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第43話 恋文

『――すまない』  苦渋が滲む謝罪の声に、シェイドは首を横に振って、いいのだと伝えようとした。 『すまない……傷つけて、すまない……すまない……』  闇の中から聞こえる声は、同じ言葉を何度も繰り返す。もう謝らなくていいと、伝えたいのに声が出ない。上から圧し掛かる相手に首を絞められているからだ。 『すまない……すまない……すまない……』  圧し掛かった相手に、シェイドは体を穿たれていた。大きく開いた足の間を、硬く猛々しいものが規則的に出入りしている。突き上げられるたびに腹の底を押し上げられて声が漏れそうになるが、喘ぎは喉で止まって声にはならない。 『……すまない……すまない……』 「……ッ!」  左の胸に焼けつくような痛みが走って、シェイドは声もなく悶える。手足は重くて自由にならず、首を扼されて逃げることもできない。貫かれて血を流す肉片に、冷たい金属の環が通された。人ならぬ卑しい奴隷であることを証立てる札がつけられたのだ。 『淫売め……!』  身を穿つ動きが荒々しくなった。尻の肉を叩く音とともに、腰が激しく打ち付けられる。 『メス犬が』 『北方奴隷め』 『洗礼を受けさせろ』 『掃き溜めの穴にしてやる』  四肢が押さえつけられ、緑色の粘液を滴らせた木の枝が目の前に現れた。嫌だ、やめてくれと叫んでも、首を絞められていて声にならない。ポトリポトリと肌の上に雫を垂らしながら、残酷な淫具が震える屹立に近づいていく。 「――――ッ……!!」  焼けるような痛みの直後に、全身が震えるほどの甘美な疼きが下腹から広がった。  声にならない声をあげ、シェイドは絶頂へと昇りつめていく。頭の芯が真っ白に焼き尽くされ、もう何も考えられない。あまりの快楽に感極まって、閉じた瞼から涙が零れ落ちた。  全身がふわりと宙に浮き上がり……次の瞬間、全ての支えを失って叩きつけられるように落下した。  闇の中から、雷のような罵倒の声が響いた。 『――この薄汚い娼婦め……!』 「――さま、……シェイド様!」  強い声で呼びかけられて、シェイドはハッとなって飛び起きた。  一瞬自分がどこにいるのかわからなくなる。暗くてじめついた地下牢か、それとも寝台以外に何もない砦の小さな部屋か、と。  だが、ここはそのどちらでもない。初夏の爽やかな風が吹く、白桂宮のホールだった。  来客を待つ間に椅子で転寝してしまったようだ。白い大理石でできた柱の合間からは明るい陽光が差し込み、庭の花々は甘い香りを運んでくる。鳥たちは賑やかに囀っており、先程シェイドが置いて来たパンの欠片はもう食べ終わってしまったようだ。 「……すみません。少し、眠っていました」  手に持っていたはずの書類が、風に飛ばされて足元に落ちていた。拾わなければと思うより早く、伸びた手がそれを拾い上げる。内侍の司の長官ラウドだった。 「夜はちゃんとおやすみになっておいでですか。お顔の色が優れませんよ」  落ち着いた様子のラウドの言葉に、この肌の色は元からだと、そんな皮肉が出そうになってシェイドは口を噤んだ。言われているのがそういうことでないのは分かっている。ただ、ひどく神経が立って過敏になっているのだ。  シェイドは頭から被ったベールを落ち着かない様子で掻き寄せた。文官の頭布に似て、それより二回りも大きく作られたそれは、シェイドを腰のあたりまですっぽりと覆い隠してくれる。  第一王位継承者だけに許される星青玉の青と豪勢な金糸の刺繍。細工の美しいこのベールは、白桂宮に戻った日にサラトリアから献上されたものだ。贈り主は気に入らないが、これに体を包んでいれば他人の視線が遮られて気持ちが落ち着いた。 「……眠っています。以前より、ずっと」  白桂宮に来たばかりのあの頃に比べれば――。そう続けようとして、シェイドは皮肉さに唇を噛んだ。  あの頃は夜もまともに眠らせてもらえなかった。  ジハードは遅い時間に戻ってきても必ずシェイドを求めた。交わりが一度で済んだことなどなかった気がする。泣いて、鳴いて、叫んで、声を枯らして喘いで、――いつのまにか意識を飛ばして、目覚めては、また喘いで……。 「……ッ」  考えてはならないことに思いを馳せてしまって、シェイドは短く呻いた。