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第44話 旅立ち

 夜が明ける前の、最も暗く空気が冷える時刻にシェイドは目覚める。それは夏でも冬でも変わらぬ習慣だ。  名残を惜しむように暫く身を横たえていたが、やがてシェイドは一人きりの広い寝台から身を起こし、窓を二重に覆う帳を開いた。空は仄かに明るさを帯び始めていた。  王都ハルハーンはウェルディ神が住まう神山を背に造られた城塞都市である。王宮はその最奥に建てられており、政務の場である表宮殿と王族の住まいである奥宮殿から成り立っている。  その奥宮殿の中にある白桂宮は、もとは後宮であった場所を取り壊し、ジハードの手によって新たに築かれた小宮殿だ。白い大理石で作られた宮には折々の花が楽しめるよう、意匠を凝らした中庭がいくつも作られていた。そのどの庭にも必ず植えられているのが『シェイド』の花だ。  春先から初夏になるまで庭を白く染めた大振りの花は、今はもう季節が過ぎて散ってしまった。その代わりに青々とした葉が蔓を伸ばして広がり、顔を近づければ清涼な香りが楽しめる。徐々に明るさを増す庭に広がる葉を、シェイドは見つめた。  緑も鮮やかな葉は、この国から放逐されかけたことも知らぬげに、朝露を纏わせて輝いている。同じ名を持つ己もただの草花であったなら、どこで咲こうが疎まれようが、悲しむ必要もなかっただろうにと、そう思えてならない。  数日前に、王都でシェイドが為すべき役割は、すべて終わってしまった。  王の系譜にジハードの王位を脅かす血統のものはいなかった。いずれフィオナはジハードの嫡子を身籠り、妾妃に迎えられるだろう。王妃の座は本来あるべき血筋正しい貴族の姫が埋めるはずだ。カストロ・デル・ナジャウが失脚した今、旧国王派も担ぐべき旗を失った。宮廷は徐々にでも一つに纏まっていくだろう。憂いはない。  ――あとはただ、この身を消し去るだけだ。  寝ずの番をしていたフラウに声をかけ、一人で浴室に入った。新鮮な香草の匂いに包まれながら、シェイドは湯の中で左の胸につけられた金属の札に触れてみる。滲みるような痛みがあった。  つけられてから三月以上にもなるというのに、胸の傷は治る兆しを見せなかった。下賤な札を嫌うかのように赤く腫れあがり、触れると痛みとともに血を滲ませる。どうにかして外せぬものかと何度か試みてはみたが、輪になった部分がガッチリと噛み合い、とても外せるものではなかった。そもそも、容易に外せるようならは終生奴隷の証とはなっていないだろう。  これが身を噛んでいる限り、王宮の中で死ぬわけにはいかない。  念入りに身を清めた後、シェイドは自分で用意した服に着替えた。手はずはもう整っている。あとはジハードを説き伏せるだけだ。  旅装で現れたシェイドを、先に食堂に来ていたジハードは強張った顔で迎えた。  シェイドは少し前に届いた親書をジハードの前に差し出した。 「――ファルディアから、母が危篤との知らせを受けました。これが最期となりますので、側に行ってやりたく思います」  書面に目を走らせたジハードは、何かを抑え込むように目を閉じて喉を鳴らした。  ジハードに見せた親書は、ファルディアでエレーナの側近く仕える侍女から届いたものだ。  先王ベレスの崩御の後、領地であるファルディアに出立したエレーナは、厳しい冬の間に病がちとなり、床に就くようになった。春になっても病状は回復せず、過ごしやすい北の夏を迎える頃には食事もほとんど喉を通らなくなった。  ファルディアの医師によると、体力が損なわれ過ぎて、もはや回復の見込みはないとのことだ。 「……急ぎ王宮から医師団を派遣する。ファルディア公は俺にとっても母に等しい。誕生祭が終わったらともにファルディアまで見舞いに行くから、それまで待ってくれ」  苦渋の滲むジハードの答えに、シェイドは首を横に振った。これは母が最期に与えてくれた機会なのだ。  ベレス王の死後、新王となったジハードは北方娼婦の出身であるエレーナを手厚く遇してくれた。  ベレスが与えた領地を取り上げなかっただけでなく、北の大陸から流れてくる北方人たちを支援せよとの名目で、租税をほとんど免除としている。それらのことを、シェイドは宰相位に就いて初めて知った。  遠いファルディアまで自ら足を運んで見舞おうというのも、口先だけの誤魔化しではあるまい。誕生祭を控えたこの時期でなければ、ジハードは言葉通りにしてくれただろうと確信できる。  だからこそ、シェイドは機が熟すのを待っていたのだ。 「いいえ、私は今日出立いたします。親子として語り合える最後の機会です。母にはもう、誕生祭が終わるのを待つ時間は残されていません」  シェイドがそう答えることを、ジハードは半ば予想していたようだ。 「では、せめて数日だけ待ってくれ。