42 / 64

第42話 フィオナ

 書き終えた手紙に砂を振りかけてインクが乾くのを待つ間、シェイドは青々と茂った木々の葉を書斎の窓越しに見つめていた。  初めてここへ連れてこられたのは真冬の頃だった。すべての窓には鎧戸が嵌められ、冷気を遮るために厚い帳が下ろされていた。外の景色を眺めることもできず、奥宮殿へと通じる扉には鍵が掛けられ、まるで牢獄のようだったのだと、今ならば思う。  冬の間中ずっと、シェイドはジハードに所有されていた。  一人でいられたのは、朝早い時間に浴室で前夜の汚れを流す時くらいではないだろうか。ジハードは政務の合間を縫ってたびたび白桂宮に戻って来ては、昼でも夕刻でも構わずシェイドを所有した。  食事の席がそのまま戯れの場に変わり、従者たちが視線を交し合って出ていったことも数え切れないほどあった。夜眠る時もジハードの腕の中なら、その腕に抱かれて見る夢の中でさえ、ジハードはシェイドを激しく征服し、片時も離してはくれなかった。  苦しくて、逃れたくて――。いつ解放されるのかと、指折り数えた夜明けもある。あの頃は、冬が終わる前に解放されるのだと信じていたから、この宮の中庭が青々と葉をつけた光景を見ることになるとは想像もしなかった。  日ごと夜ごとの抱擁。温かい腕に抱かれて眠ることが心地よいのだと知ったのは、いつの頃だっただろう。飽かず囁かれる睦言が、まるで子守歌のように聞こえるようになったのは……。  ミスルへの旅路で、シェイドは生まれて初めて愛されることを理解し、自らもまた誰かを愛することができるのだと知った。だがそれは、愛を失う悲しみと同時だった。  もっと早くに気付いていれば、何かが変わっていたのだろうか。  書斎の扉が叩かれ、シェイドはハッとなって物思いから立ち戻った。返事をしながら、広げたままだった手紙を手早く畳む。それを本の間に挟んで、シェイドは来客を告げるフラウに入室の許しを与えた。  入ってきたのはまだ若い小柄な女性だ。 「……ご機嫌よう、フィオナ様」 「ご機嫌よう、王兄殿下!」  溌溂とした声とともに入ってきたのは、このほど国王の奥侍女に迎えられたフィオナ・ヴァルダンだった。国王の右腕と目される若き公爵が王宮に送り込んできた、蜂蜜色の髪と榛色の瞳を持つ十五歳の少女だ。 「養父から、王兄殿下にお使いいただければと、こちらを預かって参りました」  彼女は一抱えもある大きな包みを両手に抱えたまま礼を取ると、弾むような足取りでシェイドの前にやってきた。  サラトリアの養女であるフィオナは、元々はヴァルダン縁戚筋の地方領主の娘だ。貴族とは名ばかりの平民とほとんど変わらぬ生活を送ってきたためか、素朴で率直な性格をしている。それに、いかにも健康そうだった。  大きな明るい色の瞳に物怖じもせず見つめられ、シェイドは視線を逸らして頭から被った大振りのベールをそっと掻き寄せた。 「乗馬用の一式だと聞いております。開けてもよろしいでしょうか」  手紙を書いていたテーブルの上に荷を下ろすと、期待に満ちた視線でフィオナが尋ねてきた。駄目だなどとはとても言い出せそうにもない。考えるより早くシェイドは頷いていた。  フィオナはまるで自分がそれを受け取ったかのように、目を輝かせて包みを解き始めた。隠すこともない素直な感情の発露は、余人を寄せ付けない性質のシェイドでさえいつもの調子を狂わされる。  包みを開けたフィオナから歓声が上がった。 「わぁ……素敵! なんて手の込んだ刺繍でしょう!」  包みの中の上着を広げて振り返る彼女に、シェイドは僅かに口角を上げて頷いて見せた。  あの策謀家のサラトリアが、北方人風の田舎娘を養女にまで迎えたのはこの明るさだろう。作法にうるさい宮廷人には眉を顰められるだろうが、曇りのない声と表情は回りにいる者の気持ちをも明るくさせる。ジハードが負った心の傷も、彼女が側に居れば直ぐに癒されるはずだ。 「長靴も革が柔らかくて……足首がしっかりしているので、これなら怪我をしません」  靴底まで検分して、フィオナはシェイドの前に乗馬用の長靴を揃えて置いた。