肉を噛む小さな金属が、身の程を知れと告げてくる。無意識のうちに手を当てそうになるのを、ぐっと堪えて息を吐いた。  シェイドは借り受けていた書類をラウドに返した。 「ご協力を感謝します。無理な願いに応えてくださってありがとうございました」 「恐れ入ります。些少なりともお役に立てましたならば、よろしゅうございました」  虫食いの目立つ古い書類を丁寧に揃え、ラウドは持参した物入の中に慎重に戻した。  シェイドがラウドに命じて持ってこさせていたのは、内侍の司に残る覚書だった。  宮内府で保管される公式記録と違って、内侍の司に覚書として残されたものからは、公式記録には載せられなかったさまざまな内情が読み取れる。ベラード領から迎えた妾妃についても、公式記録に書かれていたのは入宮と退宮の日付だけだったが、覚書には月のものの有無や国王が後宮に通った回数まで書かれてあった。  読み込めば、退宮の数カ月前から月のものが途絶えていることがわかり、懐妊の可能性があったことが推測できる。しかし、その後懐妊の有無が記載されていないところを見ると、確認できなかったのか、さもなくばベラード領主であるマクセルからの要望で記載を控えたのかもしれない。  こういった事例がテレシア・ベラードただ一人であったと誰が断言できるだろう。第二、第三の『ラナダーン』がこれからも出てくるかもしれない。不穏分子は先手を打って探し出し、対策を取っておかねばならなかった。  だが、その調査も一区切りがついた。念入りに調べてみたが、先王及び先々王には他に庶子はおらぬという結果が出たのだ。 「ところで……」  書類を仕舞い終えたラウドが、別のものを物入から取り出した。 「またマンデマール侯からお預かり物です。……こちらはエメロード伯。デクスター伯御令嬢からの親書もお預かりしてございます」  数通の親書とともに、絹張りの小箱に入って出てきたのは、珍しい螺鈿細工を施した紙押さえだった。シェイドは傍らに置いた本にそっと手を伸ばした。 「もう二カ月ほどになりますか。……三日と空けずに恋文と贈り物とは、随分なご執心にございますね」  小振りだが粋な紙押さえを目にして、ラウドが揶揄するように言った。  マンデマールは王都の遥か北にあり、シェイドの母エレーナが治めるファルディアに隣接する領地だ。少し前から、シェイドはここを治めるダラス・マンデマール侯爵から求愛されていた。  もっともそれはマンデマール侯爵一人に限った話ではない。宰相として御前会議に出席するようになって以来、さまざまな貴族からの恋文がラウドの手を介して毎日のように届く。中身はどれも似たようなものだ。『月よりも麗しいお方』『一目で恋の虜になり』『忠実なるしもべとして御身にお仕えいたしたく』――詩人に文句を考えさせ、祐筆に記させたのが明らかな戯れの誘いだ。  熱のない視線で手紙を見るシェイドに、ラウドは苦笑を漏らした。 「毎日のように橋渡しやお目通りを望む方がやって来られるので、調べものが進まずに困りました。この中から妾妃か、もしくは恋のお相手を迎えられてはいかがですか」  シェイドは伏せた目を瞬いて相槌に代えた。  内侍の司の長官であった頃、ラウドと話す機会はほとんどなかった。ラウドは先々王に寵愛された奥侍従であり、長く内侍の司に在籍してきた官僚だった。  そのラウドを押し退けて長官の職に就いたのだ。負い目もあって、シェイドは副官だったラウドとまともに視線を合わせることができなかった。  だが今になって、この見識ある元奥侍従がどれほど柔軟な姿勢でシェイドの頑なさを許してくれていたのかがよくわかる。白桂宮に帰還して初めて顔を合わせた時から、ラウドは副官であった時と変わらぬ様子で、誠実にシェイドの頼みを聞き入れてくれた。  そして今は、他の誰にも言えぬような忠告も口にする。 「もう少し気楽に考えられては如何でしょう。シェイド様は若く美しい未婚の王族です。誰に何を憚ることもありません、恋の遊びをなさればよろしい。……そうすれば、少なくとも体の熱に煩わされることは減るでしょう」  最後の一言に思わず動揺して、持っていた手紙が手の中でくしゃりと潰れた。  転寝の最中に何かよからぬことを口走ってしまったのかもしれない。服に擦れた左胸が痛み、顔が羞恥で熱を持った。  