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第40話 砦への帰還
走り続けていた馬車が停まった。
並走していた騎馬隊が馬の足を止めさせ、騎士たちが一斉に下馬する音が聞こえる。馬車の中でシェイドは静かに息を吐いた。――外に出なければならない。
馬車の扉が四つ叩かれる。シェイドは狭い座席から身を起こし、扉の前に立った。顔を上げて前を見据える。
許可を求める声に応えると、扉はゆっくりと外から開かれた。
扉の正面には国王ジハードが立っていた。
王としての威厳は損われていないが、その顔には疲労が色濃く滲み、表情は痛みを耐えているかのように固い。それを目にするのが辛くて、シェイドはあえて遠くを見つめた。高台に停めた馬車からは、城壁の向こうに傾いていく夕日が見えた。
「足元にお気をつけください」
扉のすぐ横に立った将校が支えとなるよう肘を差し出していた。中肉中背の、これと言った特徴のない壮年の男だが、見覚えがある。サラトリアが奥侍従として王太子宮へ入る夜に、ともに宮に入る側仕えの従者として、控えの間に居た一人だ。
確か坑道の中では軽冑を身に着けて、ジハードの後ろに従っていたはずだ。籠手は血と泥に汚れ、頬には返り血を浴びている。
見渡せば、砦の前庭を埋め尽くす騎士たちは、どの顔も泥や土埃に汚れていた。返り血を浴びた者は勿論、中には負傷して軍服を赤黒く染めている者もいる。重傷を負ったものは現地に残って手当てを受けていたので、ここにいるのは無傷のものか軽傷者だけだ。無数の目が馬車の入り口に立つシェイドを食い入るように見つめていた。
死地を潜り抜けた騎士たちの視線は厳しい。彼らは王兄を助けるために命を賭し、馬車の中の相手がそれに見合う人物であったかどうか見定めようとしているように感じられた。死に損なったことを悔いていても、今はそれを見せるべき時ではない。
「……逆賊から助け出してくれたことに感謝します。勇猛に戦い負傷した者たちを、よく労ってやってください」
シェイドは肘を差し出して待つ将校に、王兄として言葉をかけた。無表情だった男の顔に、虚を突かれたような感情の揺らぎが浮かび上がる。だがそれは一瞬のことで、男は直ぐに元の無表情に戻って深々と頭を下げた。
「お褒めの言葉をいただき、光栄に存じます」
それに軽く頷き、シェイドは顔を上げて馬車を降りた。砦の入り口からはドルゴ・グスタフが走ってくる。足を踏み出すと眩暈のようなものを感じたが、それを堪えて歩き出した。
体中が痛み、膝には力が入らない。けれどここで無様を晒せば、尊い血を持つ王族のために戦った者たちが報われず、ひいては戦いを命じた国王への不信に繋がりかねない。今は王兄の身分に相応しい立ち居振る舞いをしなくてはならないときだった。
ドルゴに案内されたのは、往路にも休息の場所として提供された貴賓用の一室だった。
フラウに促されるまま長椅子に腰を下ろすと一気に体の力が抜けてしまい、そのまま椅子の上に倒れ込みそうになる。身も心もどうしようもないほど疲れていて、いっそ永遠に眠ってしまいたいと願ったが、まだそうはいかないようだった。
「シェイド……」
戸惑いを隠しきれない様子で、ジハードが長椅子の端に腰を下ろした。二人の間にできた人ひとり分の空間を、シェイドは悲しい気持ちで見つめる。
エスタート旧砦から移動するときに馬車への同乗を拒んで以来、ジハードはシェイドにどう接すればいいのかわからないようだった。かつてなら迷いもなく肩を抱き寄せただろうに、今は傍に寄り添って座ることさえ出来ない。衝動のまま誤って手を触れてしまわぬよう、拳を握りしめているのが見えた。
腫れ物に触れるような、遠慮がちな声でジハードが言った。
「……少し早いが、今日はこのまま一晩休もう。お前の体調に問題がなければ明日出立しようと思うが、どこか怪我をしたり具合の悪いところはないか」
思わず涙が滲みそうになって、シェイドはそれを堪えるために眉を寄せた。
今ではもう、何年も前の事のように思い出される。
王都ハルハーンを馬車で出立し、初めてこの砦にやってきた時、シェイドの胸は悲しみで圧し潰されそうだった。どうしてこんなに心が苦しく、涙が溢れて止まらないのだろうと不思議だったが、今ならばその理由がわかる。
