肌はさらりとして、風を受けても嫌な臭いがしないのが嬉しかった。  窓からは城壁の上端と、雲一つない空が見えた。ここはラナダーンが使っている部屋のようだ。  身を乗り出すと、国王が居たはずの塔が見えた。シェイドはジハードが無事救出されたことを確信していた。そうでなければ、ラナダーンが何もかも悟り切った穏やかな様子で昔語りをするはずがないからだ。  それに、先程から城壁の向こうに大勢の軍馬の気配がする。ここから確かめることはできないが、逆賊を殲滅するための軍が攻め上がってきたのに違いない。――この砦はもうすぐ陥落し、地上から跡形もなく消えるだろう。  窓枠に凭れてその瞬間を待っていたシェイドは、扉の開く音に顔を振り向かせた。  足音でラナダーンでないということは分かっていた。そこにいたのは、老いた一人の元将軍だった。 「……ともに来ていただこう。城壁の外に国王の軍が来ている」  言葉遣いは幾分丁寧だった。見覚えのある上着とズボンが投げられた。ここへ連れてこられた日に奪われていたものだ。  それを確かめたシェイドは、視線で射竦めるように、力を込めた強い目で老人を見据えた。 「行ってどうせよと?」  低く落ち着いた声が出た。老人の顔に皮肉そうな笑みが浮かんだ。 「国王は、貴方の身柄を無事引き渡せば、罪を一等減じて斬首を免じるとの仰せだ。……随分うまく誑かしたものだ。逆賊の首を免じるとまで言わせるのだからな」 「――けれど、貴方は私の身を無事引き渡す気などないでしょう」  静かな断言に、老人の顔から嘲るような笑みが消えた。金泥を含んだ青い瞳が、老人の視線を捕らえた。 「貴方は私の存在が許せない。ラナダーンが目と髪の色を理由に玉座から遠ざけられたというのに、この姿の私が王位継承者として認められた。それは貴方にとって何よりひどい王家からの裏切りだったはずです。……貴方は決して、誇りを捨てて王に命乞いなどしない。私を殺して、その死体を国王軍の上に投げ落とすつもりでいるのでしょう」  朗々としたシェイドの言葉に操られるように、老人は一つ大きな息を吐いた。――そうだ、そうすべきだ、と。  今し方まで胸に燻っていた迷いが晴れていく。生きてさえいれば再起の目があるなどという甘い考えは、持つべきではないのだ。  先王ベレスに老人はすべてを捧げた。身を賭して国境を守り、大切に育てた娘を差し出し、そのために長年側に置いた愛妾さえこの手にかけた。  国母となるべき娘が卑しい北方奴隷の血を引いていると知れてはならぬ、そう告げたマクセルに、最後まで北方訛りが抜けなかった不器用な女は、笑みを浮かべて死んでいったではないか。今更無駄死にだったなどと言えるはずがない。  そこまでして得た長子を、王は我が子として迎えることなく崩御した。マクセルが捧げたものを、王はついに顧みなかったのだ。  ラナダーンが王位に就くという夢がただの妄執に過ぎないことは分かっていた。それでも強行したのは、これが復讐だったからだ。不遇の兄がいたことを知りもせず安穏と玉座に座るジハードと、長子の存在を秘したまま世を去ったベレス王への。  王位を得ることは叶わなかったが、復讐ならばまだ為せる。北方人の姿を持ちながら王族に迎えられた庶子に、家畜よりも惨めな死を与えることこそが、今の自分に為せる最大の復讐ではないか。 「……恨むなら、ベレス王を恨め」  目を座らせて近づいてくる老将軍を、シェイドは静謐な表情で迎えた。軽く顎を上げて首を差し出せば、皺深い手が吸い込まれるように絡みつく。声が出なくなる前に、シェイドは老人に告げた。 「貴方は私を恨みなさい。王家への憎しみは、残らず私、に……!」  言い終える前に指が喉に食い込んだ。老人とも思えぬ強い力だった。恨みと憎しみの全てを籠めて、骨ばった指が気道を扼し首を絞めあげる。――それでいいのだと、シェイドは思った。  死んで死体が投げ落とされれば、ジハードは城攻めを躊躇する必要がなくなる。情けに心を惑わされることもなく、反逆者どもを一人残らず殺し尽くすだろう。  ラナダーンとマクセル、アリア。シェイドがここでどのような扱いを受けたかを知る兵士たち。彼らはただ一人として戦禍を生き延びることはない。全てを闇の中に葬り去るには、もうこれしか方法がないのだ。  ……ジハード……。  シェイドは神の後継たる王の姿を脳裏に描いた。  あの腕に抱かれ、熱く想いを告げられた時の事だけを覚えておきたい。