履いてみろと言うことらしいが、シェイドは気づかぬ素振りでそれを脇に退けた。フィオナは不満そうに言葉を続ける。 「陛下の誕生祭がもう来月ですね。今年は王兄殿下も騎乗して大神殿まで赴かれるのでしょう。少し体を慣らしに、これを履いて王宮の馬場まで行かれませんか」  期待に満ちた視線から、シェイドは目を逸らした。 「……いいえ、今度にしましょう」  国王ジハードは、一年の内で最も暑い季節に生まれた。  昨年は王位継承などの儀式などが立て込んでいて、結局見送られたのだが、今年は宮内府の儀典通り国王誕生祭を執り行うらしい。ただし先王の時代と違って王宮晩餐会は行わず、大神殿での祝賀の儀のみとなる。王兄であるシェイドもそれに参列するよう求められていた。  誕生祭では国王ジハードとともに、騎乗して大神殿へと向かう。婚姻の儀の折に馬車で通ったあの道筋だ。馬に跨るとは言っても、前後両脇を近衛兵の隊列に守護され、馬の手綱は馬丁が握る。何も心配はいらないと国王は説明した。だが、シェイドが怖れているのは馬に乗ることではない。  ――国王の後ろに従い、王兄として民衆の前にこの姿を晒す。  考えるだけでも怖ろしい話だ。何千もの民衆と貴族が、果たして北方人の王族というものを認めるだろうか。  それでもシェイドが否を唱えなかったのは、その前に王宮を去るつもりでいるからだった。計画は予定通りに進んでいる。もう馬に慣れる必要はない。 「……フィオナ様は、馬には慣れていますか」  後ろめたさを埋めるために、シェイドは会話に応じた。フィオナは嬉しそうにパッと頬を赤らめ、零れるような笑みを浮かべて身を乗り出してきた。 「ええ、勿論! 私は田舎育ちですから、馬を操れなくては何もできません。そこらの殿方よりよほど……あ、いえ、何でもありません……」  快活に話し始めて、フィオナは慌てたように口を噤んだ。その様子に、頑ななシェイドも自然と笑みを誘われそうになる。  彼女は国王の妾妃の座を射止めるよう、サラトリアから言い含められているはずだ。馬に乗るのがそこらの男よりも長けているなどという発言は、淑女らしからぬと思い至ったのだろう。居住まいを正し、少し落ち着いた声で続けた。 「……養父が、もしよろしければ殿下に乗馬を御指南致したいと申しておりました。養父は王都暮らしですが、とても巧みに馬を操ります。私が元いた領地まで、商人たちは王都から五日もかけて馬車でやってきますが、養父は半日ほどで馬を走らせて来るのです」  十ほど離れただけの兄のような義父の事を、少女は目を輝かせて語った。  シェイドは、グスタフの砦で最後に会った時のサラトリアの顔を思い出した。国王でさえ意のままに操る、策士の顔だ。十五歳の田舎娘の心を捕らえ、意のままに操ることなど他愛もない事だろう。  王都に戻って以来サラトリアは一度もここを訪れていない。その代わり、フィオナを通してヴァルダンからの贈り物が定期的に届けられる。選んでいるのはサラトリアらしく、品があって凝ったものばかりだ。今シェイドが被っている大振りのベールも、ここへ戻ってきてすぐにサラトリアから贈られたものだった。遠乗りや円舞会にも誘われはするが、そちらはシェイドが断り続けている。  月に二度開かれる御前会議にはシェイドも宰相として出席するため、その場ではサラトリアとも顔を合わせるが、サラトリアはあくまでも臣下の一人として一段下がった位置に控えていた。その沈黙が不気味なほどだ。 「……御多忙な公爵閣下を煩わせるわけにはいきませんから……」  内心を表すように、シェイドの唇から冷え冷えとした硬い声が漏れた。  ――サラトリアは、今度はいったい何を企んでいるのか。  ヴァルダン程の大貴族ならば、一族の中に国王の妃に相応しい娘など山と居たはずだ。それなのに、どう見ても北方人にしか見えない娘を、しかも妾妃ではなく奥侍女として王宮に引き入れた。あの公爵にしては随分生温い一手だ。  ヴァルダン直系の姫であったタチアナの時と違って、フィオナを力押しで妾妃の座に収めることは、いかなサラトリアでも難しいだろう。  ヴァルダン以外の貴族たちもそれぞれ美姫を用意して、王宮に送り込む手配をしているはずだ。