ジハードに惹かれていたからこそ、一言もなく放り出されたことが悲しくて寂しくて仕方がなかったのだ。それゆえに、夜風の冷たさを纏ったままのジハードがこの部屋の扉を開けて駆け寄ってきたとき、言葉にできないほど嬉しかった。
この王のために全てを捧げようと思ったのは、臣下としての忠誠心からではない。ジハードの情愛で心が満たされ、幸福を知ったからだ。抱き合ってジハードの鼓動に包まれれば、胸の内が温かい思いで満たされた。永遠にこうして抱かれていたいとも思った。
それが、今はなんという違いだろう。たった半月ほどの間に、ジハードが側に居ることをこれほど辛く思うようになるとは。
「……王都へは、戻りません」
自らの決意を確かめるように、シェイドは低い声ではっきりと口にした。
「ハルハーンへは、陛下お一人でお戻りください。私は戻りません」
「……シェイド……」
ジハードの声が震えたのが分かったが、シェイドはそちらを見なかった。見れば決意が鈍ってしまう。
砦で穢されたことを知られたくない。胸に奴隷の証がついているのを見られたくない。
国王の側にはもういられない。どこかに隠遁し、忘れ去られた頃静かに消えなければ。それ以外にもう道は残されていない。
「駄目だ、シェイド。お前が戻らないというなら、俺もここにいる。お前がなんと言おうと、俺はお前を置いていかない。絶対にだ」
幾分身を乗り出して、ジハードが言い募った。
どこかで聞いたような問答だ。シェイドはそれを思い出し、苦く笑った。
ジハードはいつも眩しいくらいに真っすぐだ。この言葉もきっと本心からのものだろう。
けれど、あの砦の中で起こったことを全て知れば……。この左胸に奴隷の証が付いているのを見れば、決してそうは言わないはずだ。不貞者、北方娼婦と罵って、鞭で追い立てるに決まっている。
相応の罪を犯したのだから、罰を受けるのは当然のことだ。だが、怖ろしくてとても口に出せない。王という以上に、一人の人間として愛してしまったからこそ、ジハードには知られたくない。蔑みの目で見られたくなかった。
「シェイド」
振り返りもしないシェイドに焦れたように、ジハードが手を伸ばした。
二人の間に存在する見えない壁を打ち破り、手がシェイドの肩にかかる。――その途端、シェイドの口から鋭い悲鳴が迸った。
「……――ッ! 触らないでくださいッ」
全身の毛が逆立つ感覚に、シェイドは弾かれたように立ち上がった。立った瞬間、眩暈と息切れに襲われる。長椅子を離れてよろめくシェイドを、ジハードが慌てて追ってきた。その手が肩に触れようとした瞬間、総毛立つような嫌悪感が全身を駆け巡った。
「やめて! 私に触らないでください!」
自分の体を自分で抱きかかえるようにして、シェイドは床に座り込んだ。体が震え、血の気が下がって息が苦しい。
相手はジハードだと分かっているのに、何本もの腕に引きずられ、押さえつけられた恐怖が蘇り平静を保てない。耳の奥にいくつもの幻聴が響いた。淫らな北方娼婦だと嘲る声、憎しみの籠ったアリアの声、恨みを押し隠すマクセル。一人で消えていったラナダーンの声に重なり、最後にはベレスの寝室で出会った若き王太子の糾弾する声に重なる。
――『薄汚い娼婦め!』
胸が痛かった。左の胸には、自分の本性を曝け出す丸い小さな金属の札が付いている。もしもこれをジハードが知られたら……。
「……ッ……ハァッ……ッ……」
怖くてまともに息ができない。喉を掻き毟ったが、楽になるはずもない。吸っても吸っても水の中でもがいているようで息が詰まる。
「殿下! 息を整えてください!」
フラウが叫ぶのが聞こえた。シェイドはもどかし気に首を振る。
整えようとしているのだ。恐怖に引き攣った姿など見せたくない。こんな姿を見せれば、いったい砦で何があったのかとジハードに不審がられる。
……いや、きっともうジハードは知っているのだ。アリアの口から聞いて、何もかも――。
「殿下!」
ヒュウヒュウと喉が鳴るのが分かった。懸命に息を吸っているのに、どうしてこんな音が鳴ってしまうのか。早く息を整えて音を消したいのに、吸えば吸うほど目の前が暗くなり、眩暈がひどくなってしまう。気が、遠くなる……。
「……!」
――突然、頭からバサリと掛物が被せられた。蹲った体が布にすっぽりと包まれる。
布一枚で外界から遮断されるのを感じると、突き刺さるようだった視線がいくらか和らいだように思われた。
