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第48話 愛する人よ
ファルディア領に入り領主の館に着いたのは、王都を出た夕刻から数えて八日目の朝だった。
到着したシェイドたちを待っていたのは、沈鬱な表情の医師団だった。
「昨年領地にお戻りになられてから徐々に食が細くなり、ここ数カ月はほとんど食事をお摂りになれなかったようです。非常に厳しい状況でございます」
馬を使って数日早く到着していた医師団は、エレーナを回復させようと手を尽くした様子だった。だがついに水さえも飲めない状態になり、今はもう死を待つばかりだという。
シェイドは面会を願い出た。
館の二階、南向きの明るい部屋にエレーナの寝室があった。憔悴した様子の侍女と入れ違いに、シェイドとサラトリアは部屋の中に入った。
大きな寝台の中には、埋もれるように一人の婦人が横たわっている。窓の外を見ていた顔がこちらを振り向き、来訪者の姿を認めて笑みを浮かべた。
「……お久しぶりですね。お元気にしていらっしゃいますか」
シェイドも少し笑いかけ、寝台の側の椅子に腰を下ろした。サラトリアが守るようにその背後に立つ。エレーナは背の高い公爵にも視線を向けた。
「子爵も……ファルディアへ出立する日にお見送りに来てくださって以来ですね。お礼を申し上げる機会を逸しておりましたが、館を整えてくださってありがとうございます。おかげさまで不自由なく暮らせました」
「ご無礼を働いたことへの償いにもなりませんが、少しでもお役に立てたのでしたら幸甚に存じます」
エレーナの受け答えはとても病人とは思えぬほどしっかりしていた。
だが元々白い顔は青白く、頬は痩せこけ唇は渇いてひび割れている。掛物の上に出た手も骨が浮き、生きて会話できるのが不思議なほどだった。
「母上……」
シェイドは手を伸ばして、掛物の上の小さな手を握った。夏だというのに指は冷たく、乾ききってまるで枯れ木のようだった。
ここへ来るまで、エレーナの危篤の知らせはシェイドにとって王都を抜けるための口実に過ぎなかった。
最後の手紙を受け取ってからも相応の日にちが経過している。到着する前に命が尽きていても仕方がないと、どこか冷めた気持ちで考えていた。だがこうやって死にゆく母親を目の当たりにすると、生きているうちに会うことが出来て良かったと心から思う。
エレーナは儚い笑みを浮かべた。
「……貴方に母と呼んでもらう資格は、私にはありません。けれど、私たちは確かに血の繋がった親と子のようですね……」
細い指先が少しやつれたシェイドの頬へ伸ばされた。白い肌と青い瞳、色のない白金髪。だがエレーナが言っているのは外見の事ではなかっただろう。痩せて生気の乏しい息子の姿に、彼女は自分と同じものを見出したのに違いない。
「後を追うつもりはなかったのです。でも、ベレス様は私の全てでしたから。……あの方のいない世界でどうやって生きて行けばいいのかがわからない……何のために毎朝眠りから目覚めるのか、その意味を見出せなくて……」
愛しい相手を喪った世界は色褪せ、エレーナにとって何の意味も持たなくなってしまった。
どうして朝になると目覚めるのか。寝台から起きて食事を摂り、体を動かすのは何のためか。無事を祈る相手はもういないというのに、どうして自分はここに生きているのか。
言葉通り、エレーナにとってベレスは彼女の全てだったのだろう。生家が没落し、幼い北方娼婦として娼館に売られた彼女を救い出したのは、行幸中のベレスだった。
ベレスは北方人の彼女を妾妃として迎え、後宮に居場所を与えた。親子ほども年の離れた彼女が一人残されても生きていけるよう、治めるべき領地も与えた。エレーナはベレスに愛され、ずっとベレスの為だけに生きていた。
宮廷の華やぎも領地の民の幸福も、エレーナには何の意味も持たない。たった一人の血を分けた息子さえ、彼女の生きる意味にはなり得ないのだ。
「……ベレス様のお話を聞かせてくださいませんか。私は父上の事をほとんど何も知らずにきましたから」
これが最期の会話となる母親に、シェイドは乞うた。
シェイドにとってベレスは、側近くに仕えていた時も『国王』でしかなかった。心許した愛妾の前で、ベレスはどのような人間であったのか。人として、父としてのベレスをシェイドは知りたかった。
「そう……では何から話しましょうか。思い出がたくさんありすぎて……」
微笑みを浮かべながら、エレーナは途切れ途切れに話し始めた。
穏やかな時間が過ぎた。
時折は昔を懐かしむように、時折は幸せを噛み締めるように、エレーナは胸に大切にしまっておいた思い出をシェイドに語った。
やがてその声が間遠になり、部屋には静寂が下りた。呼吸が徐々に小さくなっていく。弱々しくなったそれが消えてしまうまで、シェイドとサラトリアは部屋を離れなかった。
半日ほど昏睡した後、彼女は唯一の肉親に見守られながら、波乱に満ちた生涯に幕を下ろした。
神山を臨む南側の庭に、墓守がエレーナのための墓穴を掘っている。二階の寝室からその様子を見下ろしていたシェイドは、サラトリアが戻ってきた気配を感じて振り向いた。