もう間もなく、美しく教養ある婦人が国王の周りを埋め尽くす。そうなれば、奥侍女としてジハードの手が付いているとは言っても、フィオナの存在はひどく霞んでしまうだろう。誰よりもジハードの事を知るサラトリアにしては、駒の選択を誤ったとしか思えなかった。  テーブルの上の乗馬具一式に視線を落として考えに耽っていたシェイドは、場の雰囲気が変わったのを感じ取った。――国王ジハードが来たのだ。 「……フィオナか」  書斎に入ってきたジハードは、自らの奥侍女を冷めた目で一瞥した。  小柄な少女は怯えたように笑顔を曇らせ、強張った表情で礼を取る。シェイドはその様子をひそかに観察した。  気性の激しい王太子だった頃に比べ、ジハードは即位して以来随分と穏やかになったと感じていたのだが、それはシェイドの思い違いだったようだ。この頃のジハードは苛立っていることが多く、それを押し隠すためか表情も硬く険しい。  特にフィオナを前にした時のジハードは、仇でも見つけたかのように怒りか何かを抑え込んだ顔をしていた。 「もう昼だ。一度奥宮殿へ戻った方が良かろう」  まともに視線を合わせもせず言い放つ。フィオナは逆らわず、辞去の口上を述べると足早に書斎を出て行った。  あれほど快活な少女が、国王の前ではまるで怯えた小動物のようだ。男女の仲を推し量ることはできないが、果たしてこれでうまくいっているのだろうか。――そう思いかけて、シェイドは自らもジハードを寝室を共にした初めの頃は同じようであったことを思い出す。  あまりにも激しい交合は、何も知らぬシェイドに恐怖すら覚えさせた。きっと、フィオナも同じなのだろう。 「フィオナとはどんな話をしていた?」  憮然とした声でジハードが問う。シェイドはテーブルの上に置かれた乗馬服に目をやりながら、『馬の話です』と短く答えた。  シェイドが王兄として白桂宮に入るのと同時に、国王ジハードは生活の場を従来の国王と同じ奥宮殿へと移した。  これで顔を合わせずに済むと安堵したのは束の間だった。ジハードはシェイドが偽りの王妃であった時と同じように、食事のたびに白桂宮を訪れたのだ。  右も左もわからぬまま宰相位に就くことになってしまったため、公務以外の場で政に関する様々な話を国王と交わすことは、必要ではある。だが、以前とまるで同じように食事の席で会話を交わしていると、思わず錯覚してしまいそうになるのだ。  ――あの砦でのことは何もかも夢で、悪いことは何も起こらなかった。ジハードは変わらずに自分を愛してくれているのではないか、と。 「馬、か……」  寄り添って歩こうとするジハードから、シェイドは逃げるように距離を取った。シェイドが距離を取れば、ジハードはそれを縮めようとはしない。それこそが、あの悪夢が現実に起こったことだという証だった。 「そう言えば、誕生祭の時にお前が乗る馬が厩舎に届いた。午後から一緒に見に行ってみないか?」  自らを鼓舞するためか、わざとらしいほど明るい声でジハードが話しかけてくる。やってきた馬がとても姿が良く、理知的な顔をしていると。シェイドは左胸を押さえ、無言のまま首を横に振った。  食堂に着くと、すでに昼食の用意は整い終わっていた。今日も干果実を入れた数種類のパンに、保温用の容器に入れられたスープ類もいくつか並んでいる。火を通した野菜に、豆を煮た副菜、酢漬けの香り物。それに、新鮮な果物と冷やした菓子もあった。  椅子に掛けると、給仕の従者は何も尋ねることなく、全てを少量ずつシェイドのために取り分ける。 「今年は穏やかな夏になりそうだ。長雨も干ばつもなく、作物の実りもいいと聞いている。……懸命に育てた民の為にも、少しは味わってやってくれると俺も嬉しい……」  諦めの滲む声でジハードが言った。もう結末は分かっているのだろう。  シェイドは持ち手付きの小さな器に入ったスープを取り上げると、息を吹きかけて冷ましながら、それをゆっくりと嚥下した。  ここへ戻って来てから、固形物はほとんど口にしていない。  体が受け付けなくなっていたのだ。

ともだちにシェアしよう!