45 / 64

第45話 王都脱出

 太陽は中空を過ぎ、西へと傾き始めた。  ジハードは政務を取りやめて、ずっとシェイドの身体を腕に抱いていた。  二人とも朝起きてから何も口にしないまま、半日以上が無為に過ぎている。急遽組まれた医師団が王都を出立してファルディアに向かったと知らされたが、それでシェイドの決意が変わるはずもない。 「……初めて見た時は、侍女だと思ったんだ」  ジハードの説得の言葉も疾うに尽きていた。床に座り込んでシェイドを抱いたまま、ジハードはぽつりぽつりと思い出を語り続ける。 「……お前は、愛らしい少女のようだった……毎晩毎晩思い出しては……今度はいつ会えるかと、胸を高鳴らせて……」  先王ベレスの側仕えを始めた頃のことを、シェイドも思い出す。少年用のお仕着せを身に着けているというのに、確かに侍女に間違われることが多くて不思議には思っていた。  当時、王太子だったジハードと顔を合わせた覚えはまったくない。一番古い記憶は、ベレスの寝室で罵倒された時のものだ。  きっとあのことがなければ、シェイドは『王太子ジハード』という存在が地上にあることも気づかぬまま日々を過ごしていたのだろう。誰かを愛することもなく、ただ命じられるままに動く人形のように。 「今はあの頃よりもっと綺麗だ。婚礼の時も……あのまま天に還るのではないかと思うほど美しかった……どんなに誇らしかったことか……」  冬の最中に行われた婚礼の事をジハードは語る。そう言えば、大神殿の前で待っていたジハードは、シェイドを馬車から抱き上げて以降、ずっと腕に抱いていた。  シェイド自身は群衆や貴族の目に晒されていることが怖ろしくて、儀式の間はほとんど俯いてばかりいたが、時折顔を上げるとジハードが誇らしげに視線を合わせてきたことを覚えている。  雄々しく威厳に満ちた姿は、戦神ウェルディが地上に降りてきたかと思うほどだった。美しく神々しいのはジハードの方だ。 「グスタフの砦では、初めて俺に笑いかけてくれただろう……嬉しすぎてあの夜は眠れなかった……馬車の中でも離宮に着いてからも、お前の寝顔をずっと見つめて、幸せを噛み締めていたんだ……」  そんなこともあったと、シェイドも幸せだった過去に思いを馳せた。  辿り着いたミスルの離宮で、ジハードは化け物と呼ばれたシェイドを受け入れてくれた。あの時、シェイドは改めてこの地上に生を受けたように感じたものだ。  ウェルディの代理者として祝福を与え、肌に触れて清めてくれた。触れられることは心地よく幸福なことなのだと、あの時初めて知った。  ――けれど、言祝ぎを受けた肉体は、砦で逆賊に穢されてしまった。短く切られた髪と同じで、元には戻らない。 「……なにがあったのか、教えてくれ……俺は、それを受け入れる。俺の気持ちは何も変わらない……」  肩までの長さになった白金髪に顔を埋め、ジハードが呻くように言った。  気持ちは変わらぬとジハードは言うが、そんなことはありえない。シェイドは奥侍従としての資格をただ失っただけではない。卑しい傭兵たちの手で快楽に堕ちたのだ。  男たちの手に堕ち、欲望に奉仕し、体中に卑しい精を浴びせられた。今もこの肉体の奥から溢れ出してくるのではないかと恐怖するほど、何人も、何十人もの体液が中に注ぎ込まれた。  例えジハードが許しても、シェイド自身が自分を許せない。こんな穢れた体をジハードに差し出すことは、ウェルディへの冒涜にも等しい。あれば未練が残るというのなら、跡形もなく焼き滅ぼしてしまわなくてはならないのだ。 「……王宮を、離れるだけです……」  優しい声で、シェイドは囁いた。 「ファルディアなら、北方人との混血が大勢いるでしょう。私にはあの地の方が生きやすいはずです」  ――これは偽りだ。  ジハードも、シェイドの真意がどこにあるかはわかっているはずだ。けれど、彼はそれを受け入れられない。ならば、受け入れることのできる言葉で偽るしかない。 「遠く離れて二度とお会いすることがなくとも、幸福に暮らします。ファルディアの地で、陛下の御代の幸多きことを毎日祈って過ごしますから」  広い背に両手を回し、力の限り抱きしめる。筋肉質な逞しい背中だ。だが、少し痩せた。  涙が出そうになって、シェイドは声に力を込めた。 「――もう、私を解放してください」  夏の日が長いとはいえ、夕暮れは間近に迫っていた。シェイドは表宮殿を足早に通り抜ける。王都の城壁は日没と同時に橋が上げられ、翌朝日が昇るまで通行できなくなるからだ。  表宮殿の車止めには大きな黒塗りの馬車が一台待っていた。紋章はないが、シェイドの姿を目にした御者が慌てて足台を用意したので、マンデマール侯の馬車で間違いないだろう。 「遅くなってすみません。何とか日没に間に合わせてください」 「はい、ただいま!」  