あれほど気高く雄々しい青年に、確かに愛された瞬間があった。そして人を想う気持ちなど持たなかった自分が、確かに誰かを欲し、何と引き換えにしてでも手に入れたいとまで願った瞬間があった。――それだけで、この世界に生を受けた理由には十分だ。  後はただ、安らかな死の闇の中へ沈み込むだけ――。  だが意識が遠のくより早く、喉を絞める手は離れて行った。  噎せながら目を開けたシェイドの前で、大柄な老人の身体が宙に浮き、風に舞い散る木の葉のように床に叩きつけられた。  首があらぬ方に捻じ曲がり、無念を湛えた双眸が光を失っていく。あっという間の出来事だった。 「……ニコ」  そこに立っていた無口な巨人を、シェイドは見上げた。  主君であるはずのマクセルを表情一つ変えずに葬り去った大男は、掴んでいた体を静かに床に置くと、岩のような巨躯を小さく縮めた。シェイドの前に膝をつき、床に着きそうなほど頭を下げて掛布の端を両手で取る。  その口から、思いもかけない言葉が紡がれた。 「――俺に望みをおっしゃってください。ファラスの御使い……」  ニコは神に恭順を誓うかのように、恭しく布に口づけした。  ここへ連れてこられた時の服を身に着けたシェイドは、小山のような大男の肩に担がれて城砦の階段を下っていた。  城砦の正門を守る跳ね橋を大木槌で打ち破ろうとする音が腹に響く。城攻めが始まったのだ。だがそれを迎え撃って出るはずの兵士の気配はほとんど感じられなかった。 「傭兵は散り、ベラードの領兵も半数以上が砦を放棄しております。どちらにせよ、ほどなくこの砦は落ちるでしょう。――貴方はどこへ行かれますか。どこへでも、俺がこの足でお連れ致します」  弱った体に響かぬようにとの気遣いか、切迫した状況だというのにニコの足取りは落ち着いている。シェイドは困惑して押し黙った。どうしてこの大男が自分を助けてくれるのかと。  その戸惑いを察したのか、ニコは胸元から細い鎖に吊り下げられた護符を取り出した。  かつてシェイドの首にかかっていたのと同じ、円の中に六つの角を持つ星を描いた、北方の民の守護神ファラスの護符だ。 「貴方は……!」  意外なものを目にして、シェイドは間近にある黒い頭と黒い目、浅黒く日焼けした大きな体を見た。ニコは少し笑った。 「若様の母君と俺の母は異父姉妹でした。俺は祖母の血を引く自分を北方人だと思っています。俺たちが従うのはウェルディの神ではなく、ファラスとその御使いのみ。――俺の本当の主は貴方です」  生粋のウェルディリア人にしか見えないニコの言葉に、シェイドは戸惑いを隠せなかった。だがその言葉には、確かに聞き慣れない北方の訛りが混ざっている気がする。  この東の地で、一人の北方人の女から生まれた混血の姉妹。一人は下僕の娘として生まれ、もう一人は領主の娘として生まれた。それぞれが産んだ男子は、一方はウェルディリア人としての完全な姿を持ちながら北方の神を崇め、もう一方は北方の姿を持ちながら誇り高いウェルディリア人であろうとし続けている。なんという皮肉だろう。 「ニコ……」  シェイドは盛り上がった肩に手をかけた。皮肉なことはもう一つある。完全なる北方人の姿を持ちながら、ファラスを何一つ知らない混血がここにいるのだ。 「私はファラスの御使いなどではありません。貴方が助けてくださる理由は何もないのです」  姿がどれほど御使いに似ていようが、シェイドはただの人間だ。誰かの主になるつもりも、その資格もない。  そう伝えようとした時、二人は階段を降り切って壁に囲まれた中庭に出た。  門を破ろうとする槌の音はますます大きく、分厚い木の軋む音がここまで聞こえてくる。ニコは外に出たところで足を止めた。 「俺は貴方の望みを叶えると自分で決めました。……言ってください、貴方は何処へ向かいますか。王様の元へでも、遥か北の大陸へでも、俺が足代わりになって何処へでもお運びします」  ニコの言葉は真摯で、確信に満ちていた。言葉の通り、この人並外れた巨人は、シェイドが望む場所になら、どこへでも連れて行ってくれるのかもしれない。  ――遥か北の大陸……。  それは大いなる誘惑だった。  自分と同じ姿を持つ人々に囲まれ、貧しくとも蔑まれることなく生きていく。そんな世界に旅立つことができれば、どれほど心が晴れるだろう。  けれど、シェイドにはこの地でやり遂げなくてはならないことが残っていた。 「……では、ラナダーンの元へ」  向かう先も進むべき道も、もう決めてある。