「この部屋から出ていってください! 今すぐに!」
常にもない激しい声で、フラウが怒鳴るのが聞こえた。シェイドは痺れる手で布を掻き合わせ、息を整えようと懸命になった。走り続けているかのように息は苦しい。まるで毒を吸っているかのように、吸えば吸うほど苦しくなる。手が痺れ、眩暈が止まらない。
「……シェイド様、私をご覧になってください」
扉まで誰かを追い立てて部屋から出したフラウが戻ってきた。毅然とした声で命じられるが、苦しくてそれどころではない。
俯いたまま床を見つめるシェイドの前に、馬乗り用の長靴を履いたフラウの両足が見えた。その足元にバサバサと音を立てて服が脱ぎ落される。
「お顔を上げて。私の体を見てください」
静かで強い声だった。
シェイドは息を荒げたまま、ほんの少しだけ顔を上げ、深くかぶった布の隙間からフラウの方を見上げた。
北方人との混血を思わせる、色白の肌が見えた。服を着ていた時にはわからなかったが、その体には無数の傷が残っていた。シェイドは思わず息を呑んで、視線を上にあげた。
若々しいフラウの身体は古い傷痕で埋め尽くされていた。腕や手首には皮膚を失うほどきつく縛られてできた傷が。胸元や下腹にはいくつもの小さな火傷の跡が。斬られたような傷も薄く残っている。
そして、視線を落した下肢の状態にシェイドは違和感を覚えた。成人した男性だというのに、その部分はほとんど無毛で、少年のようにささやかな性器があり、中身を失って委縮した小さな皮膚のたるみがあった。
呼吸するのも忘れて、シェイドはその体を凝視した。
「シェイド様……」
フラウは、無惨な傷痕を晒しているとも思えぬ、落ち着いた声で語り掛けた。
「王宮に迎えられる前、私は最下層の娼館におりました。売り物になる期間を長くするために、幼い頃に体の一部を潰されて、男としては機能しません」
両手に衣服の最後の一枚を握りしめながら、フラウは淡々と告げた。
「けれど、今は自分の運命に感謝しています。国王陛下はこんな体の私だからこそ、貴方様にお仕えする侍従に選んでくださいました。娼館に居たことを蔑まれたことは一度もありません。国王陛下は信頼に足る御方です」
声を発することもできずに、シェイドはただ息を詰めてフラウの言葉を聞いた。いつの間にか、息苦しさの事はすっかり吹き飛んでしまっていた。
フラウはシェイドが落ち着くのを待っていたかのように、脱ぎ落した衣服を元通り身につけ始めた。平静なように見せかけているが、手が震えて釦をなかなか止められないのが見えてしまう。本当に平静でいられるわけなどないのだ。
シェイドは唇を噛んだ。これほど辛い過去を、フラウに思い出させてしまった自分の不甲斐なさが腹立たしい。
北方人の血を引いて生まれたために、フラウは幼い頃から過酷な運命を味わってきた。それでも彼は自らの足で立ち、ウェルディリア人に囲まれた王宮の中で侍従としての己を確立させている。それに比べて自分はどうだ。
ぬくぬくと守られて育ったせいで、哀れになるほど打たれ弱い。多くの同胞が否応なしに受け入れてきた暴力を、自分だけは耐えられぬと、フラウの前で言うつもりなのか。
「お怪我はなさっておられませんか」
元通り服を着終えたフラウが、いつも通りの穏やかな口調で尋ねて来た。シェイドは無言のまま、俯いて首を横に振った。フラウが受けた仕打ちに比べれば、こんなものは怪我の内にも入らない。
「ようございました。では、湯浴みのご用意をいたしましょうか。香草を多めにお入れしてご用意させます。手足が温まれば少しご気分も良くなられて、今日はぐっすりとおやすみになれますよ」
このくらいで人間はどうにかなりはしないのだ、大丈夫だと、優しい声でフラウが告げる。フラウに言われれば、本当にその言葉の通りになるような気がした。
頷くと、フラウはすぐ戻るからと湯浴みの手配をしに部屋を出て行った。シェイドは床に蹲ったまま、被った布を両手に握りしめた。呼吸もいつの間にか元通りに戻っていた。
辛いのは自分だけではない。
けれど、それが分かったからと言って、辛さが和らぐわけではない。
知らず滲んでいた涙を手の甲で拭った時、シェイドは誰かが部屋に入ってきた気配を感じ取った。
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