サラトリアは手に折り畳んだ絹の手巾を握っていた。窓辺の椅子に座るシェイドに歩み寄ると、青年は手巾の端を開いて中に収めた金の髪の束を見せた。
「主だった領民の挨拶も終えましたので、御髪を一房いただいて参りました。王都へ戻り、ベレス陛下の墓所のお近くに埋めて差し上げましょう」
差し出されたそれを暫く見つめたが、シェイドはそっと包み直してサラトリアに押し戻した。
「その任は、どうか公にお願い致したく存じます」
「シェイド様」
「私は……」
王都に戻る意思はないと首を振って告げるシェイドに、サラトリアはそれ以上言い募らなかった。手巾を上着の隠しに収め、落ち着いた様子で向かい側の椅子に掛ける。
何かを悟ったような穏やかな笑みが、サラトリアの顔に浮かんだ。
「よろしいですよ。シェイド様がお戻りになられないのでしたら、私も戻りません。貴方がここで暮らされるなら、私もここで暮らします。王都へは使いをやりましょう」
労わりの籠った優しい声に、シェイドは首を横に振った。
「いいえ、貴方は王都へ戻ってください。国王陛下には貴方の援けが必要ですから」
微笑みが寂しげに曇った。
サラトリアは何もかも投げうって、この北の果てで暮らすと言ってくれた。ヴァルダン当主としての責務も、国王の右腕としての地位も捨てて。
だがこの地上に、シェイドが生きていくべき場所はない。これから進むのは、誰も伴うことのできない道だった。
言葉にしないその答えを、サラトリアはすでに察していたのだろう。
彼は懐から物入を取り出し、テーブルの上に置いた。蓋を開けると、中には褐色の小さな丸薬が二つ入っていた。
「では、これなら受け取っていただけますか? ――苦しまず、安らかな眠りにつくことができる薬です」
シェイドは青い目を見開いて、向かいにあるサラトリアの顔を見つめた。サラトリアは明るい榛色の瞳でまっすぐにシェイドを見つめ返してきた。
「どこまでもお供すると申しました」
シェイドは小さな容器に入った薬を見つめた。
二つ用意された丸薬は、一つはサラトリア自身の分だろう。静かな声にサラトリアの決意が滲んでいるような気がして、シェイドは目を閉じ、息を吐いた。
愛していると、サラトリアは言う。シェイドの過去を知ったうえで、愛を返せなくても良いとも。
――サラトリアの求愛を受け、ここで共に暮らしていく道はあるだろうか。
そんな考えが頭をよぎったことも確かにあった。
サラトリアはきっと自分を守ってくれるだろう。彼は傷の癒し方を知っている。腕の中で守られて過ごせば、身も心もきっと癒されていくはずだ。
長い時が過ぎれば、いつかはあの砦での出来事も過去のものとなり、サラトリアを愛せる日が来るかもしれない。幸福だと、生きていてよかったと、思える日が来るかもしれない。
だが、ジハードを忘れる日は、きっと永遠に来ない。
ジハードに愛されたことを忘れることはできないだろう。あの気高いウェルディの化身を愛し、恋焦がれ、嫉妬に狂った自分を忘れる日も訪れない。どんなにサラトリアを愛そうと努めても、心の隅にはジハードが住み続ける。
だとすれば、サラトリアとともにいても裏切りへの嫌悪が付き纏い、自分を蔑んで生き続けねばならない。それが果たして幸福だろうか。
それにサラトリアはこの国に必要な人間だ。ジハードが即位してから、まだたったの一年しか経っていない。この国を強くするには、ヴァルダンの持つ権力と財力が不可欠だ。ジハードとウェルディリアのためにも、サラトリアをここで失わせるわけにはいかなかった。
「――公。私は公のご厚意に感謝しています。ですが、旅立ちは一人で逝かせてください」
シェイドは手を伸ばし、丸薬を二つとも、サラトリアが止める暇もなく口に含んだ。
「シェイド様!」
椅子を立ったサラトリアが慌てた様子で肩を掴んできた。喉を鳴らせば苦みのある丸薬の匂いが鼻から抜けて行く。
完全に嚥下してしまったのを知ると、サラトリアは悔しそうにシェイドの肩を揺さぶった。
「貴方は! どうして生きようとなさらない! 誰のために命を絶とうというのです!? 最期に教えてくださってもいいでしょう!?」
叫ぶようなサラトリアの声が聞こえた。痛いほど肩を掴む手が震えている。だがそれらの感覚は、数回息を吐く間にも遠ざかっていった。長旅の疲れも相まってか、急速な眠気に襲われて、シェイドは重い瞼を瞬かせた。
窓からは鮮やかな緑に彩られた神山が間近に見える。建国の男神が棲まう山は、世界を切り取ったように向こう側を覆い隠していた。
あの山の向こうはもうハルハーン――男神の末裔が治める、城壁に囲まれた都があるはずだ。
「……ジハード……」
この穢れた体を脱ぎ捨てて魂だけになったなら、神山を駆け抜けてあの地に戻りたい。愛しいジハードの側で、彼の治世が長く平穏に続くのを見守るのだ。
背に翼を得て鳥のように飛び立つ姿を思い描きながら、シェイドはサラトリアの腕の中で瞼を閉じた。
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