迷いはなかった。  厩舎の入り口でラナダーンはこちらを向いて待っていた。  ここへ向かうまでの間に、城壁の内側で戦闘が始まったようだ。まだ槌の音は響いているが、別の経路から侵入を果たした一軍が砦の中に残った領兵と戦いを始めたのだろう。ラナダーンは足早にやってくる二人の姿を認めると、厩舎の奥へと足を進めた。  山裾にしがみつくように作られた厩舎だ。馬はすべて出払って馬房は空だった。  ラナダーンは先に立って進み、一番奥の馬房に入ると積み上げてあった藁を脇に退けた。藁の影から朽ちかけた小さな扉が現れる。開けて見ると山に向かって伸びる坑道が見え、奥からひんやりした空気が流れて来た。非常用の脱出路として用意されていた、古い道のようだ。  ラナダーンの装備は簡素だった。腰に長剣と短剣が一振りずつとあまり大きくない水筒が一つ、それに食料を詰めてあるらしい小さな袋。手には地下道を照らすための角灯を持っているだけで、防具はほとんど身に着けていなかった。 「……国王の元へは戻らないのか?」  坑道に入る前にラナダーンが問いかけた。今更戻るつもりはない。 「私は貴方と行きます」  その簡潔な答えでラナダーンは納得したようだった。  ニコから受け取ったシェイドの体を背に負って、ラナダーンは何処へ続くとも知れない暗い道を、灯り一つで進み始めた。  背後では砂袋を積み上げる単調な音が聞こえる。ニコはここに残って扉を守るのだろう。その音もだんだんと遠ざかり、やがて聞こえなくなった。  地下に入り始めると、地上の戦闘の物音は全く聞こえなくなった。門を破る木槌の音さえ止んだところを見ると、すでに正門は突破されたのだと思われる。今頃は国王の軍が砦中を制圧し、首謀者とシェイドの姿を探している頃だろう。マクセルの遺体はもう見つかっただろうか。  硬い岩盤を避けて掘られた坑道は曲がりくねっているうえ、ところどころ岩が崩れてひどく狭くなっていた。角灯の火が消えずに燃えている以上、どこか地上へは続いているのだろうが、どちらに向かって進んでいるのかももう分からなくなっていた。 「もし、無事に逃げおおせたら……私とともに生きてくれるか……」  緩い上り坂に息を切らしながら、ラナダーンが訊ねてきた。  シェイドはそれには答えなかった。遠く背後に大勢の人の気配が感じられるようになっていた。坑道の入り口が発見され、国王の軍が追いすがってきているのだろう。扉を守るために残ったあの忠実な巨人は、もう命を落としただろうか。 「……」  不意に、ラナダーンが足を止めた。  肩で息を吐き、角灯を高く掲げて先を照らす。背に負われたシェイドは、ラナダーンが掲げる小さな灯りを頼りに目を凝らした。光を吸い込むような闇の中、行く先の坑道が岩盤の隙間から伸びた木の根によって、まるで牢の格子のように塞がれているのが見えた。長年誰も使わず放置されていたせいで、この道はすでに脱出路としての役目を果たさなくなっていたのだ。  ここまでだった。  力が抜けたようにラナダーンが少し笑い、問いかけた。 「……この坑道のことも、知っていたのか……?」 「いいえ。……そうであればよいと、願いはしましたが」  シェイドの答えを聞いて、ラナダーンはもう一度笑った。そして背負っていたシェイドを地面に下ろすと、乱れた服を整えてやった。  小さな灯りに照らされた顔は、奇妙なほど静かだった。 「お前が願ったのなら仕方がない。なるべくして、こうなったのだろう」  坑道に反響する軍靴の音は徐々に近づいてきていた。ラナダーンは少しの時間も惜しむように、地面に膝をついてシェイドに寄り添った。 「神聖文字など読めないとばかり思っていた。それに、ヴァルダンの屋敷に星青玉の額環が隠されているという話も、偽りだとは思えぬほど詳細だった。私はお前を見た目で判断したせいで、最初から最後まで敗北続きだ。……ウェルディの戦の才は、案外お前が一番強く受け継いだのかもしれないな」  シェイドは、目覚めた時の憑き物が落ちたようなラナダーンの横顔を思い出した。  破り取られた経典に気付いた時、ラナダーンは誰が自分を罠に嵌めたのかを悟ったのだろう。あのまま殺されていてもおかしくなかった。なのに、ラナダーンは汚れた体を拭き清めて傷の手当てをし、ともに逃げようとこの坑道に伴ってくれた。 「お前の望みを教えてくれ。……最後くらいは、本当のことを教えてくれてもいいだろう?」  