ファルディアまで行くには、色々と準備が必要だろう」  ――だが、それ以上のことは想定していなかったに違いない。 「いいえ、もう準備はできています。迎えの馬車が表宮殿で待っていますから、後は私が行くだけです」  シェイドの答えを、ジハードは愕然とした表情で聞いた。  もはやシェイドは白桂宮に幽閉される名もなき北方人ではない。宰相位に就く王兄として、僅かではあるが意のままに動かせる人脈を手にしている。王宮を出ると伝えたのは、ジハードの許しを得るためでなく、決定事項を伝えたにすぎない。  ファルディアはウェルディリアの最北端にある。地図上では一見近く見えるが、馬車で行くにはハルハーンの背後を護る神山山脈を大きく迂回しなければならないため、掛かる日数は十日近くにもなる。一か月後に誕生祭が迫ったジハードには様々な準備があり、どうあがいても出向けぬ距離だ。  実際には、手紙が届いたのは半月ほども前だった。シェイドは内侍の司での調査を急がせながら準備を進め、ジハードが決して動けぬ時期が来るのを待った。王都駐在の軍はすでに誕生祭のための配置が決まっているし、主だった貴族たちも誕生祭に向けて様々な準備をしているところで、協力を呼び掛けても動きは鈍いはずだ。  絶好の機会だった。 「……ここに、戻ってくる気は、あるのか……?」  呆然とした様子でジハードが問いかけてきた。  ジハードにもわかっているのだ。母の見舞いというのはただの口実で、シェイドが王宮を出て二度と戻ってこないつもりであることを。  シェイドは答えなかった。 「俺が……行かせると思うか……? 俺が一言命じれば、白桂宮の扉を開ける者はいない。お前をずっとここに閉じ込めておくことだってできる」 「ならば、そうなさいませ」  ジハードがそう命じることは想定の内だ。シェイドは落ち着いて答える。残酷な言葉だが、扉を開かせるにはこう言わなくてはならない。 「母を殺そうとした貴方が、今度は死に目にも会わせぬとおっしゃるのなら、私はここで朽ちましょう。水一滴口にせず、枯れ果てて死んでいくのをご覧になられればよろしい」 「……シェイド……ッ!」  ついに感情を抑えかねたように、ジハードは掴みかかってきた。シェイドはそれから逃げなかった。良くも悪くもこれが最後だ。ジハードの身体の温もりや肌の匂いを全身で感じ、覚えておきたい。  堪えてきたものが爆発したように、ジハードが叫んだ。 「俺は……ッ! 俺は、お前の望みをすべて受け入れてきた……ただ、生きて……少しでも幸せでいてくれれば、それだけでいいと……――なのに、何故だッ!」  シェイドの身体を腕の中に抱きしめ、ジハードは感触を確かめるように両手で触れた。元から線の細い体は、数カ月の間に一回り痩せて小さくなっている。それを感じ取ったジハードが、嗚咽を堪えるように声を詰まらせた。  騒ぎに気付いて駆け付けたフラウが、国王の醜態を見せまいと給仕の従者を全員下がらせた。割って入ろうとするフラウを、シェイドは目顔で制した。  ジハードはシェイドの身体を抱いたまま、崩れるように床に座り込んでしまった。肩口に顔を埋め、苦渋に満ちた声を絞り出す。 「……どうすればいいのか、言ってくれ……愛しているんだ……お前に生きていて欲しい……お前を守りたいんだ。どうすれば、お前は……ッ」  強く抱きしめてくるジハードの体の震えを感じながら、シェイドは涙さえも滲まぬ瞳で虚空を見つめた。  ただ生きているだけのことが、耐え難いこともある。  自分はフラウのように強い人間ではない。この数カ月というもの、夜ごとの悪夢に追われ続けてもう疲れてしまった。胸にこの札が下がっている限り、忘れることも乗り越えることもできはしないのだと、嫌というほど思い知らされた。  自分を愛したせいで苦悩するジハードを見るのは苦しく、ジハードが他の人間を愛するのを見せられるのはもっと苦しい。世継ぎの王子を得るためだと分かっていても、ジハードの隣に妃が並ぶ姿を見るのは耐えられない。あの無邪気なフィオナにさえ、憎しみと嫉妬の視線を向けてしまいそうになっている。  ジハードを愛していると言いながら、結局は己の欲得しか考えられないのだ。愛されたい。許されたい。独り占めにしたい。――そんな自分を地上から滅してしまいたかった。 「……もう、私を解放してください」 「嫌だ! 手を放せば死ぬと分かっていて、どうして放せるはずがある!」  幼子が駄々をこねるような返事に、心を揺るがさぬはずのシェイドも胸を締め付けられる。痛いほど抱きしめてくる腕の強さが愛しさを募らせた。  ジハードの心に応えられたらどんなに良かっただろう。だが、もうそれは叶わぬことだと、左胸の痛みが教えてくれる。  泣かぬと決めたはずなのに、涙が滲みそうになってシェイドは虚空を見つめた。

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