39 / 64

第39話 番外 嵐の夜~サラトリア~

 細い悲鳴を聞いた気がして、サラトリアは顔を扉の方に向けた。  耳を澄ませてみたが、聞こえるのは雷鳴と窓に打ち付ける風雨の音のみだ。今の時期にこれほど激しい嵐に見舞われるのは珍しい。不吉なようにも思われるが、自分たちがこれから為すことを思えば、王宮で寝起きする者たちの耳目が嵐の方に向くのはむしろ好都合だった。  重く深い溜息が漏れた。  一瞬自分の口から出たものかと思ったが、そうではなかった。壁際に佇む文官が漏らしたものだ。 「申し訳ございません。……あちらがどうしても気になってしまいまして」  部屋中の人間の視線を浴びて、初老に差し掛かる年齢の文官は落ち着かない様子で頭を下げた。内侍の司の副長官ラウドだ。  奥侍従として先王に長く仕えたこの文官は、年経た今も崩れたところがなく端正な容姿をしている。少年の頃から十数年に亘って奥侍従であり続けたこの男は、年月が培った並外れた人脈と情報力で、早くから王太子ジハードの改革を支えてきた。身分や年齢の違いはあれども、サラトリアにとっては戦友のような存在である。  そのラウドが、扉の向こうをひどく気にしていた。 「怪我をしていないと良いのですが……」  いつもは落ち着き払って冷淡にさえ見えるラウドが、今夜は懸念を隠そうともしない。  サラトリアはどきりとした。  今夜は、後の世で歴史の分岐点だと語られるべき一夜だった。  王太子宮殿の一室にはサラトリアとラウド、そして二十人ばかりのヴァルダン家の私兵が武装して待機していた。  王太子宮に奥侍従として入宮したと見せかけて、サラトリアが伴ったのは隠密行動を専門とする私兵部隊の精鋭だ。彼らは側仕えのお仕着せを脱ぎ、今は王宮衛兵の制服を身に着けて腰には剣を差している。サラトリアも宮廷出仕用の礼服の下に鎖帷子を着け、腰に儀礼用に見える細工の美しい長剣二振りと、上着の内側には短剣を隠し持っていた。  ――今夜、王太子ジハードは密かに王の寝室に出向き、譲位を要求する。  国王ベレスが王太子の要求に耳を傾け、穏便に話し合いが済めばそれでいいが、同じような機会は今までに何度も持ち、そのたびに王太子は退けられ続けてきた。  ベレスの治世は腐敗し、退廃しきっている。今年の収穫期が訪れる前に実権が王太子に移らなければ、国力の回復は致命的に難しくなる。滅びが本格的に始まってからいくら嘆いても遅いのだ。――王太子は今宵、国王弑逆も辞さない覚悟だった。  何年もかけて下準備は整えてきた。この準備が無駄に終わればいいと、ここにいる誰もが願っていたことだ。だが、今日この日が来てしまった。  だが、その大事の日に、内侍の司の副長官が案じているのは、国の行く末でも明日の王権でもなく、扉の向こうにいるはずの上官の無事だった。 「……長く奥侍従を務められたのだから、よく心得ておいでだろう」  安心させるために口にした言葉は、果たして誰のためのものだったか。  言ったサラトリアも自らの口にした言葉に違和感を感じた。あれは本当に王の奥侍従だったのだろうか、と。  白い手袋に包まれた掌を見つめる。軽い体だった。  騙して王太子の寝室まで連れて行き、腕を掴んで室内に放り投げた時の呆然としたあの表情が忘れられない。目深に被っていた頭布が外れ、白い顔が露わになった。滑らかで肉の薄い頬、『あ』の形に開いた形良い唇。長い睫毛に縁どられた瞳は大きく見開かれ、宝石よりも澄んだ青の瞳がサラトリアを見つめていた。  最後に見た十年前より、さらに美しくなった姿で――。  十歳で早い元服を済ませたサラトリアは、当主であった祖父に連れられて王宮を訪れた。  王家と祖を共にするという祭祀の家。その特別な身分から、サラトリアは通常の宮廷人が足を踏み入れることを許されない奥宮殿に入ることを許され、祖父とともに王の私室を訪れた。  政治の場である表宮殿と違って、奥宮殿は王と王族の私的な空間だ。表ほどの豪壮さはなくとも、調度の一つ一つが贅を凝らしたものであり、侍女や侍従も礼儀作法をよく心得た地方貴族の子弟であることが多い。その中で、一人異色の側仕えが居た。  肩の高さで切り揃えた髪はほとんど色のない白金で、肌の色は乳白色。瞳は夜明け前の空のように深く澄んだ青――北方人だ。  この日までサラトリアは純血の北方人というものを見たことがなかった。素性の確かなウェルディリア人は、たとえ平民であっても黒い髪と目を持つものだ。明るい色の髪や目をした者は、この国では奴隷か盗賊と相場が決まっている。城下町でも王宮でも、こんな色を持つ人間が目に触れることは一度もなかった。  それなのに、王宮の最奥たる場所にこれほど純粋な北方人の特徴を備えた少年がいたとは。  目が自然と吸い寄せられ、見つめずにはいられない。磁器で出来た人形のように、驚くほど造作の整った少年だった。