音が響くために判別しづらいが、追手はすぐそこまで来ているようだ。他愛もない問答をしている時間はもうなかった。  シェイドは手を伸ばし、ラナダーンが腰に挿していた短剣を手に取った。刃が厚くずしりと重いそれを、ラナダーンの手に握らせる。切っ先は自分の方へ向けた。 「私はジハードのために死にます。貴方を道連れにして」  それが、シェイドが選んだ道だった。  シェイドとラナダーンは、ジハードにとって負の遺産だ。二人にそのつもりがなくとも、生きているだけでその存在を利用され、今回のような状況を再び生み出す可能性がある。だから今ここで、禍根を絶っておかねばならない。  シェイドがジハードの心の中に住まうことができるとすれば、これが唯一の方法だった。  ジハードのために死ぬ。邪魔になる者を一人でも多く道連れにして、逆賊の手で無惨に殺される。生きて側に侍るには汚れすぎてしまったから、後は自分を始末して、清らかだった頃の姿を一日でも長く覚えていてもらいたい。それだけが望みだ。  惨めで浅ましい願いだが、今となってはそれ以上の願いはなかった。  迫る足音に急かされるように、シェイドは短剣の柄を握ったラナダーンの手を上から強く握った。  ラナダーンは自分を罠に嵌めた相手をその手で殺して復讐を果たし、ジハードはシェイドを殺したラナダーンを生かしておかない。万事が収まり、これですべてが終わる。 「……シェイド」  ラナダーンが笑みを浮かべた。  ジハードがシェイドによく見せた、慈しみの中にどこか一筋の悲しみを滲ませた微笑だった。  その表情に気を取られた瞬間、シェイドは首を掴まれ、後ろから羽交い絞めにされた。喉元に短剣の切っ先が突き付けられる。  抵抗せずに刃を受け入れようとした時、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。 「シェイドッ!!」  驚きのあまり、確かめるようにシェイドは目を見開いた。進んできた方向に追手の一団が見える。その先頭にいるのは、どれほど恋しく思ったか知れないウェルディの現身その人だった。 「……ジ、ハード……」  シェイドは名を呼び、それきり声を失った。  こんな穢れた体で、二度と生きて会うことなどできないと思っていた。だが顔を見れば嬉しくて懐かしくて、最後に一目会えてよかったという喜びが湧き上がる。  無事だった。大きな怪我も負っていないようだ。それが嬉しい。  姿を見れば欲が出る。もっとその顔を見ていたくなるし、その体に触れ、怪我のないことを確かめたくなる。  思わず手を伸ばしかけたシェイドの体を、羽交い絞めにしたラナダーンがぐっと引き寄せた。 「武器を捨てろ!」  シェイドの顔に刃を突き付けながらの怒号に、ジハードは迷いなく手に持っていた剣を落した。背後の兵士たちは戸惑いの表情を浮かべたが、それでも国王に倣って次々と武器を足元に置く。 「お前こそ剣を下ろせ。今すぐ人質を離して投降すれば、この名に懸けて命を奪うことはしない」  興奮させないためか、低く落ち着いた声でジハードが呼びかけた。  よく見ればジハードはまともな甲冑も身に着けず、胴当てと籠手だけの軽冑姿だった。狭い坑道を追うために装備を外してきたのだろう。国の主たる人間のやることではとてもなかった。逆賊に対して投降すれば死一等を減ずるとの通告も甘すぎる。国を治めていく者はもっと非情に徹しなければ、その命が危うくなるではないか。  今更ながら歯痒く思うシェイドの後ろで、突然ラナダーンがクッと笑った。 「……ふ、ふふ……は、ははは……ッ」  まさか命と引き換えに、最後に丸腰のジハードの命を奪うつもりなのではないか。そう危惧した瞬間、耳元でラナダーンが囁いた。 「――すまない」  短いその言葉の意味を問う暇もなく、シェイドの身体は荷物のように投げ飛ばされた。  飛び込んできたジハードが固い地面との間に滑り込んで受け止める。後ろに控えていた兵士たちが押し合いながら地に伏せた二人を超えて、ラナダーンに殺到した。 「道連れは不要!」  ただ一声、狭い坑道の中にラナダーンの叫びが鋭くこだました。  興奮と怒号が一気に高まり――、……暫くして、潮が引くように凪いで行った。  兵士たちの荒い息遣いだけが幾つも重なって坑道に響く。  ジハードに組み伏せられたシェイドの目の前に、錆びた匂いのする赤い流れが、一筋ゆるゆると流れ降りてきた――。

ともだちにシェアしよう!