シェイドが乗り込むと、御者は即座に鞭を打って馬車を走らせ始めた。  ファルディアと隣接するマンデマールの領主に、シェイドは手紙で助けを求めていた。  宰相の任が重責であり、生母の領地であるファルディアに隠遁したいが、国王の許可が下りない。どうかファルディアまで送り届けてくれるよう、侯の好意に縋りたいと。  ダラス・マンデマールからは直ぐに返信があり、表宮殿の車止めに馬車を用意しておくので、いつでも使ってくれてよいとの内容だった。  ダラスは元々旧国王派にも旧王太子派にも属さぬ中立派だ。王都から遠く離れた地方領主であるためか、宮廷での勢力争いには無関心に近く、若い頃から色事に絡んだ話がとかく多い。だからこそ、彼を選んだ。  三日と空けずに届けられた恋文の中にも、シェイドを王兄として利用しようという思惑は見当たらなかった。夫人は先年亡くなっているが、領内に多くの妾を持ち、子息子女も大勢いる。マンデマールにはファルディア同様、北方人が大勢流れついているはずだ。少々毛色の変わった相手と戯れてみたいといったところか。  万が一、ダラスに迫られたとしたら、おそらくシェイドには抗いきれないだろう。御前会議で見かけたダラスは、もう若くはないが恰幅のいい男で、シェイドとは倍ほども体格が違う。王兄の胸に奴隷の証がついているとは夢にも思わぬだろうから、裸体を晒せば替え玉の奴隷だと思われるかもしれない。それならそれでいいのだ。奴隷として葬られるのだとしても、死体がジハードの目に触れさえしなければそれでいい。 「橋を渡ります!」  御者が声をかけてきた。どうやら間に合ったようだ。  馬車が城壁を潜り抜け街道に出た。石畳の上を走る車輪の音の合間に、縄を巻き上げて跳ね橋が上がっていく音が微かに聞こえた。  長旅用の馬車は、今まで乗った物に比べ格段に広く作られていた。  綿をしっかりと詰め込んだ広い座席に、折り畳み式のテーブル。足元には靴を脱いで足を乗せる台もある。頭上と座席の下にも小さな棚が作られていて、細々した品を入れておけるようになっているらしい。  マンデマールまでの旅程がおよそ七、八日。その先のファルディアに行くにはさらにもう一日二日かかるという。王都の近くには大きな宿場町も点在しているが、北へ行くほど道は細くなり宿をとるにも難渋する。そのため、地方領主たちはこういった馬車を使って寝泊まりしながら、はるばるハルハーンまでやってくるのだ。  馬車の旅にはてっきりダラス・マンデマールも同行するものと思っていたのだが、御者は馬を止めようとしない。どこかの宿場で後から落ち合うつもりなのだろうか。  御者と二人きりと言うのはどうにも心もとない。――そう考えた矢先、シェイドの耳に聞き覚えのある音が聞こえ始めた。低く響く、蹄鉄の音だ。 「……」  耳鳴りのような音は瞬く間に大きくなり、疾走する馬車の中にいてさえ明確に感じ取れるようになった。あれは大勢の騎馬団が馬を駆けさせる蹄の音に間違いない。ラナダーンの軍勢に襲撃され、旧エスタート砦へと拉致された時のことが脳裏をよぎった。  思わず馬車の窓を覗きに行こうとしたが、整備されていない道に入ったのか、突然揺れが激しくなりとても立つことができなくなった。御者は落ち着いて馬を制御しているようだが、果たしてこの騎馬団は何者なのだろう。  追い抜いて走り去ってくれという願いもむなしく、馬車が騎馬団に取り囲まれる気配がした。 「……ッ!」  不意に、大きな音とともに衝撃があり、馬車が一瞬傾いた。座席から投げ出されそうになって、慌てて肘掛に縋りつく。馬車は揺れた後も変わらず疾走し続けており、周りを取り囲む騎馬団もそのまま並走を続けているようだ。  いったい今の衝撃は何だったのだろうと思った瞬間、開くはずのない馬車の扉が開いた。  扉の外は宵闇が広がりつつあった。その薄闇を切り取ったように、黒い人影が扉の隙間から中へ入り込んでくる。  先ほどの衝撃は、並走する馬からこの人物が馬車に飛び乗ってきたときのものだったのだ。 「……誰です……!」  乗馬用の帽子を目深に被り、腰までの外套を纏った人影は、マンデマール侯より明らかに若い。すらりとした長身を持ち、外套の上からでも逞しく引き締まった軍人風の体つきであることが分かった。  シェイドの誰何に応えるように侵入者が帽子を取った。 「……お久しぶりです、シェイド様」  その姿を見る前に、耳に飛び込んできた声が相手の正体をシェイドに知らせた。  国王ジハードの右腕として、王都にいるはずの青年貴族。若くして公爵位を継ぎ、いずれは次代の王の外祖父となるはずの男だ。 「ヴァルダン公爵……!」  シェイドの声に、サラトリアは柔らかそうな巻き毛を揺らし、脱いだ帽子を胸に当てて恭しく一礼した。

ともだちにシェアしよう!