大きめの瞳は青い色硝子よりも深い色で、瞬きすると瞳の中に時折金色の煌めきが見える。細く通った鼻、淡い色の形の好い小さな唇は美しい少女のようだ。白い肌は人形のように見えて、内側にちゃんと血を通わせている。動くとうっすらと血の気が透けて、目元から頬が淡く色づくのがサラトリアの心を掴んだ。  なんと美しいのだろう。まるで天上から舞い降りて来た花の精のようだ。大神殿の壁に描かれた御使いにも似ていながら、遥かに可憐で愛らしい少年だ。  これが純粋な北方人というものか。  サラトリアは国王に元服の口上を述べに来たことも忘れて、魅入られたように側仕えの少年ばかりを見つめていた。  帰り際、祖父はサラトリアに耳打ちした。 「あの子は国王陛下の奥侍従だ。好きになってはいけないよ」 「……奥侍従?」  ああ、まだその話は早かったかと祖父は笑った。  奥侍従が何かは分からなくても、祖父の口調からあの美しい少年が国王の持ち物だということは察しがついた。ヴァルダンは古くから続く由緒正しい公爵家で、実りの良い広大な領地を管理している。大抵のことは自由になるが、王族の持ち物だけはどうにもならない。どんなに好きになっても、諦めるしかないのだ。 「……たくさん手柄を立てなさい」  気落ちしたしたサラトリアを慰めるように、祖父は穏やかに語った。 「政も語学も、剣も馬も腕を磨いて、みんながびっくりするくらいの手柄を立てなさい。そうしたら、そのご褒美に御下がりをいただけることがある。ずっと努力し続ければ、どんなものでも手に入れられる機会は巡ってくるものだよ」  我が家には、それだけの実績があるのだから――。  薄い茶色の目をした祖父は、サラトリアの柔らかい髪をくしゃりと撫でた。素性を知らないものからは、賤しい奴隷との混血ではないかと揶揄される髪の色が、今日は何か誇らしく思えた。  人の外見に拘らず、能力の優れた者だけを伴侶に迎えて来たヴァルダン家の者は、ウェルディリアの貴族とは思えぬ外見をしている。あの子もきっと、うちに来た方が楽しく過ごせるはずだと、サラトリアは思った。  あの時十歳の少年だったサラトリアは、昨日、王太子よりひと月早く二十五歳の誕生日を迎えた。  少女のように愛らしかったあの少年も、今頃はむくつけき男に成長しているのではないかと思っていたが、会ってみれば以前と変わらず、いやそれ以上に透き通った美貌の主に成長していた。袖ごと掴んだ腕の感触が今も掌に残っている。あんなに細くて軽いとは思わず、すっかり力加減を誤ってしまった。突き飛ばすだけでよかったのに、体は軽々と浮き上がり、床に放り投げてしまったのだ。あんな乱暴を働くつもりはなかった。  今頃、彼はどうなっているだろうか。  王太子の求めにはきちんと応じられただろうか。久方ぶりの奥仕えで、苦しんでいたりはしないだろうか。王太子はあるべき手順を踏んで、乱暴をせずにしてやっただろうか。――相手が王太子でなければ、寝室になど置いて来なかったものを。 「国王陛下の、奥侍従か……」  思わず言葉が口から零れ出ていた。  手柄を立てて国王からあの少年を譲り受けるはずであったのに、今では王太子派の筆頭勢力となり、国王とは対立する立場だ。今夜の話し合いが良い方向に収まれば、彼は王太子のものになり、新王として即位するジハードの奥侍従になる。サラトリアのものになる日はまだまだ遠い。 「あの方に奥仕えが務まったとは、とても思えないのですが……」  ふと不安になる一言をラウドが呟いた。  あれほど見目麗しい北方人が王宮内にいるのに、それ以外の用で迎え入れられたとは考えられない。けれどあの物慣れない雰囲気は、幼い少年の頃から閨に侍っていた奥侍従だと思うには、確かに違和感があった。  夜が更ける前には計画を決行するはずの王太子は、まだ寝室から出てこない。別れを惜しむあまりに離れがたいのだろうか。それとも――。  案じるように視線を向けた瞬間、扉が開いた。  国王に謁見するに相応しい礼装を身に着けた王太子ジハードが、迷いのない表情でそこに立っていた。納得のいく結果を得られたらしい。  少しばかり残念な気持ちを抱きながらも、サラトリアは気持ちを切り替えた。彼がジハードのものになったのならいっそ自分にとっては好都合だ。王太子に付き従う限り、いつか褒章の一つとして美しい奥侍従を下賜される日が来るかもしれない。何時その日が来ても良いよう、周到に準備をするだけのことだ。  ノイアートが差し出した剣を受け取り、サラトリアは両手でそれをジハードに捧げた。いざとなれば己の父親の首を落すための剣は、よく手入れされ研ぎ直されている。ジハードはそれを腰の剣帯に取り付けた。  窓の外の嵐はますます激しい。運命は王太子に味方している。 「行くぞ」  新しい時代が始まるための、運命の一夜が始まろうとしていた。

ともだちにシェアしよう!