シェイドの動揺を目にしたラウドはおおらかな笑みを浮かべ、諭すように言った。 「性の欲求があるのも人の情が恋しいのも、お健やかな証です。お申し付けくだされば、お好みの者をすぐにここへ連れてまいりますよ。シェイド様に奥仕えしたいと志願する者は、男女を問わずに大勢おりますから」  ラウドの言葉を聞くうちに、シェイドは胸を踏みつけられるような息苦しさがあるのに気付いた。手紙を読むうちに、いつの間にか呼吸が速くなっていたようだ。  自分自身を守るようにベールを体に巻き付ける。指先にはすでに痺れたような違和感があった。微かではあるが眩暈と耳鳴りも出始めている。  シェイドはラウドに見られていることにも構わず、手に持ったベールで口元を覆った。  性的な欲求は確かにシェイドを苦しめていた。ジハードの手によって拓かれ、多くの快楽を知った肉体だ。下腹が疼き、足の間にあるものが形を変えてどうにもならぬ時もある。だが己の手でそれを処理しようとすると、息が詰まって先に進めない。  触れているのは己の手のはずなのに、その手が見も知らぬ他人の手のように思えてしまう。手の動きはもどかしい上、解放が近くなると耳の奥に嘲り笑う声が木霊する。息が詰まり、どれほど必死に息をついても少しも和らぐことはない。むしろ苦しさに息を継げば継ぐ程、嘲笑はますます大きく響き、手は痺れて思うようにならなくなっていく。そして、眩暈と耳鳴りに襲われて意識が朦朧とするのだ。  こういう時には意識して呼吸の数を落とすのだと、フラウから教えられていた。ふいごのように上下する胸を抑え込み、ゆっくりと静かに、死に近づいていくかのように息を落とす。  本来なら、あの砦の中で命を終えているはずだった。いや、実際シェイドという名の人間はもう死んだのだ。死人はこれ以上死ぬことはない。土の中で安らかに眠るだけだ。祈るように、そう自分に言い聞かせた。 「…………」  土の中の死体になったつもりで密やかな息をするうちに、眩暈と耳鳴りは遠ざかって行った。ベールを握る指先からも違和感は消えている。心も凪いで落ち着いてきた。  シェイドはきつく布を握りしめていた手を漸く離した。 「……そうですね。それも良いかもしれません……」  他人事のように冷静に、そう口にすることができた。ラウドの眉が僅かに上がった。  それには気づかず、シェイドは本の間から、あらかじめ用意してあった一通の手紙を取り出した。 「ではこれを……マンデマール侯まで届けていただけますか。できれば今日にでも」  差し出された封書を、ラウドは一瞬沈黙して見つめ、すぐに両手で受け取った。  安堵の息を吐いたシェイドに、王宮暮らしが長い元奥侍従は慎重に言葉をかけた。 「戯れと割り切っておいでならばよろしいのですが、侯は若い頃には艶福家で鳴らした御仁です。あまりお心を許されませんよう……」  恋の遊びをけしかけておきながら、今度は自制を促すかのようなラウドの言葉に、シェイドは小さな苦笑いを漏らした。  若い頃のマンデマール侯の艶聞は、内侍の司に在籍していたシェイドもよく知るところだ。あそこにいれば、宮廷に出仕する貴族たちの様々な裏事情が嫌でも耳に入ってくる。それも加味した上で、人選は慎重に行ったつもりだった。 「……あまり熱心に口説いてくださるので、お返事くらいは構わぬかと。侯は先年奥方を亡くしておいでですから、きっとお寂しいのでしょう」 「然様でしたか。では確かにお預かりいたします。これをお渡しするときの侯のお喜びようが目に浮かぶようですよ。親書をお預かりするたびに、何かお返事を預かっていないかとせっつかれて困っておりましたから」  忠告を軽口に変えて、ラウドはそれを上着の隠しに仕舞い込んだ。シェイドは知らず詰めていた息をそっと吐きだした。  友人や恋の相手を作るつもりなど毛頭ない。だが恋文の返事だと匂わせておけば、ラウドは誰にも知られないように、あの手紙をマンデマールの城下屋敷に届けてくれるだろう。  石を一つずつ積み上げるように、計画は着実に進んでいる。残されているのは最後の巨石だけだ。  ホールを後にする元副官の後ろ姿を見送りながら、シェイドは書斎に隠したファルディアからの親書を脳裏に思い浮かべた。

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