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第41話 密約

 室内に誰かが入ってきた気配がした。フラウが湯浴みの準備を整えたにしては早い。もしや国王かと思ったが、それにしては足音に荒々しさが感じられない。  俯いたシェイドの視界に入るのは砂埃に汚れた長靴だけだった。フラウのものでないのを見て確かめると、シェイドは警戒するように両手の布を握りしめた。頭の上から落ち着いた声がかけられた。 「どうぞ、椅子にお掛けください王兄殿下」  その声を聞いて、シェイドは入ってきたのがサラトリアであることを知った。優し気に聞こえるが、相変わらず腹の底で何を考えているのかさっぱり読めない声だ。  命令されるいわれはないと、聞かぬふりでじっと蹲っていると、サラトリアが脅すように言葉を続けた。 「それとも、私がこの手で抱き上げて椅子へお連れ致しましょうか」  シェイドは掛布の下で眉を寄せた。――サラトリアのこういうところが、どうしても好ましく思えないのだ。  触れられることを嫌がると知っていて、搦め手で意のままに操ろうとしてくる。言うなりになるのは不本意だったが、サラトリアはやると言ったら本当にやりかねない男だ。王太子だったジハードの寝室に投げ込まれた衝撃は、今も忘れることができない。シェイドは重い体を起こして、無言で長椅子に戻った。  頭からすっぽりと布に包まれていると、かつて姿を覆い隠していた文官の頭布を身に着けた時のように、少しは平静な気持ちを保っていられる。直接視線を浴びなくて済むのがいいのだろう。今はサラトリアの視線に耐えるだけの気力も体力も残っていなかった。 「まず、この度は国王陛下の救出にご尽力いただき、感謝いたします。陛下が無事に脱出を果たされたのは、ひとえに貴方様のお働きあってこそ。お見事と申し上げるほかございません。まことに感服いたしました」  歯の浮くような称賛の言葉が次々に浴びせられた。これが宮廷式の社交術というものなのだろう。シェイドはサラトリアに知られぬように、密かに溜息をついた。そんなことを言いに来たのなら早く出て行ってもらいたい。疲れ切っていて、早く一人になりたいのだ。  けれどそれを口に出して言うことはできない。王兄と臣下と言う身分の差があるとはいえ、こちらは名ばかりの王族で、あちらは押しも押されぬ大貴族の長子だ。それに、初対面の時から一度もいい印象を持てない青年貴族だが、ジハードが王権を維持するために代えがたい存在であることは間違いない。難しい状況の中で最善の方法を選び取り、国王を無事に救い出してくれたことにも感謝の念を抱いている。  サラトリアと顔を合わせるのもこれが最後と思えば、互いに蟠りを残すのは好ましくない。今までの礼くらいは述べておくべきだろう。 「……子爵こそ、迅速に対応してくださり、感謝いたします」  布を頭からかぶったまま、申し訳程度の会釈をする。これで会話は終わるはずだった。  ――サラトリアが続く言葉を言い出さなければ。 「恐悦至極に存じます。――それでは、王兄殿下。貴方様の手足となって働いた臣下に、是非褒章をお与えください」  長椅子の前で胸に手をやって跪いた青年を、シェイドは信じがたいものを見る目で見遣った。  何を言い出すのか、この青年は。  そもそもジハードが囚われたこと自体が、今回の旅に全面的に協力したはずのサラトリアの失態だ。日程も経路も漏れており、護衛の数は少なすぎた。第一、国王が宮廷に内密で王宮を空けるなどということに協力すること自体が間違っている。まともな臣下ならば、王の不興を買ってでも諫めるべきところだろう。  合わせて二十ほどの非難する言葉が頭の中に溢れたが、シェイドは緩く息を吐くことでそれを音にするのを諦めた。  いくら言葉を尽くして非難しても、この強かな青年は痛くも痒くも思わないだろう。蛙の顔に水を掛けるほどの効き目もない。ただ自分が疲れてしまうだけだ。  無言のまま、シェイドは拒絶するように顔を背けた。  その仕草のいったいどこをどう見れば、そのように解釈できたというのか。サラトリアはわざとらしいほど明るい声を上げた。 「願いをお聞き届けいただけたようで、感謝いたします」  誰も聞き届けたなどと言っていない。シェイドがそう声を上げるより早く、狡猾なサラトリアは言い放った。 「実は我がヴァルダン家より、国王陛下に新たな妾妃を献上致したいのです。この度の褒章として、王兄殿下に是非ともこれを後押ししていただけるよう、伏してお願い申し上げます」  その願いを聞いたシェイドはゆっくりと顔を上げ、目の前で跪く青年を見つめた。  こちらを見上げるやや色白の顔は、柔和で優し気な雰囲気を備えている。  荒々しく野性的なジハードと違って、サラトリアは貴公子然とした穏やかで気品ある佇まいをしていた。そもそもヴァルダンは、貴族にしては珍しく様々な異国の血が入っており、北方人の血も決して薄くはない。それでも決して下賤には見えない。  明るく柔らかい褐色の髪と、榛色の不思議な色の瞳。これだけ異質な風貌を持ちながら、王宮内でサラトリアを侮る貴族は一人もいない。弱冠二十五歳の青年貴族が余るほどの財と権力を握っていることを、知らぬものなどいないからだ。 「王都へ戻る条件として、国王陛下に新たな妾妃をお迎えくださるようお伝えください。それだけで結構です。陛下に世継ぎの王子が必要であることは、王兄殿下にもよくご理解いただけているものと存じますから、否やはございませんでしょう」  畳み込むようなサラトリアの言葉に、シェイドは声を出せなかった。  そうだ。確かにジハードには世継ぎの王子が必要だと、以前からずっと考えていた。妾妃を迎えるようにと進言したことも一度では済まない。世継ぎの決まらぬ王権は弱い。すでに新王の座に就き、二十五歳という男盛りに差し掛かる国王に、嫡子どころか実子が一人もいないという方が異常なのだ。  サラトリアの提案は、シェイド自身も常々必要だと思っていたことだった。その妾妃がヴァルダンの姫であることにも否やはない。今やヴァルダンなくして宮廷を掌握することは難しいのだから、いっそ世継ぎの王子もヴァルダンの姫に産ませれば、権力が一点に集中し余計な政権争いを起こさせずに済む。長い目で見れば問題もあるが、今はこれが最善だろう。  頭ではよくわかっていることだ。――なのに、声が出ない。凍り付いたように、表情が動かせなかった。 「貴方様には国王陛下の兄君として、何不自由ない生活をお約束いたします。王妃としての生活にお戻りになることをお望みではありますまい。今後はご兄弟として、あるべき姿に相応しい日々が送られるようお力添えいたします。どうぞご安心ください」  ――兄弟としてあるべき姿。  布を握った手が小刻みに震えるのをシェイドは感じた。  喜ぶべきことではないかと、冷静な自分が囁く。  この穢れた体を知られることもなく、ただの兄弟として迎えられる。肉親ならば、側にいることに何の不自然もない。兄としてジハードの治世を見守り続けることができる。少なくとも王妃の替え玉として、いつ首を刎ねられるかと思いながら生きていくより余程いいし、何よりジハードには世継ぎの王子が必要だ。頭ではちゃんとわかっている。  それなのに手は震え、声は出ないのだ。 「今すぐのお返事は必要ありません。私は明日、陛下とともに王都へ帰還いたします。王妃タチアナの葬儀は済ませておきますので、次に王都へ戻られるときは国王陛下の唯一の肉親、王兄シェイド・ハル・ウェルディス殿下としてお入りください」  悪意の欠片もない穏やかな笑みを浮かべ、サラトリアは深々と一礼した。  ちょうどその時、湯浴みの桶を抱えたフラウが部屋に戻ってきた。フラウもサラトリアが来ているとは知らなかったらしく、一瞬驚いた表情を見せた。だが、すぐに毅然とした態度で『殿下が湯浴みをなさいますので、ご退室願います』と告げ、追い出しにかかった。一介の侍従長が公爵家の人間に取るべき態度ではないが、サラトリアは特に不満そうな様子も見せず、湯桶を抱えて次々と入ってくる従者たちと入れ違いに部屋を出ていった。 「……子爵様は何かおっしゃっておいででしたか……?」  無表情のまま小刻みに手を震わせているシェイドを見遣って、フラウが心配そうに尋ねてくる。  何でもない、と首を横に振って答えた。  今のやり取りにすっかり喉が詰まってしまって、声は暫く出せそうにもなかった。  ――ほどなく、王妃タチアナの死が宮廷に伝えられた。  重い流行病を患ったゆえの死だったため、遺体を収めた棺は厳重に封をされ、葬儀の場でも開けられることはなかった。代々の王族が眠る墓地の一角に、その棺は国王ジハードの正妃として丁重に葬られた。  その同じ病に倒れていたという国王は、およそ二十日ぶりに宮廷に姿を見せた時には、面変わりするほど窶れていた。憔悴しきったその様子は、この結婚がただの政略結婚ではなかったことを宮廷に知らしめた。  王都の民もまた、雪の女王のような花嫁衣裳で王家に嫁していった美貌の王妃を忘れてはいなかった。僅か半年にも満たない蜜月で妃を亡くした国王にも哀悼の意を示し、二日間にわたる国葬を終えた後も、大神殿には花を捧げる民が列をなした。  その国葬を終えた翌日、国王は重臣を集めた御前会議の場で二つの通達を行った。  一つ目は、世継ぎを得るために新たに妾妃を迎えるつもりであること。もう一つは、王室直轄地で療養していた異母兄シェイド・ハル・ウェルディスを、第一王位継承権を持つ王兄として王都へ迎えることだった。  この二つの報は続けざまにもたらされたため、貴族たちの関心は新たな妾妃の選出に集中し、王兄の存在が話題に上ることはほとんどなかった。  王都の遅い春が一斉に花を咲かせる頃、北方の血を引くという王兄は密かに王都に入り、かつて病弱な王妃が暮らした白桂宮を仮の住まいとした。  その後、宰相位にあったネイゼル・ヴァルダンが隠遁したため、空位となった宰相には王兄シェイドが任ぜられることになった。また、ヴァルダン公爵家は長子サラトリアが家督を継いで当主となった。  ――金の髪を持つ少女が新たな妾妃候補として王宮入りしたのは、白桂宮に咲く『シェイド』の花が、まさに満開を迎えようという季節の事だった。

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